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日記・コラム・つぶやき

2017年4月23日 (日)

かつて「資本主義の手先」やら「国家権力の犬」やら叫んで、成田辺りで暴れていた人が、いまは体制側に回って、政権を批判した者に対して「反日」とレッテルを貼る。 こんな窮屈な日本社会に、元気な若者がニョキニョキ育つわけもなく。フェンスの向こうのアメリカはヒップな生活革命だ、ポートランドのクリエイティブシティだ、メイカームーブメントだと、時代を逆走する日本をあざ笑うかのように、どんどん走り去ってゆく。その距離は開くばかりだ。

沖縄県にはベトナム戦争の頃、戦略爆撃機B52が北爆に出撃したアメリカ空軍の嘉手納基地がある。
Wikipediaによればスペックはこんな感じ。

総面積は約19.95km2。3,700mの滑走路2本を有し、200機近くの軍用機が常駐する極東最大の空軍基地である。また、在日空軍最大の基地である。
滑走路においては成田国際空港(4,000mと2,500mの2本)や関西国際空港(3,500mと4,000mの2本)と遜色なく、日本最大級の飛行場の一つということになる。面積においても、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である。かつてはスペースシャトルの緊急着陸地に指定されていた。

日本最大の空港より2倍も大きな空軍基地が、細長い沖縄本島の中央部にどっかりと存在していて、周囲をクルマで走ると、フェンスは果てしなくどこまでも続いている。
23年前、沖縄に旅行した時、この嘉手納基地の大きさに驚き、そして、フェンス中の世界と外の世界の風景の違いにショックを受けた。
ぼくが何か書かなくても、嘉手納基地を検索して、Googleの航空写真で見れば誰でも分かる。
ビバリーヒルズのような基地の中の世界。基地の外にはウサギ小屋のような小さな民家が軒を接している。
この重い事実を、本土のひとはどれだけ、わかっているのかな。

練馬に住んでいた少年時代にも、似たような風景を見たことがある。
いまは光が丘のニュータウンと呼ばれる田柄町の辺りは、グラントハイツという米軍住宅地だった。セキノ君という級友の小さな家のすぐ脇に広がる芝生が目にまばゆかった。
東京近郊では立川やら、厚木やら、本土の米軍施設が次々と返還され、今は大半が沖縄に集中しているという。
沖縄の人が毎日見ている風景は、ぼくの世代が、かろうじて既視感を覚える風景で、ぼくよりも若い人たちには、想像する気持ちすら呼び覚まさない、何の興味も、関心も持てないのかもしれない。

最近よく、日本人が右傾化していると言われる。笑わせるな。
いま日本で起きているのは、右傾化なんていう高次元な話ではなく、圧倒的多くの庶民が考えることをやめてしまっただけでしょ。
大きな声で叫ばれる、単純なコトバで、何か分かったような気がしてるだけ。
昔もあったよね。「資本主義の手先」とか、とか「国家権力の犬」とか。
警察官の家の子どもだったから、大人達からそんなコトバでレッテルをはられ、いじめられた。

かつて「資本主義の手先」やら「国家権力の犬」やら叫んで、成田辺りで暴れていた人が、いまは体制側に回って、政権を批判した者に対して「反日」とレッテルを貼る。
こんな窮屈な日本社会に、元気な若者がニョキニョキ育つわけもなく。
フェンスの向こうのアメリカはヒップな生活革命だ、ポートランドのクリエイティブシティだ、メイカームーブメントだと、時代を逆走する日本をあざ笑うかのように、どんどん走り去ってゆく。その距離は開くばかりだ。

歌手の古謝美佐子のお父さんは嘉手納基地で働いていて、彼女が3歳の時に米軍車両に轢かれて亡くなったという。彼女の歌には、そんな自分史や沖縄社会の重みが感じられる。
だから力強いし、風雪に耐えて、いつまでも残っていくのだとおもう。
戦争に負けたこと、アメリカと日本の関係、極東情勢、現在の複雑な状況や歴史のコンテクストを考慮しながら、沖縄と本土が仲良く共存できるような日本人の叡智が必要な時代になっていると思う。
○じゃなきゃ、×。白じゃなきゃ黒。そんな単純な思考で乗り切れるほど簡単な設問じゃないよ、たぶんこれは。
間違いなく、ひとつだけ言えるのは、バナキュラーな周辺文化を軽蔑し、東京の価値観一色に染め上げるような態度からは、何も生まれてこないということ。これだけは言っておく。
周辺文化への眼差しを、いまだからこそ、柳宗悦に学びたいと思う。

2017年4月22日 (土)

昨晩までは那須に行くつもりだったけど、それは諦めたから、せめて駒場の日本民藝館に行こうと意気込んでいたのだが、それすら諦めて、午前中はまったりと菊地成孔&南博のアルバム「水と花」を聴きながら、読書。

前回のエントリを書いた翌日から体調を崩して、電車で倒れたり、食中毒になったり。
もういい加減、休憩しろって、たぶん神様が教えてくれているんだろうって、忠告をありがたく受け取って、本日の予定は病院のみにした。

昨晩までは那須に行くつもりだったけど、それは諦めたから、せめて駒場の日本民藝館に行lこうと意気込んでいたのだが、それすら諦めて、午前中はまったりと菊地成孔&南博のアルバム「水と花」を聴きながら、読書。
それもめったにない、肩から力の抜けたお楽しみのための、まるでお趣味のような読書。

本の内容はイマイチだったから、特に紹介しないけど、アルバムはよかったなあ。
いままで、どうも個人的にあと一つ突き抜けられない感のあった菊地成孔が、自分の中でブレイクした瞬間。
気持ちのいい演奏に時間を忘れて、いつまでも聴いていたくて、三回も繰り返して聴いてしまった。


思えば、父親が亡くなってから、ずっと休みなしで、昨日まで走ってきたような気がする。
「懐かしき未來」を完成しても、ホッとする間もなく、バタバタと駆けずり回って。

だから今日(4月21日)は数ヶ月ぶりの完全オフ。
病院にいったら、病人扱いされて、CTだの心電図だの脳波だの、人生初の点滴まで打たれてしまったからもう、なすすべもなく。
何も出来ないから、ベッドの上でひたすらじっとしているのも、初めての経験だったけど、たまには悪くない。

落ちのないエントリだけど、ま、それだってたまにはいいでしょう。

何しろ今日は完全オフなんだから。

2017年4月 5日 (水)

職人というのは、職業というよりは、「生き方」なのではないかと思えてきます。

先週末に那須に行って、何人かの人に会い、刺激を受けて帰ってきた。

今週は一回だけ読んで、ほったらかしにしておいた永六輔『職人』を、じっくり、ゆっくりと、読んで、本日読了した。

ものすごく、いい本だと、やっと今知った。
サラリーマン社会にどっぷり首まで使って、職人気質を忘れたのではなく、最初から知らない日本人全員の必読書にしてもいいくらい。
かつては、こんな日本人が、日本中どこにでもいた。ぼくの生まれた村でも、育った町でも。

職人というのは、職業というよりは、「生き方」なのではないかと思えてきます。
職業は途中でやめることができますが、生き方は途中でやめるというもんじゃありません。体力が落ちて、現場がつとまらなくたって、睨みをきかせることはできます。

珠玉の言葉のひとつひとつが、天から舞い降りて、サラリーマン社会でぱさぱさになった僕の心に、希望の灯をともす。
そして、この本の白眉がこの部分。

いま使い捨ての道具がおおはやりですね。
たしかに便利です。
でも、そういう便利さとのひきかえに、ほんとに手づくりでなければできなかった仕事をしていく人がいなくなっちゃお終いなんだから、いなくなるまえに、その人たちを守らなければいけない。
守るためには、その人たちの品物を買わなくちゃいけないんです。
別に高く買う必要はないけれども、その人たちがやってきた仕事に対しての正しい報酬を払う。
そして、それを身につけ、生活に使う。
僕はそれがほんとうの豊かさだと思うんです。

永さんは、その言葉を実現するために「1100人の会」といって、百人の若い職人を選んで、千人で買おうという組織に加わった。
いまは会員の高齢化もすすみ、10年前のブログを見ると、会員150人と書いてあるから、いまは自然消滅しているのかな。

永六輔さん亡き今、永さんのやり残した仕事をつないでゆくことも、ぼくたち世代の仕事かなあと、考え始めている。

プリシラ・アーン「風をあつめて」

2017年3月18日 (土)

いまの茶の湯の世界には「貧の茶」「平常の茶」があるのかしら、最近気になってしかたがない。

「懐かしき未來 その2」を作っているウチに、30代の頃、熱中した柳宗悦への関心が復活してしまい、その熱中度合いがとうとう永井荷風愛を上回ってしまったので、ブログの看板も「新葛飾土産」から「青空公房のブログ」に変えることになってしまった。

そこで、久しぶりに『民藝四十年』を読み返した。
この名著の中でも一番、今回感慨深く読んだのが「利休と私」という罪作りなエッセイ。
そこにはこんなコトが書いてある。

利休というと「茶」では神様のようにいう人が多い。近頃学術的な研究も盛んになったが、初めから鵜呑みに無批判に有り難がっている人々が多い。

だが、どういう道を通って、利休はその位置を得たか、利休の生涯を見ると、彼は転々として、当時の権門に仕えた。始めは信長に仕え、次には秀吉に侍り、その他の諸大名、諸武将、さては豪商と歩き廻った。

純粋に茶の道が立てられたというより、権門を利用して「茶」を栄えさしめ、また「茶」を利して権門をあやつったともいえる。かくて「茶」は政治的にまた経済的に活用された。

かかる「茶」は「民衆の茶」ではなかった。常に権力とか金力とかの背景を求めた。大名とか武将とか豪商とか、それらの人々を忘れずにかついだ。またそうすることで「茶」を拡めた。「わび茶」とはいうか、一種の贅沢な派手な「茶」で、主として富や力にものをいわせた。

もしも、権勢に媚びず、もっと民間に「貧の茶」、「平常の茶」を建てたら。茶道はずっと違ったものになったと思われてならぬ。「わび茶」は貧を離れては、よもや徹したものとはなるまい。力や金を利用したことで「茶」が普及したともいえるが、そこに早くも「茶」の堕落が兆したともいえる。今も「茶」は貴族的な「茶」に落ちがちであるが、一度は金力を茶から追放すべきである。金力があってもかまわぬとしても、金力に敗れるような「茶」は、「茶」たる資格を持たぬ。

これを読んで、利休を神のように慕うヒトたちの中に入っても、自分の居場所はないと思った。その後、利休について少し勉強し、赤瀬川源平の『千利休無言の前衛』はとても面白い本だったので、愛読書になったが、それでもぼくの利休嫌いは、訂正されることはなく、今に至る。

そして、柳は、民間に「貧の茶」、「平常の茶」を建てることなく、モデルを示すこともなく、世を去った。いまだに「茶」に入門することも出来ず、悶々としていたところ、「和楽」という雑誌で「茶の湯レボリューション」という特集を組んでいる。柳宗悦にも言及しているというので、期待して買ったけど、利休を神格化してチェ・ゲバラと並ぶ革命家だという???の内容だった。

逆風の中、ひとり巨大な力と戦いながら、道なき道を歩んでゆくのが、革命家たる所以でしょう。ちょっと無理があるね。
「懐かしき未來 その2」では、贅沢品としてのきものではなく、普段着としてもきものにスポットライトを当ててみた。
柳が亡くなって50年以上経つが、いま、茶道が廃れていると聞いた。
昔は茶道か華道が花嫁修業の必須科目だったイメージがあるが、いまの茶の湯の世界には「貧の茶」「平常の茶」があるのかしら、最近気になってしかたがない。

今日の一曲は、ボブ・ディラン「ライク・ア・ローリング・ストーン」。
ディランのライブの中でも一番有名な、伝説的な場面なので、下記のようにWikipediaに説明があった。
それまで誰も聞いたことのない新しいロックを創造する中で、ブーイングに耐えられず、ツアーのバンドメンバーが次々と離脱する中で、残った5人のメンバーと奏でるロックは、どんな大音量のロックよりも激しく心を揺さぶられる。
ドラマーのレボン・ヘルムが耐え切れず、一時的に離脱したので、ドラムだけがのちのザ・バンドじゃないのだが、このパワーだけドラマーがこのときのライブには、あまりにもマッチしていて、嵐のようなサウンド作りに貢献している。一期一会の奇跡的ライブだと思う。

聴衆の一人が "Judas!" 「ユダ!」(「裏切り者」の意)と叫ぶと、それに続いていくつかの拍手が起こる。さらにもう一人が "I'm never listening to you again, ever!" 「お前なんか、今後二度と聴かないぞ!」と叫ぶと、ディランは、 "I don't believe you." 「お前のことは信じない。」しばらく沈黙した後 "You're a liar." 「お前は嘘つきだ。」 と言い、バックのバンドに向かって "Play it fuckin' loud." 「やかましく演奏しよう」と呼びかけ「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏が始まる。

2017年2月 4日 (土)

いろんなモノや想いが交錯し、共感し、時に火花を散らし、関係するみんなの想いがリフレッシュされて、さらに次のステップに向かってゆく。本はそれら沢山の物語を格納する器だ。

一月もあっという間に終わり、もう一年の12分の1が経過して、本年2回目のブログ更新。
年内に出す予定だった「懐かしき未來 その2 那須町できものの風が吹き始めた」も、どんどん延びたけど、前回報告した通り、2月20日発行で落ち着くと思います。

ひとつの仕事をこれだけ、手間と時間をかけて、やるのは出版関係では初めてかな。
自分の人生を振り返っても、25年前の那須高原のセルフビルド以来という気がする。
それだって、輝かしい経験を持つ建築家の小須田廣利さんが、お膳立てしてくれたステージの上で、バタバタ忙しく走り回っていただけで、自分が舞台演出したわけじゃない。

今回の充実感は尋常ではなく、長いこと乗り越えられなかった、、大きな壁を乗り越えたような感じだ。

いまは表紙のデザインの最後のツメをやっている。

そこにも様々な想いが交錯して、時空を超えたコラボレーションもうまくいきそうで。
無印良品のというより、日本を代表するグラフィックデザイナー原研哉が、『なぜデザインなのか』という本の中の対談で、「ポスターはコミュニケーションが行われた痕跡」だと言っている。本も一緒だ。

いろんなモノや想いが交錯し、共感し、時に火花を散らし、関係するみんなの想いがリフレッシュされて、さらに次のステップに向かってゆく。本はそれら沢山の物語を格納する器だ。

谷中でカフェをやっていた娘が、谷中の茶屋で働いていた笠森お仙を描いた鈴木春信と、コラボレ-ションするという、不思議な縁だってある。それも一つの物語。

繋ぐ。

つなぐ。

人と人を繋ぐ。

それが江戸から22世紀まで、生活文化をつなぐことになってゆく。

ぼくたちの時代で、バトンを落とすわけにはいかないでしょう。

そんな不思議な縁を感じる作品に仕上がりつつあるから。きっと。

Osen_at_the_kagiya_teahouse_by_the_

やっぱりこの二人の共演はいい。
どことなく、ジェイムス・テイラーとキャロル・キングの共演を思い出す。

杉浦日向子が亡くなった早朝の病室の様子を描いたような曲だと、実兄が書いているのを読んで、さらにこの曲が好きになった。

2017年1月22日 (日)

一年近くかかったけど、やっと「懐かしき未來その2 那須町で、きものの風が吹き始めた」が発行される予定が立ちました。

あ、遅ればせながら、今年初めての投稿です。
約ひと月ぶりの投稿で、2008年に「新葛飾土産」を始めてから、これほど間が空いたことはありませんでした。

その間、何をやっていたかというと、土日は「懐かしき未來」の仕事にどっぷり。
一年近くかかったけど、やっと「懐かしき未來その2 那須町で、きものの風が吹き始めた」の発行される予定が立ちました。

現在のところ、2月20日発行の予定です。
A4サイズで全68ページカラー印刷。
さらに小冊子のおまけ付きで、定価は1000円になる予定。

ひとまず報告です。
シリーズ「懐かしき未來」は、出版して終わりというのではなく、これからの活動の道しるべになるテキストを目指しています。
那須町を中心に、共感の輪が広がって、新しい共愉的な活動を始めたいと願っています。具体的な活動の中身については、徐々に形になってゆくはずです。

これからファーストロット300冊の印刷製本です。
忙しくなります。

編集作業中一番、何故だろう。YMOをよく聴いてました。

散開直前の時期に出たアルバムに入っていた曲。

カセットテープに入れて、切ない気分にひたって、よく聴いたのがこの曲でしたね。

2016年12月23日 (金)

まだ母と出会う前の、自分が知っている小太りの父の姿とは全くちがう やせた青年だった父の写真と対面したとたん、なぜか号泣してしまった。

同居していた父が、自宅で急死して10日たって、ブログには書ききれないほど、
その間もの凄くいろんなことがあって、気持ちの方が先走っていて、
頭の中が整理できてなくて、
こういう時は、本を読んでも、全く頭に入らないので、毎日音楽ばかり聴いている。

父は老衰で88歳で亡くなったから、急死にはあたらないかもしれないけど、
亡くなる二日前まで、普通に生活していて、その日の晩は、深夜も寝ないでワアワアしゃべって、母を困らせていたら、翌日意識を失って、あっけなく死んでしまった。

ずっと前から覚悟はしていたけど、いまひとつ、気持ちの上で、父の死を受け入れられないのかもしれない。

ブログを書くことで、頭を整理しようとしているのに、いかん。
余計にザワザワしてきた。


歌はいらない。言葉はムナシイ。ピアノの音色が心にしみる。
父の葬儀に間に合うように、大急ぎで「父と東京」という小冊子を作った。
葬儀屋さんの世界では、こういうのを「栞」というらしい。

父が亡くなっても、全然、涙も出ないし、平常心で受け止めていたのに、
この冊子を作るときに、父が24歳の時の写真に出会ってしまった。
いままで見た記憶はないが、見逃していただけかもしれぬ。

まだ母と出会う前の、自分が知っている小太りの父の姿とは全くちがう
やせた青年だった父の写真と対面したとたん、なぜか号泣してしまった。

前回のエントリで書いたトレーシー・ソーンの歌声のような清々しい、イノセントな感じの写真がまぶしすぎる。

だから、この写真を表紙に使うことにした。

Photo_3

もしかしたら自分でも解明不可能な、言葉では表現できない、心の奥底に横たわっている感情が爆発したのかもしれない。

Photo

出来上がった栞は棺の中に入れてあげた。
父は湿っぽい話が嫌いだったので、これでもうおしまいにしよう。

そうだ、小学校5、6年のころ、父と二人でたくさん洋画を観に行ったことを思い出した。
「ローマの休日」や「アラビアのロレンス」のリバイバル、確か新作の「2001年宇宙の旅」も観た。その中でも一番印象的だったのがアラン・ラッドの「シェーン」。

東銀座にあった東劇でワクワクしながら観た。
古き良き時代だったね。

 

2016年12月11日 (日)

固い殻が壊れてゆくのが面白くて、自分のことなのに、妙に客観視して見ているオレがいる。 その結果、すね者のアンダーグラウンドなメディアだった「懐かしき未來」が、那須町の小学生にも読んでもらうような健全な本として、世に出ようとしている。

ひと月ぶりのブログ更新。少しの時間でも、PCに向かうと、「懐かしき未來」の仕事をやっているので、仕方ないか。

最近ひとりで、ぼうっとして、物思いにふける時間が増えた。

この半年間、本を作りながら、ずいぶん、いろんなことを考えた。
中でも面白かったのは、学校の先生と一緒に仕事をして、初めてうまく行っているってこと。

東京下町の古風な花街で育ったオレは、引っ越し先の練馬の上品な幼稚園で、行儀よくお遊戯をするのは決まり悪くて、反抗的だった。当然先生にも嫌われて、叱られてばかりいた。

こうして幼稚園でつまずいて以来、高校卒業までずっと、学校の先生とは相性が悪くて、反体制、反権力のロック少年として育ってしまったから、サラリーマンを何年やっても、周囲の社会と馴染めず、アンダーグラウンドな人間として、一生を終えると思っていたから、エラい人、マジメな人、中でも学校の先生とは組んで仕事をしないことにしていた。

だから、ZINEとかリトルプレスって、どこかマイナー指向で、すねた気分があって、読んで欲しいけど、あまりたくさんの人には読んでもらいたくないような、アンビバレントな気分を抱えながら「懐かしき未來 その1」を作った。そういう意味では、ひとりぼっち史上最高傑作だったのかもしれない。

そんなオレが、偶然が重なった結果、現役ではないにしても、18年間も小学校の先生だった人と一緒に仕事をしている。
先生はオレの周りに50年かかって出来てしまった固い殻をガシガシ壊してゆく。
固い殻が壊れてゆくのが面白くて、自分のことなのに、妙に客観的に冷めた目で見ているオレがいる。
その結果、すね者のアンダーグラウンドなメディアだった「懐かしき未來」が、那須町の小学生にも読んでもらうような健全な本として、世に出ようとしている。

長年親しんだ自分の固い殻だから、殻が壊れるのは寂しいし、ちょっと心細い。

だけど、自分が始めたDIY普及活動を青空公房と名付けたのは、幅広く「自分で出来ることは、自分でやる」DIYスピリットを、一人でも多くの人と共有したいと思ったから。
青空公房の本来の目的にかなった方向に向かって進んでいるんだろうな、多分。

気合いを入れるのは、苦手だけど、2017年はそろそろ本気になる時かな。

そうしないと、一生本気にならずに終わっちゃうかもしれないし。

ひとまず、アンダーグラウンドと言えば、ヴェルベット・アンダーグラウンドの名曲をカバーしたトレーシー・ソーンの「ファム・ファタール」が、やっぱり今の気分。

何度聴いても、清々しくて、イノセントな感じで、ハッとするような輝きがあるからね。



2016年11月 3日 (木)

菊地さんとはある種の想いを共有している部分があって、それが「懐かしき未來」を作っているモチベーションになっている。 どんなものかは今回の「懐かしき未來 その2」を読んでいただくしかない。

親の介護やら、何やらで、フィールドワークどころか、ちょっとした外出も計画できない状況で、自宅でできることをやってみようと始めたシリーズ「懐かしき未來」の仕事だが、そのお陰で、いままで積ん読だった本も含めて、たくさんの本を読む機会に恵まれたのは、思わぬ喜びだった。
その中でも最高の出会いは、田中優子『鄙への想い』と、志村ふくみ・鶴見和子『いのちを纏う』かな。

それはさておき、ひとまず、編集作業がほぼ終わって、一番感慨深く思うことは、今まで長い間ずっと望んでいた伴走者とのコラボレーションによる本作りが初めて、理想的な形で実現したこと。
これはひとえに、菊地厚子さんという極めて優秀なパートナーとの出会いの結果なのです。

菊地さんは、150キロも離れた那須町に住んでいて、ふだん顔を合わせることもなく、知り合ったばかりで、どういう人かもよく知らないのだが、こういう適度な距離感と緊張感が制作チームには必要なのかもしれないと、初めてわかった。
今まではいつも、仲良しの友達を集めて、いろいろやろうとしたけど、ことごとく失敗してきた。

ただし、菊地さんとはある種の想いを共有している部分があって、それが「懐かしき未來」を作っているモチベーションになっている。
どんなものかは今回の「懐かしき未來 その2」を読んでいただくしかない。

今日は一日中、昼寝もしないで朝から夜まで、仕事をして疲れたから、そろそろ眠ります。
眠りのお伴は疲れた身体をほどよく癒やしてくれるビル・エバンスとジム・ホールの「スケーティング・イン・セントラルパーク」。
これもまた、二人のクリエーターによる閃きが、随所に感じられる名曲だよね。


2016年10月23日 (日)

青空公房の出版活動を通じて、どうやったら、みんなが希望を持って、幸せに暮らせるのか、みんなで一緒に考える機会を作ってみようと考えている。

この前のブログ更新が9月18日だった。
完全に、ひと月空いた。
でも、このひと月は、暑い時と違って、すっかり元気になったので、
「懐かしき未來」の仕事が忙しくて、ブログを書くヒマもなかったというのが
実情なのです。
新しく読んだ本はないけど、田中優子『鄙への想い』という本を再読して、
「都の思想・鄙の思想」に目覚めたりして、なかなか刺激的な日々でした。

そして、本日脱稿して、ひとまず一区切りです。
とは言っても、編集、校正、印刷、製本、販売まで、全部自分でやるので、
まだまだ忙しいんだけど、書き手としては、少しホッとしているところです。
二月頃から構想を練り始めて、手探りで書き始めたから、うまく書けるかどうか不安でたまらなかった。
サブタイトルっていうか、実質的なタイトルは「那須町で、きものの風が吹き始めた」にした。
もちろん今から変わるかもしれないけど。

ただ、今回から固定した部分もあって「懐かしき未來」の前に「生活世界を作り直すための 」って、枕詞を付けたこと。
「等身大の生活世界」っていう言葉があって、ぼくが一番影響を受けた玉野井芳郎という経済学者の著作集のタイトルだった。
なんか、難しいこと言ってるみたいだけど、全然そんなことなくて、茨城の農夫だったじいちゃんの時代なら、当たり前だった手作り感満載の暮らしぶりを、ちょっとでもいいから取り戻して、現金収入は少なくても楽しく暮らすための参考書にしたいっていうこと。

きものに入門するのも、かつての「気持ちのいい生活」を取り戻すための、ツールになることを、今回取材した菊地厚子さんから教えてもらった。

こんなとき、うちのじいちゃんが生きてたら、なんて言うだろうって、いつも考えている。
菊地さんも自分のばあちゃんのスタイルが根っこにあるという。

昔の年寄りの考えが、全て正しいなんて言うほど、ノスタルジーべったりな人間ではないけど、高度経済成長期以降の50年間、あるいはプラザ合意以来の、この30年間で、日本はどれだけ暮らしにくい国になってしまったんだろうって、よく考える。

小林信彦か誰かが言ってたけど、江戸期以来続いていた生活文化があっという間に消えて、等身大の生活世界が、この50年間で大きく変貌したのは間違いなく、その変貌が大きな会社を富ませて、都会の会社勤めの人々を物質的に豊かにしただけで、日本人全体が幸せに暮らすためのものではなかったことが、ますます明白になってきたのが、平成ジャパンだったと思う。

いまならまだ間にあう。きっと。
青空公房の出版活動を通じて、どうやったら、みんなが希望を持って、幸せに暮らせるのか、みんなで一緒に考える機会を作ってみようと考えている。

寺尾紗穂「夕まぐれ」

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