芦野をめぐる長くて大きい、様々な物語が、西行や芭蕉、あるいは長谷川櫂や隈研吾といった天才たちの力を借りて、自分の中で着実に醸成され始めている。
正月からイベント続きで、疲れ切っているみたい。
この所、ずっと体の調子がイマイチで、体が動かないから、休日でも本ばかり読んでる。
それに、いまの職場は田舎町だから、大きな本屋さんも図書館もないので、
本を買うのはAmazonでばかり。
Amazonがない時代なら、どうしてたんだろう。
そんなAmazon漬けの日々で、今週読み耽った本は先週に引き続いて長谷川櫂の『古池に蛙は飛びこんだか』と『和の思想』。
それと隈研吾『建築家、走る』『自然な建築』
偶然にも『和の思想』は隈研吾の建築を紹介しているのが面白い。
それ以上に、面白かったのが、この二人とも、若いときに那須の芦野を訪れていて、そこで貴重な体験をしているということ。どういうことのなのか、詳しくは、二冊の本を読んでいただきたい。
こうして、本を読んでいるうちに、那須町芦野がぼくにとって、特別な場所になってきた。
芦野をめぐる長くて大きい、様々な物語が、西行や芭蕉、あるいは長谷川櫂や隈研吾といった天才たちの力を借りて、自分の中で着実に醸成され始めている。
和とか、日本という言葉に、このところ辟易していたぼくが、久々に気持ち良く読んだ『和の思想』のあとがきにこんな言葉があったので、長いけれど最後に紹介したい。
和の力とはこの空白の島々に海を越えて次々に渡来する文化を喜んで迎え入れ(受容)、そのなかから暑苦しくないものを選び出し(選択)、さらに涼しいように作り変える(変容)という三つの働きのことである。和とはこの三つが合わさった運動体なのだ。
ところが明治維新を迎え、近代化(西洋化)の時代が始まると、和が本来、躍動的な力であったことは忘れられ、たとえば、和服、和室、和食などというように和を固定したものとしてとらえるようになる。
このような偏狭な和はしばしば弊害をもたらす。ひとつは日本人のよりどころである和を矮小なものにすることによって日本人を自身のない人々にしてしまうこと。もうひとつは和が偶像とされ、神話となって狂信的なナショナリズムを生む土壌となること。相反するかにみえる、この二つは実は表裏の関係にある。いつの時代、どこの国でも、偏狭なナショナリズムは人々の自信から生まれるのではなく、追いつめられた人々の不安や恐怖から生まれる。熱狂的なナショナリズムの仮面をはぎとると、そこには必ず自信を喪失した人々の不安な顔がある。
ぼくは、現在の為政者が煽り立てる偏狭なナショナリズムではなく、長谷川氏の言う躍動的な和の力を信じたい。
最近知った若いシンガーソングライター寺尾紗穂の「私は知らない」。
ここにも、すごい和の才能があるのを発見して、嬉しくなった。
« 人間の外側を取り巻いている「自然」→自分の体の内外で共鳴する「宇宙」へと、 視点を変えることで新しく見えてくるものがある。 もしかしたらこの本と出会って、何か、とてつもなく、 大きなモノを発見してしまったのかもしれない。 | トップページ | そして、一番の衝撃は、いままで自明なものと思っていた、自分を取り巻く自然や時間に対する感覚が変化すること。文学の世界では「異化」というらしい。 »
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