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経済・政治・国際

2017年7月29日 (土)

イデオロギーで分類するんじゃなく、食べるために働かなきゃいけない、職場のストレスをジョッキ一杯のビールで癒やすような人たちの代表として、力いっぱい働く、そんな政治家を永田町に送り込みたい。有名人なんてもういらない。

先日朝早く、っていうか深夜の三時半に目が覚めてしまって、眠ろうとしても、どうしても眠れないので、仕方ないから布団の中であれこれ、いろんなコトを考えた。

たとえばこんなコト。

①リクルートスーツなんてモノを着て、会社訪問なんてことをやる人。
②職場が合わなくて、辞めたいけど、年金がもらえる65歳まで働かないと、食べていけない人。
③長期間の住宅ローンがあって、起業する度胸も才能もないから、やっぱり会社員として仕事しなきゃ、食べていけない人。

世の中の大半は、そうやって平凡に、額に汗して働いている人たちでしょ。
もちろん、ぼくもそう。

ところが、いまの日本で政治の世界を牛耳っているのは、上記の①②③には該当しないでしょ。
④親や祖父の代から、政治家だったり、町の名士で政治と関わってきた人。
⑤生まれながら頭脳明晰で神童とよばれ、エリート街道をひた走ってきた人。
⑥スポーツや芸事で特殊な才能を発揮して、若くして有名人になった人。
プラス⑦宗教関係の人

政治の世界っておおむね上記のパターンで、その中でも一番トップにいる人が自民党に入って、一番になるには、何か不足していて、自民に入ってもトップにいけないような人が民進党とか維新とかに入るっていうのがおきまりのコースでしょう。

①②③のような平凡な人の代表って言うと、昔は社会党や民社党っていう社会主義ベースの党があったけど、冷戦終結とともに、消滅してしまったし、いまなら共産党が社会主義ベースの党なんだけど、マルクスレーニン主義というイデオロギー自体、勘弁して欲しいって気分があって、ぼくたち凡人の代表が政治の世界にいないから、どこにも投票する気がなくなっちゃう。

選挙に足繁く通うのは今の状態を維持するのに必死な成功者である④⑤⑥⑦の人たちだから、アベ某が5年間も君臨して、やりたい放題やっちゃって、「国民の生活が大切なんて政治は間違ってる、日本だけが道議大国になれる」なんて形而上学的ことを言ってるおばさんが防衛大臣でも、だれも文句を言わず、マスメディアも消えた年金のことなんかも、忘れたフリして話題にしないようにしてた訳でしょう。

でもさあ。イデオロギーファーストの国政なんか、もう二度と見たくないんだよね。
保守とかリベラルとか、右だの左だのって、いまだに新聞は古くさい分類方法で、政治家や政党を分類してるし、ネトウヨなんかも、そんな昭和時代の分類方法で、国民を分類して、敵だ味方だ、反日だ、なんだって言ってる。
イデオロギーで分類するんじゃなくて、額に汗して、食べるために働かなくちゃいけない、辛い職場のストレスをジョッキ一杯のビールで癒やしているような人たちの代表として、力いっぱい働いてくれる、そんな政治家を永田町に送り込みたい。有名人なんてもういらない。
そして、産業報国会を作っちゃいそうな連合のような労働貴族じゃなく、①②③の人たちを支持基盤にした政治勢力ができれば、きっとぼくは投票に行く。

日本にないものって。労働党なんだよね。戦前ですら、あった無産政党が、今は存在しないのが日本の不幸だと思う。

ちょっとだけ期待していた、民進党の山尾志桜里さんが、横浜市長選で自民党推薦候補の応援をしているのを、寝床のなかで見て、上記のようなことを思いついた。

高田渡が歌ってるような、こんな平凡な人たちが大事にされる世の中が来ることを祈りつつ。

2016年11月 5日 (土)

そうじゃなくて、ぼくのおばあちゃんがこさえてくれた綿入り半纏のように、平凡な農家の人が作る、土の匂いのするような日常使いのモノたちに強烈なシンパシーを感じるのです。

「懐かしき未來」の仕事で草木染めのことをあれこれ調べていたら、ふと気づいたことがある。
柳宗悦『手仕事の日本』って、もしかすると将来の日本のあるべき姿を書き記した未来の書なんじゃないかっていうこと。

柳が「若い青少年を目当てに書いた」というこの本を、ぼくは長い間ずっと軽く考えていて、いまやっている仕事の関係で、読み返したけれど、銘仙の産地である伊勢崎や桐生や足利を切って捨てる感じで扱っていて、ちょっと不愉快で、反論のコラムを書いたくらいだ。

柳は繰り返し、「手仕事」の重要性について書いているから、そちらに目を奪われてしまうけれど、未来の日本の経済や産業のあり方について、とても大事なことを書いている。
それは都と鄙との関係。さらに、材料をどこから仕入れて、誰が、どうやって生産するかという問題。

例えばこんな記述がある。

ただそういう手技は、いち早く外来の文化を取入れた都市やその附近には少く、離れた遠い地方に多いということが分ります。それは田舎の方がずっとよく昔を守って習慣を崩さないからであります。それに消費者の多い都会は、機械による商品の集るところですが、これに引きかえ生産する田舎は自ら作って暮す風習が残ります。しかも自家使いのものや、特別の注文による品は念入りに作られます。これに対し儲けるために粗製濫造した商品の方には、誤魔化しものが多くなります。手仕事の方には悪い品を作っては恥じだという気風がまだ衰えてはおりません。このことは日本にとって、地方の存在がどんなに大切なものであるかを告げるでありましょう。もし日本の凡てが新しい都風なものに靡いたとするなら、日本はついに日本的な着実な品物を持たなくなるに至るでありましょう。

それからこんなことも書いている。

また注意しなければならないのは、商売人に成りすました人が作る品よりも、半分は百姓をして暮す人の作ったものの方に、ずっと正直な品が多いということであります。それは農業が与える影響によるのだと思われます。大地で働く生活には、どこか正直な健康なものがあるからでありましょう。これに比べ商人に成り切ると、とかく利慾のために心が濁ってしまうのに因りましょう。半農半工の形は概してよい結果を齎らします。
 それに正直な品物の多い地方を見ますと、概して風習に信心深いところが見受けられます。時折その信心が迷信に陥っている場合もあるでしょうが、信心は人間を真面目にさせます。このことが作る品物にも反映ってくるのだと思われます。良い品物の背後にはいつも道徳や宗教が控えているのは否むことが出来ません。このことは将来も変りなき道理であると考えられます。

そして、産地の人たちの努力をバカにするような記述で、ぼくが反発を感じていたこの部分。

人絹も盛に取り入れられ、染料もほとんど化学品を用います。従って今まで見たこともないような俗な彩りが現れるに至りました。今の都の人たちは多くはこれらのものを用いているのであります。作り方には長足の進歩がありますが、作られる品にはむしろ退歩が目立つのは大きな矛盾といわねばなりません。なぜ幼穉だと笑われている手機や草木染の方が実着なものを生むのでしょうか。考えさせられる問題であります。

志村ふくみ・鶴見和子『いのちを纏う』という本で、草木染めは豊かな自然と、人間のいのちのやりとりがあって、初めて成り立つことを知った。
明治になって急速に衰退した木綿がいい例だが、鄙の豊かな自然を顧みず、海外から安価な材料を仕入れ、大きな工場に鄙から多くの若者を集めて、世界市場に向けて、大量生産でコストダウンしたモノを作るというやり方を柳が批判しているということに初めて気づいた。

柳は、器用に手仕事をこなす日本人による、モノづくりの能力によって、国内だけでも食べていけるような、小さな経済を作り方を必死に説いている。
そして、その前提には豊かな鄙の自然が残っていること、人々の手技が残っていることの二点が必要だ。

伝統工芸とか和文化というと、人間国宝級の立派な職人と都会の金持ちが支えている世界で、そこには雅とか粋とか洗練とか、きものだったら艶やかとか、判で押したようなキーワードが並ぶ。それはそれで、素晴らしいんでしょうが、ぼくは興味がもてない。

そうじゃなくて、ぼくのおばあちゃんがこさえてくれた綿入り半纏のように、平凡な農家の人が作る、土の匂いのするような日常使いのモノたちに強烈なシンパシーを感じるのです。

ああ、だいぶ長くなった。今日はこのへんで終わりにします。

蛇足ですが、「懐かしき未來」に書いた柳批判のコラムは、推敲段階で全てデリートしました。

今日の一曲はヘプバーンが大都会の片隅で歌った曲を、大自然の中に帰してあげたようなカサンドラ・ウィルソンの『ムーン・リバー」

2015年7月18日 (土)

「 そして、今日の状況下では、カリスマ的リーダーは、間違った指導性を発揮せざるをえない。カリスマ的リーダーは、新しい現実に向かってではなく、昨日という過去に向かって進まざるをえない。」PFドラッカー『新しい現実』より

今週は激しく政治のことばかり考えているなあ。
国民をなめすぎだって、堪忍袋の緒が切れたのは事実だけど、
あまりヒートアップするのも嫌いだ。

ぼくの身体には、熱狂するのは危険だと感じるサーモスタットが組み込まれているようで、
怪しくなると制止される。
『傍観者の時代』を読むと、ピーター・ドラッカーもそういう体質だったらしい。
だから大勢で叫ぶデモってやつも苦手で、水曜日はやむにやまれず、人生2回目のデモ参加。
今後は、デモよりも、ファシズムに騙されないようにする日常的な勉強の方が大事だと思うので、早速発行さればかりの『丸山眞男と田中角栄』という本を手に入れた。

毎日会社の近所の駅で演説している若手の区会議員がいる。
ふと思ったんだけど、角栄が総理だった時代など知るはずもない、
若い彼の演説がどことなく角栄調なのです。

そうか、政治家が低い目線で庶民に話しかけるってシチュエーションにおいて、いまだに角栄のDNAは引き継がれているってことなのね。と深く納得した。

とは言うものの、さすがにもう古くさいのです。角栄調は。
そして、今の時代に角栄のようなカリスマ性は必要ない。
演説の上手なオバマも、日本に必要ない。

個人的にドラッカーの最高傑作だと思っている『新しい現実』の第8章「カリスマを警戒せよ」にこんな印象的な一節がある。ちょっと長いけど引用します。

かくて、新しい現実を踏まえた政治のモットーは、「カリスマを警戒せよ」でなければならない。しかし今日、カリスマは流行である。カリスマは、いたるところで話題となっている。カリスマ的なリーダーの本は、無数である。
そして、政治が興奮をもたらす華やかな存在だった時代に対するノスタルジアがある。しかし今日、カリスマ待望は、政治的自殺願望である。
実は、二〇世紀ほど、カリスマ的なリーダーに恵まれた世紀はなかった。そして、二〇世紀の四人の巨大なカリスマ的リーダーほど、政治的なリーダーが害をなしたこともない。
スターリン、ムッソリーニ、ヒトラー、毛沢東である。
われわれにとって重要なことは、カリスマ性の有無ではない。カリスマ的であろうとなかろうと、政治リーダーが正しい方向に行くか、間違った方向に行くかだけが問題である。
そして、今日の状況下では、カリスマ的リーダーは、間違った指導性を発揮せざるをえない。カリスマ的リーダーは、新しい現実に向かってではなく、昨日という過去に向かって進まざるをえない。

1989年に翻訳出版された本なのに、まるで今の日本の「新しい現実」を見て、本日出版された本のような臨場感あふれるドラッカーの洞察力にドッキリする。

じっくりと、足もとを固めて、国政レベルじゃなく、市町村議会から、世の中を変えてゆく方向って、あるんじゃないかと思う。
度重なる国政選挙結果に絶望して、政治に関係するコメントは避けていたが、いまのようなファッショ政治が跋扈するのを指をくわえて見ているほど、こちとら、あまちゃんでもないぜ。

三連休の初日、そとは曇り空だけど、気分だけは青空にしたいから、この曲を選んだ。
ぼくが初めて書いた小説のタイトルにもした「外はいい天気」。
この世にあるすべての楽曲の中で、これが一番好きかもしれない。

原曲ははっぴいえんどだけど、これは大瀧詠一のソロライブバージョンで。

2015年7月16日 (木)

どうして、アメリカにくっついていれば安心なんて、ノー天気な国家ビジョンが21世紀になってわき上がってくるんだろう。50年間争い続けて、とうとうアメリカを屈服させたキューバ人のしたたかさにこそ、学ぶべきだろう。いくら勇ましいことを言っても、ひ弱な国家ビジョンしか持たない連中に21世紀の日本を任せる訳にはいかない。

自公政権の強行採決が行われて、さすがに、いろいろ考えてみた。現在の日米関係をみれば、アベ某の言う集団的自衛権なるものが、自衛隊をアメリカの傭兵部隊にする権利(義務?)になることは明白で、到底賛同などできるわけもなく。

だけど、いったん戦争が始まってしまえば、きっとおれは、勝利のために最大限の協力をするだろう。「花子とアン」の蓮子さまのように子どもに「武運長久」と言って、戦場に送り出すだろう。自国が蹂躙されるのは、断固拒否したいから。

だからこそ、絶対に戦争を起こさないような国際関係や社会の仕組みを作って、備えておくべきだと、強く思う。

そもそもこんなに食料自給率の低い国が、外国と争って、勝てるわけないじゃん。
まずは、TPPなんてやめて、食料自給率を高める努力が必要。
ぼくは自衛隊が違憲だとは思っていないけど、国土を防衛するためには、どんな種類の武力が必要なのかも、検証する必要がある。アメリカの言いなりでつまらぬ武器を高額で買わされるのはまっぴらごめんだ。
この際、お金持ちのアメリカに勝利した貧乏なベトナムの戦い方だって、参考にすべきだと思う。

どうして、アメリカにくっついていれば安心なんて、ノー天気な国家ビジョンが21世紀になってわき上がってくるんだろう。50年間争い続けて、とうとうアメリカを屈服させたキューバ人のしたたかさにこそ、学ぶべきだろう。いくら勇ましいことを言っても、ひ弱な国家ビジョンしか持たない連中に21世紀の日本を任せる訳にはいかない。

いまから、ドラッカーを読んで、おれも猛勉強しなくちゃ。ああ忙しい。

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2015年6月14日 (日)

だけど、そこに決定的に不足しているのが、「夢」とか「希望」で。 そして、一番足りないのは「創造力」だと思う。

一昨日、『ワーク・シフト』を読み終えたので、もう一冊、中断していたリチャード・フロリダの『新・クリエイティブ資本論』を、最初から読み始めた。

読み返すと、これは『ワーク・シフト』と対をなす本で、『ワーク・シフト』で取り上げた新時代の働き手たちを理論づけて、クリエイティブクラスという階級として捉えている点に共感する。

21世紀になって、急速に従来の労働者VS資本家なんていう切り口が無意味になってきて、旧来の右派と左派の対立っていう図式も、ぼくにはピンとこなくて。

ところが、その間隙を縫うように、偏狭なナショナリズムが、幅をきかせるようになって、マスメディアがそれを煽る。
為政者に反対する意見の持ち主に左翼とか売国のレッテルを貼ってバッシングする。
そう言えば、拙著『ぼくたちの野田争議』を書いていた頃、昭和初期、日本資本主義の父渋沢栄一まで、左翼扱いされたと知って、吹き出したが、いまはほとんど同じ水準かもしれない。

だけど、そんな水準の人たちの思考に決定的に不足しているのが、「夢」とか「希望」で。
そして、何よりも一番足りないのは「創造力」だと思う。

大企業の株価が上がっても、ぼくらの暮らしは値上げラッシュばかりで、ちっとも豊かになった感じがしない。

もうすでに来たるべき未来の社会が始まっているのに、過去へ、過去へと回帰する為政者たちと産業界のお偉いさんたち。圧倒的な創造性の欠如。悲しい。
こんなフロリダの言葉は彼らの心に響かないのかな。

二〇〇八年に起きた経済・金融危機の直接の原因は不動産バブルの崩壊だが、経済史の学者はこれを古いフォード式産業秩序の最後の危機と見るだろう。時代遅れで疲弊した社会と産業の構造が、新たなクリエイティブ時代の生産力に追いつかなくなった転換点なのである。

閉塞感だらけの日常生活の中に、『新・クリエイティブ資本論』の序文を、そっと置いてみる。

結局のところ、繁栄が広く共有される新しい時代が、私たち一人ひとりの奥深くに眠るクリエイティビティに火をつけ、燃え上がらせるのだ。見過ごされて十分に活用されていない貴重な潜在能力を解き放った時に初めて、私たちは持続可能な経済成長のみならず、より好ましく、意義深い、充実した生活を満喫できるのである。

フロリダは「クリエイティブクラスの人々に階級意識が欠けていること」が問題だと言う。
日本よりずっと先を行くアメリカ人のフロリダが言うのだから、上記のような日本の現状など推して知るべし。

でもね。いずれ来る未来が見えているなら、バベルの塔の崩れてゆく階段を駆け上るような無駄な努力をするより、広い野原を先頭切って自分の足で歩くほうが楽しいと思うよ。

フロリダはこんな風に、ぼくたちを鼓舞している。

人間のクリエイティビティは、過去に類を見ないほど大きな変革のエネルギーとなっており、私たちのだれもが多かれ少なかれ持ち合わせている。
新しい秩序と社会階層が大きな困難をもたらすとしても、それらは問題解決の糸口をも内包しているのだ。

だれもが持ち合わせているぼくたちのクリエイティビティに、蓋しているものを見つけて、蓋を取り去ってみたい。
まずは自分の身近で出来るDIYから、始めよう。
誰かさんの手伝いじゃなく、自分で終いまでやってみよう。
そして、実際に使ってみよう。

こういうのが「春の予感」ってことかな。
昨日から始まった尾崎亜美マイブーム。本日は「春の予感」で締めましょう。

2015年2月22日 (日)

課税制度のような国家レベルの政策論じゃなく、個人政策論として一番大事なことは、昨日も書いた「ゆっくりゆっくり」の思想なんじゃないかな。強欲なキャピタリズムって、ぼくたちに「待つ」精神的なゆとりを奪うことで、利益を掠め取ってゆくものだから。

よく晴れた土曜日の午後、松戸駅近くのMAD CITYが運営するスペース「FAN CLUB」に行って、吉野太喜氏による「トマ・ピケティ『21世紀の資本』から考えるまちづくり」と題した勉強会に参加した。
吉野さんはミクロ経済学を勉強している在野の研究者。

経済学者といえば、1月末に大内秀明先生の出版記念会で、マルクス経済学者が集まるパーティーに潜り込んだとき、ある偉い大学教授の「プロレタリアートに文化などない」「アジアやアフリカの音楽なんて価値がないけど、白人が物珍しさから取り上げただけ」という上から目線の暴論に、怒髪天をついたことを思い出しながら、近代経済学者である吉野さんの話を聞いた。

そこで感じたことは、現代社会に生きるぼくたち消費者にとって、『21世紀の資本』最大の貢献は、それが情報処理技術が圧倒的に進歩した現在だから、作り得た経済学書で、強欲なキャピタリズムを礼賛する新自由主義経済理論の間違いを豊富な資料によって実証したこと。

所得や資産の格差が広がることによって、社会は不安定になり、無理に経済成長を目指して金持ちをより金持ちにするような政策をとっても、格差が広がるだけで、諸国民の富は増加しないということ。

そこに経済学者水野和夫さんのベストセラー『資本主義の終焉と歴史の危機』の末尾にある次の言葉を重ねると、また少し見えてくるものがある。

ゼロインフレであるということは、今必要でないものは、値上がりがないのだから購入する必要がないということです。消費するかどうかの決定は消費者にあります。ミヒャエル・エンデが言うように豊かさを「必要な物が必要なときに、必要な場所で手に入る」と定義すれば、ゼロ金利・ゼロインフレの社会である日本は、いち早く定常状態を実現することで、この豊かさを手に入れることができるのです。

ピケティの言う資本税云々の政策論は為政者が考えることで、僕たち消費者には手の届かない場所にあり、いまの自分の行動には結びつかないけど、強欲なキャピタリズムがみんなを幸せにしないことを実証し たことは、これからボディーブローのように効いてくるように思う。

「アベノミクス」なるものの成否云々などどうでもいいのだ。どうせ大間違いなのだから。
それよりも、水野さんが言うように、消費を煽り、「早く、早く」と消費者をせかす、終焉しつつあるキャピタリズムに翻弄されないようなライフスタイルを取り戻すこと。
今すぐに行動すべきは、それぞれ消費者個人や街の単位でキャピタリズムから身を守る術を身に付 けてゆくことでしょう。

例えば、

○コーヒーを飲むならスターバックスではなく、地域の個人経営のカフェに行く。
○日常の買い物もスーパーではなく、なるべく個人商店に行く。
○個人店がなければ、生活クラブやパルのような生協のお店に行く。
○家を建てるなら、極力住宅ローンを借りない方法を模索する。
○借りるとしても最小限にして、強欲なキャピタリズムに貢献する大手都市銀ではなく、「ろうきん」のような筋の良い金融機関から借りる。
○そして、当然だけど、ハウスメーカーではなく、地域の工務店に家作りの相談に乗ってもらう。
○地域の工務店の敷居が高かったり、設計力に疑問がある場合は、信頼できる建築家を見つけて、相談に乗ってもらう。

ちょっと考えただけでも、これだけの個人的戦術が出てきた。
これらは、ぼくの祖父が元気だった昭和30年代までは当たり前だったこと。

以前住んでいた三郷の北部が、大規模商業施設によって町の形まで変えられて、三井の町になってしまったことを思うと、いま松戸旧市街が素敵なのは、商店主たちが立ち上がって、内発的に町をよくしようと努力していること。
もちろん、MAD CITYのような若者たちの多大なる貢献が最重要ポイントなのかもしれないし、吉野さんのような若い在野の経済学者が、松戸を訪れて、低い目線から情報を発信していることも忘れてはいけない。

そして、課税制度のような国家レベルの政策論じゃなく、個人政策論として一番大事なことは、昨日も書いた「ゆっくりゆっくり」の思想なんじゃないかな。強欲なキャピタリズムって、ぼくたちに「待つ」精神的なゆとりを奪うことで、利益を掠め取ってゆくものだから。

このまえブログで紹介した『「しないこと」リストのすすめ』の著者辻信一さんの主著に『スロー・イズ・ビューティフル』がある。

以前この本を読んだとき、もう一つ腑に落ちなくて、あまり良い読者になれなくて、本棚の奥にしまい込んである。
だけど、強欲なキャピタリズムから身を守るための戦略指南書として、もう一度読み返してみると、また違った読み方も出来るかなあと感じている。

ずいぶん長いエントリになってしまったな。ロイド・カーンのことを書きたかったけど、また今度にしよう。

今日は、セネガル出身の偉大なシンガー、ユスー・ンドゥールをフィーチャーした坂本龍一の「ジャバラム」を、あのマルクス経済学者の偉い先生に謹んで捧げます。

2011年5月28日 (土)

橋下某の暴挙に内村鑑三の不敬事件を想起した。

「天皇制だの、武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかるもろもろのニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。さもなければ、我々は、再び昔日の欺瞞の国へ逆戻りするばかりではないか。」

終戦からまもない昭和21年に書いた坂口安吾の「続堕落論」からの引用である。

この文章を、君が代斉唱時の教職員の起立を条例化しようとしている嘘つき野郎の橋下某とおバカな大阪維新の会に捧げよう。

オレの好きな町大阪がどんどん「欺瞞の国」へと変貌してゆくのを見るのは悲しい。

本日のasahi.comによれば維新の大橋一功議員は「ルールに故意に従わない教師が子どもたちの模範になるとは思えない。職務を履行させるために条例化が必要だ」と提案理由を説明した。
というが、笑止千万である。

いつから学校の教師なんぞが、生徒の模範ということになったんだろう。

維新の会に集うお勉強くんたちには、わからないだろうが、劣等生だったオレとって、学生時代、反面教師は大勢いたけど、師事したいと思う教師など、ほとんどいなかった。

要するに橋下某の本心は日教組が大嫌いなので、「君が代」を江戸期の「踏み絵」がわりに使って、左翼の教師をあぶり出して、追い出すために使いたいだけじゃん。

嘘そつきめ。

それって天皇陛下に対して失礼じゃん。

だから、オレは維新の会のように自ら志士なんて名乗っている連中の勤王主義なんて信じないし、インチキ錦の御旗を掲げたいわゆる「明治維新」なんてのも大嫌いなんだ。

改めて言っておくが、オレだって日教組や左翼系の教師など大嫌いだ。

貧乏な下っ端の警察官の息子として、全共闘運動華やかなりし時代を生き抜いてきたのだ。

ブルジョア家庭の級友からは「税金どろぼう」と蔑まれ、担任でもない、となりのクラスの教師に理由もわからずなぐられ、「戦艦ポチョムキン」の話ばかりしている高校の歴史の教師から解放され、やっと大学の経済学部にたどりついたと思ったら、経済原論の担当教授が毛沢東の「矛盾論」「実践論」を読めだの、北朝鮮はこの世の楽園だのって言ってるのに、心底うんざりした。

でもね。

赤旗振ってる左翼系の教師を力づくで抑えつけることで、教育って進歩するのだろうか。

オレは、教師が国歌斉唱の時に起立しないのは、公務員である前に、人間としてカッコ悪いと思う。

TPOをわきまえない行為は、ちっともおしゃれじゃないし、ガキっぽい。

そんなカッコ悪い教師たちを、排除しないで、生徒の前にさらしておくのも教育じゃないか。

カッコ悪いはずの教師たちが、その愚かな行為によって退職させられた途端、自分の信念に忠実であるがゆえに、退職させられた悲劇のヒーローに成り上がってしまっていいのか。

第一高等中学校の教師だったのに教育勅語に最敬礼しなかったと、日本中からバッシングされ、仕事どころか愛妻まで失ってしまった内村鑑三は、どん底から立ち直って「求安録」「基督信徒のなぐさめ」「余はいかにして基督信徒になりしか」「代表的日本人」といった名著を連発し、歴史に名を刻んだ。

内村鑑三「代表的日本人」

勉強が出来るだけで、嘘つきの元茶髪弁護士と、そんな嘘を信じているおバカな、お仲間のみなさん。

カッコ悪い、人間として恥ずかしいことをやってる教師たちを、現代の内村鑑三に育てるのだけはやめて下さいね。

嘘つきクラブの君たちには、ボブ・ディランが1966年のイギリスで、コンサートを妨害する観客に対して、「嘘つきめ」、ドラムスに対して「もっとデカイ音でやれ」って叫んで、歌い始めたこの曲がふさわしい。

できるだけデカイ音で聴いてね!!!

2011年5月 4日 (水)

ドラッカー思想の真髄

最近はめったに社会科学系の本も読まず、文学や美術や音楽のことばかり書いているから世間様からは文学部出身だと思われている。

それに、あんまり色気のある話題じゃないから、書かないでおこうかと思ったが、憲法記念日を迎え、これ以上政治家や巨大企業の経営者など権力の上層にいる方々に調子づかれるのもシャクなので、一言記しておきたい。

「もしドラ」の人気から、このところドラッカーブームで、会社の近所の本屋に行ってもドラッカーの独立したコーナーまで設けている。

学生時代、少々ドラッカーをかじった経営学徒としては、きいたふうなことを言うのも嫌味だし、それこそ洒落臭いので、しばらく様子を見ていたが、どこまでしっかりとドラッカーの思想が理解されているのか不安になってきた。

ドラッカーはもともと政治学、社会学、哲学といった分野で健筆をふるうジャーナリストで、ファシズムが猛威をふるうヨーロッパを逃れて、GMの分析を行うことによって現代社会を理解する上で大規模な組織体に着目した経歴を持つ。

結果的に企業経営分析の専門家として、名声を得るのだが、初期ドラッカーを知らずに、「マネジメント」だけ語る人がいるのは、ちょっと納得がいかない。

ドラッカーという思想家は、保守派の企業経営者が思うほど、体制側にとって座りのいい存在ではなく、経営者に対して、生涯を通して常に「高潔な品性」と「責任」を求め続けた。

「マネジメント」のサブタイトルが「課題、責任、実践」という点に、彼の思想の真髄が現れている。

復刊ドットコムを見に行ったら、学生時代に教わった三戸公教授の名著「ドラッカー」が復刊されるらしい。これを機に、大いにドラッカー思想が深いところで議論されることを希望したい。

2011年4月16日 (土)

都市の空気は自由にする

岩波新書の「日本近現代史4大正デモクラシー」を読んでいたら、うす気味の悪い文章を発見した。

「関東大震災という衝撃的な事態に対しては、震災は天の諌めであるという天譴論が出された。矛先は、都市文化に向けられた。個人主義の進展やモダニズム文化の台頭、社会運動や改造の主張の展開が、都市文化の発展と重ね合わされ、好まざるものとして攻撃されて、ナショナリズムが煽り立てられる。一九二三年十一月に『国民精神作興詔書』は、こうした意識の表明であり、「国体」と「醇風美俗」を前面に押し出し、都市化による綻びをつくろい、国民統合を強化しようとした。」

関東大震災を東日本大震災に変えて、一九二三年を平成二三年に代えたら、どうだろ。
この前書いた石原某の言葉通りに、再び戦前のある時代に戻さんと世の中を誘導しているような気がしませんか。
そもそもあるのかないのか知らないけど、東京電力の労働組合が「ざけんなよ。役員連中が責任とって現場作業しろよ」と居直ったというような話もなく、いつもは怖い労働基準監督官が原発の作業について労働安全衛生法に違反していると騒いだという話も聞かない。
労使が争っている場合じゃないって空気の中で、組合は自主的に解体し、労使協調のムードの中で悪名高き産業報国会となり、戦争に突き進むというようなことは、まさかないでしょうね。

石原某や大日本帝国の為政者たちも知っていたように、「都市の空気は自由にする」のだ。

ナチスに追われて、イギリスに亡命したドゴールがロンドンからラジオで、自由フランスとしてレジスタンスを呼びかけたのも、パリを開放したいからだった。だから僕は凱旋門を見ると感激する。
映画「パリの恋人」で、さえない本屋の店員だったヘップバーン演じる主人公が、まるで蝶が羽化するように、美しく変身するのもパリのもつ魔力だった。

作品としての評価はイマイチかもしれないけど、僕はこの映画が自分のベストワンかもしれない。次々と僕の好きなものばかり出てくる。

ナチスから逃れて、アンネ・フランクのような少女時代を過ごしたというヘップバーン自身の境遇を重ねあわせて考えると、戦後10年足らずの時代にパリのカフェで、はじけるように踊り、実存主義哲学を語る主人公は喜びに満ち溢れていた。ヘップバーンの他の映画にはない、真実の輝きを感じる。

杉浦日向子が愛した一八世紀の江戸文化も、海野弘が描いた二十年代の東京や、自分が実際にうろうろ歩いた七十年代前半の東京の文化も、パリと同じように輝いている。
だから僕は都市が好き。都市でないと生きられない。
ソーシャル・ネットワークでつながるのもいいけど、実際の空間はもっと大事。
石原某のような権力が都市文化を壊しにくるのなら、僕は自分なりのやり方で戦うつもりである。
いまここに、バブル景気に浮かれる25年前に原発や代替エネルギーについて勉強したのに、四半世紀も指をくわえて見ていた自分自身に猛烈に腹を立てている僕がいる。
もう二度と後悔したくない。

2011年4月13日 (水)

他粛ぎらい

なにせガキの頃から不良少年で、劣等生だったから、自粛だとか、連帯責任ていうのが苦手である。

いや苦手なんて中途半端な書き方はやめよう。

はっきり言って大嫌いである。

3月11日の夜にキャバクラに行ったみのもんたをマスコミが批判しているけれど、何が問題なのかオレにはわかんない。

いろんな人がいて、いろんな価値観があって、それぞれのスタンダードがあるから、民主社会だと思う。

現在不良中年のオレから見れば、みのもんたは、今回何も悪いことしていないよ。

みのもんたを批判するなら、原発安全神話の普及に活躍してきたことを書けよ。

それはともかく、核武装が持論の石原某という、感じの悪い男が花見を自粛しろなんて言っている。

マスコミは思考停止しているから、自粛が経済に与える影響について是か非かなんて、トンマなことを書いているけど、そんなことたいしたことじゃない。

それよりか、自粛って為政者に強制されるべきものではなく、自ら喪に服するから意味があるんだよ。

他人に強制されたら自粛じゃなくて他粛だよ。

東大だの早慶だの名門大学を優秀な成績で卒業され、難しい試験をパスして大手マスコミに入社されたエリートの方々は、石原某の暴挙や暴言に目をつぶるのが大人のエチケットだと思っているとしたら、さっさと仕事やめて、故郷に帰ってほしい。

日本人の好きな「連帯責任」ってのも、寒気がするほど嫌い。

こんな言葉は責任を曖昧にして、ごまかすための手段にすぎないと思う。

敗戦だって、政府や日本軍の責任じゃなくて、国民みんなの「連帯責任」なんでしょ。

なんとまあ、お人好しな国民でしょ。だから悪いヤツラにダマされる。

ナチスドイツのイメージを払拭して、新しい国を作ったドイツ人の心根ほうがオレには理解できるな。

そろそろこの辺で、他粛だの、連帯責任だのなんて鵜呑みにして、権力を握った悪いヤツラを、こころ優しい国民が助けてあげるようなことをやめようよ。

自民党でも民主党でも、財界や学界とグルになって原発を推進したような連中は全員退場して、ホンネでコミュニケーションが出来る新しい風通しのよい日本を作ってゆかないと、希望が持てない。

もうどうしようもないところに来ている。

田中優子の「未来学としての江戸学」を読みながら、そんなことを考えた。

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