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2015年7月

2015年7月26日 (日)

『「デモ」とは何か』や『はじめてのDiY 何でもお金で買えると思うなよ! 』を読んでいると、DIYが単なる日曜大工という範疇を乗り越えて、ある種の新しい思想として、立ち上がる瞬間に立ち会っているようなワクワク感がある。

先週に引き続き、積ん読状態にあった本の虫干しをしている。

毎度繰り返される国政選挙結果に絶望して、天下国家を論じるような本を読んでも、選挙で一票を投じることくらいしか出来ない一般大衆には、あまり意味がないと思って、放り出してしまった本ばかりだ。

岩波新書の『岸信介』に引き続いて、いま読んでいるのは孫崎享『戦後史の正体』。

たしか、出版した当時、かなりのベストセラーになったはず。
高校生でも読める本というのが、編集上のコンセプトで、実際に読みやすいし、何よりも面白い。

一般的にはアメリカべったりのイメージがある岸信介が、実は自主独立派だという主張も一理あって、目から鱗が落ちた。

それよりも興味深いのは、吉田茂。
吉田茂って、ぼくが小学生だったころ、国葬になった偉い人という印象だったが、一皮むくと、問題点だらけの、三流総理大臣だったのね。
高田保の『ぶらりひょうたん』というエッセイ集に、大磯の地元で粗野な振る舞いをする吉田茂のことが書かれている。
同胞に対して粗野な振る舞いをするような人間は、どこかでバランスをとろうとしているからだと思っていたけど、そうかGHQにぺこぺこしてたから、周囲の日本人には威張り散らしていたって訳ねと、納得。

さらに乱読で、今朝から『森の生活』で知られるH・D・ソローの『市民の反抗(不服従)』も読み始めた。

ごく少数の者たち、たとえば英雄、愛国者、殉教者、偉大な改革者、それに人間の名に価する人間などが、肉体や頭脳ばかりでなく、良心をもって国家に仕えており、だからこそ彼らの大部分は国家に抵抗せざるを得ないのだ。そこで彼らは一般に、国家からは敵として扱われる。

150年以上前にソローが当時のアメリカ政府に対して放った言葉が重く、心にのしかかる。

以上の虫干しに加えて、金曜日に池袋のジュンク堂に行ったら、緊急フェア「民主主義を取り返せっ!!」をやっていたので、その中から数冊購入。

その中ではNHKブックスの五野井郁夫『「デモ」とは何か』が面白い。

まだ読み始めたばかりだが、この本を読むと、いま起きているのは、冷戦時代に政党や労働組合が主導したデモとは、根底から違うカルチャーのデモが始まっている気がする。

毛利嘉孝さんが書いた『はじめてのDiY 何でもお金で買えると思うなよ! 』の中で

DiYの政治のなかで重要な概念に「直接行動・非暴力」というのがあります。

と書いている。

『「デモ」とは何か』や『はじめてのDiY 何でもお金で買えると思うなよ! 』を読んでいると、DIYが単なる日曜大工という範疇を乗り越えて、ある種の新しい思想として、立ち上がる瞬間に立ち会っているようなワクワク感がある。

そしてそのワクワク感が、様々な分野に広がっている。
若い女の子の間でDIY作業がブームなのと、デモで若い女の子が、マイクを持って為政者に抗議するのは、一見関係ないようでいて、じつは深いところで繋がっているように思えてならない。

The Clash I Fought The Low

 

2015年7月25日 (土)

結論や持論を押しつけるのではなく、読み手は不断に考えさせられる。大きな思想に「倚りかからず」 自前の思想を保ち続けることを、ぼくたち日本人全員に要求し続けた人生だったのかなと思う。

先日、哲学者の鶴見俊輔さんが亡くなって、いろいろ思い出している。

ベ平連なんぞやっているのはソ連の手先で、書いたモノなど読む価値なしと思っていた、かつてのボクが初めて鶴見さんに接したのは、『限界芸術論』だったような気がする。

ボクが読んだのは、講談社学術文庫のバージョンだったが、一読して心酔したかというと、そんなことはなく、結論がすっきりしない尻切れトンボのような書き方で、さらに続編が出ることをほのめかす、変な本という印象だった。
それでも何か惹かれるものを感じて、何度も読み返すと、次第に「五千年前のアルタミラの壁画以来、落書き、民謡、盆栽、花火、都々逸にいたるまで、暮らしを舞台に人々の心にわき上がり、ほとばしり、形を変えてきた限界芸術」の大きな世界が眼前に広がっていたことに気付いた。

その後、雑誌「思想の科学」を始めとして、沢山の本を読んだが『限界芸術論』は例外として、鶴見さんの本は不思議なことに、読み終えると一旦、すうっと記憶から消えてしまう。
線を引いたり、付箋をつけたりするような、普段の読書習慣にはなじまず、テキトーに読み散らかしたまま、本棚の一番すみっこに押しやられている、そんな印象がある。

けれども、今になって思えば、最初に感じた「すっきりしない」ところが鶴見さんの真骨頂なのだろう。
結論や持論を押しつけるのではなく、読み手は不断に考えさせられる。
大きな思想に「倚りかからず」 自前の思想を保ち続けることを、ぼくたち日本人全員に要求し続けた人生だったのかなと思う。

7,8年前に我孫子で鶴見さんの講演を観たことがある。そこで柳宗悦について語ったことで、印象に残っているのが「卒業しない人」ということ。
戦前、戦中、戦後を通じて、時の権力におもねることなく、自分のスタンスを守り抜いた柳のことを「卒業しない人」と表現しながら、鶴見さんは自分のことを語っていたのだと今になってわかる。

孫崎亨『戦後史の正体』を読むと、終戦後続いたGHQの支配が、どれほど過酷なものだったのかわかる。
そんな状況の中で、ハーバード大学卒業の鶴見さんが、アメリカにおもねることなく、距離を置いて、言論活動することの大変さに思いをはせる。

アベ某のフォロアーは、国会前のデモに参加する人たちを、左翼だの、アルバイトだのと、根拠のないデマを飛ばしているけど、実際にデモに参加すれば、よくわかる。
ベビーカーを押してやって来る若いお母さんのように、普通に生きている市民が国会議事堂の前で声を上げている。

40年前、50年前のデモとは全く違う風景がそこに広がっている。
時代は変わってゆく。

そんな時代の変化の一番奥底には、鶴見さんが求め続けた思いが息づいている。
そんな気がしている。

ニール・ヤング「孤独の旅路」

2015年7月18日 (土)

「 そして、今日の状況下では、カリスマ的リーダーは、間違った指導性を発揮せざるをえない。カリスマ的リーダーは、新しい現実に向かってではなく、昨日という過去に向かって進まざるをえない。」PFドラッカー『新しい現実』より

今週は激しく政治のことばかり考えているなあ。
国民をなめすぎだって、堪忍袋の緒が切れたのは事実だけど、
あまりヒートアップするのも嫌いだ。

ぼくの身体には、熱狂するのは危険だと感じるサーモスタットが組み込まれているようで、
怪しくなると制止される。
『傍観者の時代』を読むと、ピーター・ドラッカーもそういう体質だったらしい。
だから大勢で叫ぶデモってやつも苦手で、水曜日はやむにやまれず、人生2回目のデモ参加。
今後は、デモよりも、ファシズムに騙されないようにする日常的な勉強の方が大事だと思うので、早速発行さればかりの『丸山眞男と田中角栄』という本を手に入れた。

毎日会社の近所の駅で演説している若手の区会議員がいる。
ふと思ったんだけど、角栄が総理だった時代など知るはずもない、
若い彼の演説がどことなく角栄調なのです。

そうか、政治家が低い目線で庶民に話しかけるってシチュエーションにおいて、いまだに角栄のDNAは引き継がれているってことなのね。と深く納得した。

とは言うものの、さすがにもう古くさいのです。角栄調は。
そして、今の時代に角栄のようなカリスマ性は必要ない。
演説の上手なオバマも、日本に必要ない。

個人的にドラッカーの最高傑作だと思っている『新しい現実』の第8章「カリスマを警戒せよ」にこんな印象的な一節がある。ちょっと長いけど引用します。

かくて、新しい現実を踏まえた政治のモットーは、「カリスマを警戒せよ」でなければならない。しかし今日、カリスマは流行である。カリスマは、いたるところで話題となっている。カリスマ的なリーダーの本は、無数である。
そして、政治が興奮をもたらす華やかな存在だった時代に対するノスタルジアがある。しかし今日、カリスマ待望は、政治的自殺願望である。
実は、二〇世紀ほど、カリスマ的なリーダーに恵まれた世紀はなかった。そして、二〇世紀の四人の巨大なカリスマ的リーダーほど、政治的なリーダーが害をなしたこともない。
スターリン、ムッソリーニ、ヒトラー、毛沢東である。
われわれにとって重要なことは、カリスマ性の有無ではない。カリスマ的であろうとなかろうと、政治リーダーが正しい方向に行くか、間違った方向に行くかだけが問題である。
そして、今日の状況下では、カリスマ的リーダーは、間違った指導性を発揮せざるをえない。カリスマ的リーダーは、新しい現実に向かってではなく、昨日という過去に向かって進まざるをえない。

1989年に翻訳出版された本なのに、まるで今の日本の「新しい現実」を見て、本日出版された本のような臨場感あふれるドラッカーの洞察力にドッキリする。

じっくりと、足もとを固めて、国政レベルじゃなく、市町村議会から、世の中を変えてゆく方向って、あるんじゃないかと思う。
度重なる国政選挙結果に絶望して、政治に関係するコメントは避けていたが、いまのようなファッショ政治が跋扈するのを指をくわえて見ているほど、こちとら、あまちゃんでもないぜ。

三連休の初日、そとは曇り空だけど、気分だけは青空にしたいから、この曲を選んだ。
ぼくが初めて書いた小説のタイトルにもした「外はいい天気」。
この世にあるすべての楽曲の中で、これが一番好きかもしれない。

原曲ははっぴいえんどだけど、これは大瀧詠一のソロライブバージョンで。

2015年7月16日 (木)

どうして、アメリカにくっついていれば安心なんて、ノー天気な国家ビジョンが21世紀になってわき上がってくるんだろう。50年間争い続けて、とうとうアメリカを屈服させたキューバ人のしたたかさにこそ、学ぶべきだろう。いくら勇ましいことを言っても、ひ弱な国家ビジョンしか持たない連中に21世紀の日本を任せる訳にはいかない。

自公政権の強行採決が行われて、さすがに、いろいろ考えてみた。現在の日米関係をみれば、アベ某の言う集団的自衛権なるものが、自衛隊をアメリカの傭兵部隊にする権利(義務?)になることは明白で、到底賛同などできるわけもなく。

だけど、いったん戦争が始まってしまえば、きっとおれは、勝利のために最大限の協力をするだろう。「花子とアン」の蓮子さまのように子どもに「武運長久」と言って、戦場に送り出すだろう。自国が蹂躙されるのは、断固拒否したいから。

だからこそ、絶対に戦争を起こさないような国際関係や社会の仕組みを作って、備えておくべきだと、強く思う。

そもそもこんなに食料自給率の低い国が、外国と争って、勝てるわけないじゃん。
まずは、TPPなんてやめて、食料自給率を高める努力が必要。
ぼくは自衛隊が違憲だとは思っていないけど、国土を防衛するためには、どんな種類の武力が必要なのかも、検証する必要がある。アメリカの言いなりでつまらぬ武器を高額で買わされるのはまっぴらごめんだ。
この際、お金持ちのアメリカに勝利した貧乏なベトナムの戦い方だって、参考にすべきだと思う。

どうして、アメリカにくっついていれば安心なんて、ノー天気な国家ビジョンが21世紀になってわき上がってくるんだろう。50年間争い続けて、とうとうアメリカを屈服させたキューバ人のしたたかさにこそ、学ぶべきだろう。いくら勇ましいことを言っても、ひ弱な国家ビジョンしか持たない連中に21世紀の日本を任せる訳にはいかない。

いまから、ドラッカーを読んで、おれも猛勉強しなくちゃ。ああ忙しい。

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2015年7月11日 (土)

叢書のようにシリーズ化したストリート・ガイドブックを通じて、東京・千葉・埼玉にまたがるEDO RIVER CITYという幻の200万都市を、勝手に作ろうという無謀な試みは、自分の中の「風街」を作る作業なのかもしれない。

金曜日に会社を休んで、久しぶりに胃カメラというやつを体験した。
7年前に父親が胃がんを患ったことがあるので、そろそろ、おれもやばい年齢かと
緊張したが、結果は良好で、慢性胃炎はピロリ菌の疑いがある程度で、一安心。

そうなるともう、自分の体内というフロンティアをデジカメで写した写真集を見る気分。

気がかりだった、逆流性食道炎は見事に完治していて、幸か不幸か、「逆流亭写楽斎」というハンドルネームが使いにくい状況である。

とは言っても、歳だから、暴飲暴食を重ねると、いつまた発症するかわからない。
年相応に、慎ましく暮らすことが肝要だと、改めて痛感した。

でもって、3時に二軒目の病院も終わって、市川国府台のCOYA-GALLERY DENに行った。

COYA-GALLERY DEN

かみさんの友人Mさんの息子Kくんが写真家になっていて、初めての個展だそう。

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Kくんは不在で、会えなかったけど、すべての作品が、「夏」という季節を感じさせる可愛らしいお嬢さんの写真で、勢いがあって、若者らしくていい。
異性が未知なるフロンティアに見える年代だもんね、10代、20代って。

なんか、すごく分かる気がする。

おれたちオヤジが、都市の小汚い路地裏やアウトドアのフィールドに、「秘密の花園」を見つけたいと願う気分と変わらぬ気分なんじゃないかな。

子どもの時には、子どもならではの、若者の時には、若者ならではの、年寄りには、年寄りならではの、見える世界がある。

「秘密の花園」といえば最近、松本隆の作詞家活動45年関連出版が続いていて、大いに楽しませてくれる。そういえばこんなアルバムもつい、勢いで買ってしまいました。

この45年間を振り返ると、、ぼくは松本隆にずいぶん影響されてきたなあって、思う。

友だちから借りて聴いた「風街ろまん」というはっぴいえんどのアルバムで、最初に衝撃を受けたのが、サウンドよりも歌詞の部分で、アバンギャルドで意味不明なのに、心にさまざまな情景が浮かんでくる、不思議な歌詞の世界があることを知った。
いまでこそはっぴいえんどフォロアーが大勢いるけど、当時はロックに乗せて、文学性豊かな歌詞を歌うバンドなんか他にいなかった。

それと、「風街」というコンセプト。
想像の翼を広げて、自分の心の中に「幻の街」を作るというクリエイティビティに強い共感を覚え、はっぴいえんどを解散してすぐに出した著書『風のくわるてっと』に心惹かれた。

叢書のようにシリーズ化したストリート・ガイドブックを通じて、東京・千葉・埼玉にまたがるEDO RIVER CITYという幻の200万都市を、勝手に作ろうという無謀な試みは、自分の中の「風街」を作る作業なのかもしれない。

そして、盟友だった大瀧詠一の急死に衝撃をうけて、いまやるべきことを、やっておこうという松本さんの決意にも、久しぶりに心を揺さぶられていて、ちょっとうれしい。

今日はKくんに、ちょっと意味深なこの曲を捧げよう。

 

2015年7月 5日 (日)

「BOOK5」に「オバケダイガク」の北野留美さんのことが載っていた

「つゆのあとさき」という作品があったが、永井荷風は雨が好きな作家だと思う。
濹東(ぼくとう)綺譚の中では、驟雨雷鳴の中で、ヒロインのお雪さんに出会う。
そう言えば「
雨瀟瀟」なんてタイトルの作品もあった。

以前は憂鬱な梅雨時だと思っていたこの季節が、近年愛おしく思えるようになってきた。
最近は真夏の暑さが度を超していて、一時期テレビの天気予報でよく聴いた「25度以上は熱帯夜」なんていう言葉もあっという間に死語になり、30度以下ならホッとするような、息絶え絶えの夏。

暑くもなく、寒くもなく、ちょうどいい気温で、過ごしやすいこの時期は、読書にはもってこいの季節だ。そこで週末の金曜日に池袋ジュンク堂の「リトルプレス」のコーナーで、2冊購入した。

ジュンク堂に行くと数十種類のリトルプレス(ZINE)が並んでいて、どれを買おうか迷ってしまうのだが、デザイン優先の文章が少ないモノ、企業の広告が載っている本格的なタウン誌風のプロの香りがするモノはなるべく避けて選ぶと、案外選択肢は少ない。

その中から、今回は金沢の有志が作っている「そらあるき」と、トマソン社という個性的な書店が出している「BOOK5」を購入した。
「そらあるき」はタウン誌の色彩が濃いので、説明はスキップ。
なんと言っても、面白いのは「BOOK5」だな。
トマソン社

Book5_1


休刊した雑誌「彷書月刊」に似たような雰囲気がある。
ぼくは愛書家ではないので、「彷書月刊」の読者にはならず、いまではAmazonで電子本のビジネス書を買い、iPhoneで読書するような、へたれ読書家だから、ブッキッシュな人たちから見たら、許せない野郎だということになる。
なかなかこの世界はディープで、ぼくのようないい加減な人間を寄せ付けない訳で、鉛筆で本に書き込みを入れる度に、この世界に住んでる友達から、怒られてばかりだ。

そんなへたれ読書家だけど、「BOOK5」に「オバケダイガク」の北野留美さんのことが載っていたので、つい買ってしまった。

オバケダイガク

Book5


「BOOK5」載っている北野さんのコメントによれば、もともとネットで書いていたということで、ウェブサイトの方も、かなり充実していて面白い。
こういうやり方をすれば、念願の「新葛飾土産・アンプラグド」を作れるかなと、ちょっと背中を押された気分になる。

「オバケダイガク」を教えてくれたのが、市川真間のブックカフェ「ローゼンホルツ」さん。
この場所も、とにかく不思議で、面白いんだけど、その話はまた次の機会にしよう。

往年の妹尾河童の本のように、手書きの文字がびっしりと並んだ「オバケダイガク」の紙面は素朴な迫力に満ちていて、すごくいい。
ぼくも愛読者になっていまいそうだ。

お散歩兼ねて、玉ノ井カフェまで行こうかしらん。

James Taylor - Rainy Day Man

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