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2014年5月

2014年5月31日 (土)

低料金のコミュニティバスの観光目的利用って、いいでしょ。 そして、小さな旅のお供には、小さなガイドブックも必要と考えて、作っちゃうことにしました。

昨日は、急いで仕事を切り上げ、夕方土浦へ。
天気はサイコーで、気分も上々。
待望のキララちゃんバスに乗って、45分間の土浦市内観光を体験する。
駅の改札を抜ける瞬間、不思議なことに突然、頭の中でバッファロー・スプリングフィールドの「オン・ザ・ウェイ・ホーム」が鳴り響いた。
ということで、土浦のマイ・テーマソングはこの曲で決まり。

CSN&Yのライブ「4ウェイ・ストリート」では、作曲者のニール・ヤング自身が歌った名曲だが、リッチー・フューレーが歌ったオリジナルバージョンが、心ウキウキで、気分なのだ。

キララちゃんバスは初めて乗るけど、BコースとCコースは多少イメージがわくので、全く足を踏み入れたことのない地域を巡るAコースの「市民会館循環」に乗ることにした。

路線図は下記の通り。

キララちゃんバス

どうですか。45分間もバスに乗って、市内を見て歩いて、たったの100円ですよ。

一日乗車券だって、たったの300円です。

これ利用しない手は、ないでしょう。

バスの出発時刻まで、20分間あったから、のんびりとベンチに腰掛けて、空を眺めた。

Img_2526

低いビルの向こうには、大きく青空が広がる。

こういう、なんてことのない、ぼーっとする時間が貴重だ。

東京では、こんなゆったりした気分で、バスを待つことなどない。

イライラ、せかせか、まだ来ないのかと気をもみながらバスを待つのは、ストレスになる。

実際に走ってみたAコースでは霞ヶ浦に面した土浦港のマリーナを巡るあたりも、花が綺麗で見応えがあるが、何と言っても最後の真鍋地区、善応寺から旧水戸街道に入って、桜橋までの道のりは見事。

旧街道らしく、クランクのカーブが続き、古民家が並ぶ風景が渋い。

葛飾金町の新宿にも同じ様な場所があるが、ほとんど往時の面影を失っていて、虚しくなるばかり。

ここでは、いまだに江戸の旧街道が生きているのがうれしい。

低料金のコミュニティバスの観光目的利用って、いいでしょ。

そして、小さな旅のお供には、小さなガイドブックも必要と考えて、作っちゃうことにしました。

Img_2527

仲間と飲んでるうちに、どんどん、そんな話になって。

こういう展開は、きっと上手くいく。そんな予感があります。

秋には完成する予定です。

さあ、これから忙しくなるぞ。

 

2014年5月29日 (木)

この歌い手さん二人は、日頃どれほど節制して、修練を積んでいるのだろうと考えたら、 生きて、元気な体で、この貴重なライブに遭遇したという事実に、グッときて、涙が出そうになった。

今週の月曜日、4月6日のエントリで紹介した歌曲集「枕草子」リリース記念コンサートに行ってきた。

入り口でチケットを見せると、日本の伝統色で印刷された美しい小冊子を渡される。

宣伝用のパンフレットの類いかと思いきや、コンサートのプログラムを兼ねた解説書だった。

ふだん浅草や押上や小岩といった下町の居酒屋で飲んだくれているオヤジには縁遠い、ハイソな雰囲気漂う、赤坂サントリーホールの小ホール「ブルーローズ」は、木製の椅子席が、明治時代の音楽会会場みたいで(といっても当然行ったことないから、そんな気がするだけだが)、一歩足を踏み入れた途端、はやくも上田知華の表現したい世界に引きこまれる。

コンサート告知ビデオにはたっぷり3曲も収録されているので、御用とお急ぎでない方は鑑賞して下さい。


美しいメロディーと、クラシックの歌手たちの歌声は素晴らしいんだけど、音楽だけでは単調なので、コンサートの途中で眠ってしまうだろうなあ、なんて、心配していた。
ところが、そんな心配を吹き飛ばすように、作詞を担当したコピーライター一倉宏さんと詩人のアーサー・ビナードさんの話が、猛烈に面白い。
というより、枕草子や清少納言を語る、二人のトークライブと音楽が、どちらが主、どちらが従という訳ではなく、完全にセットになっている。
日本の古典文学とクラシック音楽が絶妙なハーモニーを奏でている。
マイクを通さない歌い手の肉声の響きに心を揺さぶられる。
この歌い手さん二人は、日頃どれほど節制して、修練を積んでいるのだろうと考えたら、
生きて、元気な体で、この貴重なライブに遭遇したという事実に、グッときて、涙が出そうになった。

最後に、総合プロデューサとして紹介された上田知華は、貫禄十分で、落ち着いた綺麗なおばさまになっていたけど、出演者の名前を間違えたりして、年相応のボケも演じてくれた。
ポップスで、若くして頂点を極めた上田知華が、本当にやりたかった世界にたどり着いたことを、一緒に喜びたい。
そして、お互いここまで、死なずに生きてきたことで、年季を経た彼女の才能満開の、今まで、見たことのないとても、不思議なイベントに遭遇したことに、心から感謝したい。

ああ、コピーライターみたいなキャッチーで簡潔な文章で、上田知華の復帰を祝福したいのに、アンツルこと安藤鶴夫みたいな、、、、、だらけの文章になっちまった。
そろそろ、溜池山王駅から銀座線に乗って、アンツルの町浅草方面に帰ろう。
夢は一夜限りがいいのだから。

2014年5月24日 (土)

70年代にすでに成長の限界ってやつが来ていて、産業界では減量経営なんて言葉が流行っていたのに、力づくで高度成時代の夢よもう一度とばかり、首相自ら外国製品のセールスマンを演じた狂った時代だったなあ。アメリカンチェリーなんて、大味の怪しい果物がスーパーの店頭で誇らしげに売られていたことを思い出す。

久方ぶりの穏やかな何もない週末、しばらく水やりだけだった鉢植えのハーブを植え替えて、鉢を大きくしてあげた。
秋に植えた時は、ちっとも育たないと思っていたペパーミントだけど、春はグングン大きくなるので、忙しい。
人間と一緒で、青春の勢いを感じるんだよね。
こちとら、とっくに人生の秋を迎えて、連休疲れがなかなか抜けず、今週後半になってやっととれてきた感じだ。

今週も先週に引き続いて、水野和夫さん関係の固い本を読んでいる。

大澤真幸との対談『資本主義という謎』を読んだら、『東京プリズン』という小説を題材に80年代を「虚構の時代」だと書いてある。

70年代にすでに成長の限界ってやつが来ていて、産業界では減量経営なんて言葉が流行っていたのに、「力づくで高度成時代の夢よもう一度」とばかり、首相自ら外国製品のセールスマンを演じた狂った時代だったなあ。アメリカンチェリーなんて、大味の怪しい果物がスーパーの店頭で誇らしげに売られていたことを思い出す。

そう思えば直近の20年を「失われた20年」なんていうのも間違った見方で、リアルが70年代から続くこの20年で、80年代だけが夢と幻に狂った時代だったということ。

80年代イギリスでぱっと花開いて、80年代の終わりには自然消滅してしまったスタイル・カウンシルというバンドがあった。

繊細で内省的なポール・ウェラーのボーカルに漂う憂鬱感が、今振り返ると時代の気分を反映しているような気がする。

トレイシー・ソーンのボーカルが印象的なこの曲にも、同じ様なけだるい気分を感じる。


歴史は繰り返す。

何度でも。

大学の授業でも18世紀イギリスの「南海泡沫事件」を教わったっけ。
3.11にもまったくひるまない、「力づくで高度成時代の夢よもう一度」首相率いる政府が演出するプチバブルの先には、必ずバブル崩壊が待っている。
どこまでそれをソフトランディングさせることが出来るのか、どうやらおれたち日本人の叡智が問われているみたいだよ。

バブルに踊った連中をおれたちの税金で救済するのだけは、もう終わりにしなきゃね。

2014年5月19日 (月)

 国家レベルの大きな経済政策を云々するのは、ぼくたちの手に負える話ではないけれど、「よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に」やる知恵は、地域通貨を始めとして、いろいろあるでしょう。

先週のエントリで「どっちにしろ、イライラした都会のリズムや、人の命より経済のほうが大事なもう限界まで来ているのに、まだ破滅に向かって突進している経済至上主義は、もうたくさん。」なんて書いた。
そう言えば3月に水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)という本が出版されたなあなんて、思い出して、遅ればせながら読んでみた。

頭のいい御用経済学者なら、いろいろ反論があるかもしれないけど、ぼくみたいな理論に弱い経済学徒には、もう十分すぎるほどのクールな分析で、資本主義社会の終焉を説く。

個人的な意見としては、資本主義社会の終焉というよりも、成長至上主義社会から定常型社会ということだと思うのだが、これだけ「強欲」なグローバル資本主義が国を壊し、地域を壊し、暮らしを破壊している現状を見ると、「資本主義の終焉」という強いフレーズを使う必要があるのかもしれない。

ただ、マルクス主義の影響が強かった日本では、資本主義の否定=マルクス主義の社会=中国・北朝鮮なんて、おぞましい連想をする人も多いので、本来目指すべき定常型社会のイメージはなかなか伝わりにくいかもしれない。

経済学のことを書くと、どうも理屈っぽくて、いけないね。

で、何が問題かというと、貨幣=お金が資本として世界中を駆け回って、ものすごい勢いで、人間の暮らしを破壊しているってこと。

特に1995年あたりからIT革命によって、「強欲」な資本の猛威は、国民国家など無関係にグローバルに世界中を駆け巡るってこと。

漠然とした実感はあったけど、この本を読んで納得した。

水野さんは学者だから、慎重に言葉を選んで、そこから脱却するための処方箋を書くことは避けているが、「より速く、より遠くへ、より合理的に」という近代の理念を「よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に」に転じなければいけないと書いている。

そこで、ふと思いだしたのが地域通貨のこと。

『モモ』で知られる児童文学作家ミヒャエル・エンデは、地域通貨の研究者でもあった。

こんな本が出ている。

ぼくが住んでいる松戸にはビアーという「酔いどれ祭り」の時使う地域通貨があるけど、最近足繁く通っている土浦にはキララという本格的な地域通貨がある。
地域通貨「キララ」の取り扱い方について
「キララ」には土浦市内の有力なお店が参加しているから、もう少し運用面を発展させると地域振興に力を発揮するかもしれない。
日本の歴史上でも地域通貨が使われた時代があって、江戸期には藩札といって、藩ごとに領内だけで通用する通貨があった。
水野さんは第五章の最後をこう結んでいる。

「歴史の危機」である現在を、どのように生きるかによって、危機がもたらす犠牲は大きく異なってきます。私たちは今まさに「脱成長という成長」を本気で考えなければならない時期を迎えているのです。

国家レベルの大きな経済政策を云々するのは、ぼくたちの手に負える話ではないけれど、「よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に」やる知恵は、地域通貨を始めとして、いろいろあるでしょう。

ボビー・チャールズの名曲をシャノン・マクナリーがカバー。
小さなまちの昼下がり、古ぼけた珈琲屋で、のんびりとコーヒーでもすすりながら聴きたくなるなぁ。

2014年5月11日 (日)

ゆがんだ経済至上主義社会を、せめて心の中だけでもリセットしたくて、経済史の泰斗大塚久雄の本を開いて、エンクロージャーが始まる前、ヨーマンと呼ばれる独立自営農民が勃興した初期資本主義時代の英国農村にワープしたくなる。

ああああ。

昨日書いたエントリの後半部分が保存されずに、エラーになってしまった。

大工仕事疲れが、一週間も続き、ぼうっとした頭で書いたのに…。

もうぐちゃぐちゃで、書き直す気にもならず。

支離滅裂なエントリになりそうだよ。

まずは気分直しに、こんなへんてこりんな曲をどうぞ。

バート・バカラックが作ってソフトロックのハーパーズ・ビザールが歌った怪しい和風曲を日本人が邦訳してカバーするというわけのわかんない展開。

海外の要人の目の前で、AKB48の学芸会みたいな唄と踊り見せるより、こんな唄を見てもらうといい。

こちらの意図がわからなくなって、要人たちの頭が混乱すること間違いなし。

有利な交渉を進めるには、ミステリアスな部分も必要なのよ。

それはさておき、ぼくは、ただの吞兵衛で、麻雀、カラオケ、ゴルフっていうオヤジカルチャーには全く縁がない。
競馬やパチンコにも興味がわかず、場末のスナックに入り浸るオヤジの気持ちも全く理解できず、人と同じ事をやるのが苦手で大学時代もマジメに就職活動をせず、学校を卒業しても、正しい社会人になれず、ドロップアウト気味だけど、ドロップアウトする勇気もないまま、30数年も産業界の底辺で、這いつくばって生きてきた。

物心ついて、出来た最初の友達が隣の家に住むひとつ年上の女の子で、小学校に上がるまで親しく遊んだ男友達がいなかったせいだろうか。
中学高校の6年間を男子校で過ごしたのに、男だらけのオヤジ集団は、居心地が悪い。

そこでふと気づいたのは、「乙女カルチャー」ってのがあるってこと。

サブタイトルに「乙女カルチャー」入門と書いてある山崎まどかの『オードリーとフランソワーズ』という本は、折に触れて読み返す愛読書。

実は男だった千野帽子の『文藝ガーリッシュ』にも影響を受けた。

このところ、NHKの連続テレビ小説「花子とアン」が気に入ってしまい、毎日見ているのも、同じ理由かなあ。

後半生は色街で美女を物色する好色な爺さんというイメージの永井荷風だけど、『地獄の花』を頂点とする初期の作品は、青年らしく社会の矛盾に厳しい眼を注いでおり、今日で言うフェミニストの側面が強く出ている。

こんなことを書いていると、四方八方から石が飛んできそうなマッチョな世の中だから、どうもぼくみたいなへなちょこ野郎は、肩身が狭い。

長男も結婚したし、ひとまず最低限の社会的役割を果たしたので、50歳から地図の勉強を始めた伊能忠敬のように、本格的な隠居は無理でも、せめて心の中だけ隠居しよう。

例えば、時空間を超えて、ゆく。

歩く旅で、実際に不思議な国、牛久の小川芋銭ワールドに行くもよし。

銚子から群馬まで利根川を辿って、柳田国男や赤松宗旦の足跡を追うのもよし。

書物で南方熊楠を繙いて、和歌山の熊野の森で魂を遊ばせるのもよし。

どっちにしろ、イライラした都会のリズムや、人の命より経済のほうが大事なもう限界まで来ているのに、まだ破滅に向かって突進している経済至上主義は、もうたくさん。

ゆがんだ経済至上主義社会を、せめて心の中だけでもリセットしたくて、経済史の泰斗大塚久雄の本を開いて、エンクロージャーが始まる前、ヨーマンと呼ばれる独立自営農民が勃興した初期資本主義時代の英国農村にワープしたくなる。

食べていくために必要最小限のエネルギーをビジネスに注いで、残りは想像の翼を広げて

己の心の中の平安だけはなくさないように、気をつけながら暮らしたい。

前にも書いたことがあるけど、荷風の言う「心の自由空想の自由」そこには何人たりとも侵略することは出来ないからね。

こんな気分。

「自分の心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能わず」(永井荷風『断腸亭日乗』昭和十六年1月1日)

今朝は気持ちのいい朝だから、ピチカートついでにこんなふざけた曲をもう一曲。

2014年5月 6日 (火)

色川さんや島田さんが教えてくれた常総文化圏という地域文化の存在。 そして、江戸東京と水郷・ひたち野が江戸川、利根運河、利根川、霞ヶ浦を介して繋がっている。 ますます、面白くなってきた。

昨日、伊能忠敬のことを書いたら、4年前に佐原に行った時に地元の観光案内所で買った本が気になり、再読した。

島田七夫『佐原の歴史散歩』という本で、柏のたけしま出版から出ている。
実は発行人の竹島いわおさんは知り合いで、今年の流山市立博物館友の会の新年会では隣に座ったので、この本に関してお話ししたばかり。

著者の島田さんもご健在だと聞いた。

常総文化を担う文化人たちが序文で紹介されている。

「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」とまで言われ、大商人・大地主・大実業家などが生まれ、地方文化の発展に寄与するところが大きかった。国学・和歌・絵画の楫取魚彦、日本実測全図の伊能忠敬、俳諧の葛斎恒丸、和歌の永沢躬国、儒学の久保木青淵、書家の柳田正斎、講談師の初代田辺南竜、国学・和歌の伊能穎則、漢学・地理の清宮秀堅など数多くの俊英を輩出した。

佐原は霞ヶ浦をはさんで土浦とは東西の両雄ともいえる町で、昔は交流も盛んだったという。
ぼくが子供の時分は、土浦から佐原まで国鉄バスが通じていて、運行ダイヤのうち、江戸崎行きが約半分、残りが佐原行きと浮島行きだったような記憶がある。
当時、江戸崎と浮島には行ったが、佐原には行ったことがなかったので、4年前に一人旅で佐原に初めて行ったときはうれしくて、このブログにもアップした。
佐原:町の記憶
現在の佐原は川越、栃木と並ぶ小江戸として繁栄している。
平成八年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。
B29による本格的な空襲の被害をまぬかれ、町の性格もよく似た両市だが、駅舎を壊し、川口川を埋め立て、古い建物が消えて、景観が変貌した土浦とは対照的に見える。

だけどね。上記のエントリで書いたこの言葉は、現在の土浦にだって通用するって、思うのよ。

江戸に行ったことがないので、江戸情緒がどうのこうのと言われてもピンと来ない。

小江戸だとか、江戸まさりなんて言い方もあまり好きではない。

だって今の日本に江戸と比較出来る都市など存在しないでしょ。

(中略)

もしも佐原を江戸まさりというなら、個人商店主たちが、がんばって、町の空気を作っている。

東京のほとんどの町で失われた町の記憶を大事にしている。

そんな所にこそ感じるべきなのかもしれない。

佐原の町並みに見る江戸情緒云々は、杉浦日向子風に言えば「蝉の抜け殻を愛でる」ようなもんで、佐原の古い本屋の跡やソバ屋に入っても、感動には至らない。

とは言いつつも、土浦サイドから見るといささか悔しいが、素敵な町並みには心惹かれる魅力がある。

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だけど、それよりも、荒物屋のご主人の町への愛着や商品へのこだわりに、江戸を感じた記憶がある。

その店で買ったつげの櫛は今も愛用している。

この半年、土浦の商人達と話をして味わった感動もそれに近い。

古風な町並みだけじゃなく、文化とか、エートスとか、矜恃とか、そういったメンタル面と暮らし方が重なってはじめて深い感動を呼ぶ。

色川さんや島田さんが教えてくれた常総文化圏という地域文化の存在。

そして、江戸東京と土浦を中心とした水郷・ひたち野が江戸川、利根運河、利根川、霞ヶ浦を介して繋がっている。

ますます、面白くなってきた。

以前、佐原と言えばノラ・ジョーンズが似合うと書いたので、本日はスタンダードナンバーの「ニアネス・オブ・ユー」を。


2014年5月 5日 (月)

伊能忠敬の日本地図という金字塔は一人の才能と努力だけで出来たのではなく、利根川や霞ヶ浦周辺の常総文化圏という茨城、千葉の県境を越えた地域文化によって生み出されたということ。

色川大吉さんというちょっと風変わりな歴史家がいる。
那須の山小屋の書庫をひっくり返していたら、色川さんの『民権百年』という本を見つけた。
以前読んだとき、軽く読み飛ばした箇所が気になって再読した。
我孫子市での講演をまとめた「わが故郷北総の水系文化」という文章だ。

この中で、千葉県の佐原生まれの色川さんは、色川一族が茨城県の土浦に縁が深いことを説明している。

例えば醤油製造で財をなした人で、国学者の色川三中の息子が色川三郎兵衛。

土浦の町を水害からまもるため線路を土手として活用することを考案し、常磐線の計画路線変更や川口川閘門の建設につくした。

三中の弟が色川御蔭で、国学・蘭学に秀で、品川のお台場の設計や経済学の本を著した。

色川さんによれば、利根川水系の水運が、文化運動でも政治運動でも重要なルートになっていて、江戸時代後期から、このエリアは常総文化圏といって江戸文化と一体となった地域文化が形成されたという。

例えば佐原の伊能忠敬は有名だけど、忠敬が大成するには地域に下地があり、忠敬が子供の時分には土浦を中心に霞ヶ浦周辺地域には和算学の先生が大勢いて、それぞれ寺子屋をやっていた。忠敬も16歳の時に土浦まで行って数学を習った。

そして、常総地域には伊能忠敬だけでなく、地理学者がたくさんいて、『利根川図志』を著した赤松宗旦や、地球儀や地球上の万国全図を作った沼尻墨僊も同じ時代に活躍したし、他にも四、五名の地理学者を輩出している。

幕末から明治の十年代位にかけまして、実は日本の文化をその頃担ったのは都市の人ではなくて、逆に農村の人 が比重としては圧倒的に大きい。あるいは農村に影響を与えた小さな町、土浦とか何処そこの小さな城下町や宿場町などとその周辺における、いわゆる豪農とい われる人びと、これらが幕末から明治の十年代にかけて非常に時代を担ったのであります。

講演をそのまま文章にしたので、ちょっとおかしな文章だが、要するに、江戸期には4月29日にアップした下記のエントリのように、大都市中心ではなく、土浦のような地方発、地域発の文化が広範囲に存在して、日本中を活性化していたということだろう。

そんな事態を避けて、これから日本で面白い町、楽しい町を作るには、両者を繋ぐ江戸時代の「連」のような少人数の組織が必要なんじゃなかろうか。

伊能忠敬の日本地図という金字塔は一人の才能と努力だけで出来たのではなく、利根川や霞ヶ浦周辺の常総文化圏という茨城、千葉の県境を越えた地域文化によって生み出されたということ。

そういった地方文化の担い手だった優秀な農村青年たちが自由民権運動の中心になったが、その挫折と共に明治30年代には、東京へと流出して地域文化は崩壊したという。

常磐線の開通が明治29年だから、鉄道でダイレクトに東京と繋がって、容易に東京に出られるようになったことも、地域文化崩壊の一因であろう。

色川さんの講演の紹介をしたら、ちょっと固いエントリになった。

うら若きジャズボーカリストが肩の力を抜いて、古典を楽しんでいる雰囲気が心地よいakiko の”Waters of March”休日の夜に。

2014年5月 3日 (土)

どうです。無粋な建物が視野に入らない。まるで理想郷だと思いませんか。 実際に歩いてみて、実感しました。 数多く旅はしたものの、芋銭が終生この場所を離れなかった理由がわかるでしょ。

きのう、夜の会合で土浦に向かうついでに、途中下車して牛久に寄った。
水戸の提灯屋さんも見に行きたかったけど、時間の都合で牛久にした。
牛久には牛久沼があって、かつて沼のほとりには小川芋銭が住んでいた。
芋銭が最晩年使った住まい兼アトリエ「雲魚亭」が小川芋銭記念館として公開されている。
ただ、屋内見学は土日と祭日だけなので、おそらく普段は誰もいないだろうと考え、少し離れた丘の上にある小川芋銭研究センターに電話した。

すると、学芸員が説明して下さるというので、急いで訪問した。
学芸員の北畠健さんは、温厚で涼やかなお人柄。
名刺も忘れて携えず、初対面のどこの馬の骨かわからない者に、真摯に対応して下さり、恐縮してしまった。
北畠さんの話を少し聞いていただけでも、目から鱗が2,3枚、ハラハラと落ちた。
ネットでちょっと調べると、北畠さんのプロフィールが常陽リビングのサイトで紹介されていた。

無欲の芋銭に教わった人生の指針 小川芋銭研究センター学芸員 北畠健さん

目から鱗が落ちたその話の中身は、ぼくの下手な紹介より、上記サイトの文章で読んで下さい。
永井荷風に『江戸芸術論』という評論がある。
荷風と芋銭、特に面識はないと思うが、明治から大正時代に活躍した知識人として、幕府の瓦解と共に運命が変わった武家の子孫として、多くの共通項があると感じた。

江戸芸術や俳諧への興味、古典や漢籍に関する該博な知識、そして、『職工事情』や『女工哀史』に描かれたような明治期の初期資本主義に疑問を感じ、社会主義運動への仄かな共感と、大逆事件で受けた衝撃の大きさなどなど。

そして、江戸期以来の複合芸術である俳画の大家芋銭と同じように、荷風も自作の俳句に、お得意の写真を配して、今でいうフォト俳句のような作品を数多く残している。

ぼくが好きなのはこの本。『おもかげ』。復刻版の装丁が美しい。

小川芋銭研究センター

周辺の案内図をコピーしていただき、研究センターを辞して、記念館に向かう。

しばらく歩くと、大手門跡の看板を発見した。

この辺りは城中町という地名で、実は中世の巨城だったという。

Img_2413Img_2415

得月院に芋銭の墓があると教えていただいたので、墓参り。

Img_2417Img_2424

細い路地を縫うように進んで牛久沼に向かうと、沼の見える高台に「雲魚亭」があった。

Img_2437Img_2435

どうしても沼を近くで見たくなり、坂を下りて歩く。

Img_2438Img_2443

さらに、水辺に近づいてゆく。

Img_2445Img_2447

振り向けば、こんな景色がある。

Img_2448

どうです。無粋な建物が視野に入らない。まるで理想郷だと思いませんか。

実際に歩いてみて、実感しました。

数多く旅はしたものの、芋銭が終生この場所を離れなかった理由がわかるでしょ。

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最後はカッパが見送ってくれた。

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芋銭も歩いたであろう古い道を辿って、牛久駅に向かった。

理想郷から、急に現実に引き戻されたような不思議な気分を抱えながら。

2014年5月 1日 (木)

どうですか、街の灯りや月の光に感謝しつつ、提灯を携えて歩く漆黒の闇に包まれた道なんてのも、なかなかオツなもんだと思うんですがね。

夜は暗ければ暗いほどいい。

通勤、通学路は明るくないと困るが、日本中の暗闇という暗闇を絶滅せんと計画する蛍光灯推進委員会でもいるかのように、年々暗闇が消滅しているように思える。

長年住んだ三郷のニュータウンから、松戸の古い住宅地に引っ越して来たとき、夜の闇の深さに驚いた。

三郷では夜の帰り道、本を読みながら家まで歩けたのに、松戸には闇が残っていたことで、ハッとして、懐旧の念にかられた。

お陰で、今は満月の夜の明るさを愛おしむ気持ちが芽生えた。

「闇」に詳しい文筆家の中野純さんに言わせると、日本の夜は世界一白い。まるで白夜だという。

明るすぎるから無灯火の自転車が増えるのだとか。

それはさておき、土浦に通い始めてまだ、日も浅い、去年の晩秋の夜更け、土浦の桜川土手を一人で歩いた。

もっと賑やかで明るい場所を想像して来たから、灯りは持参しなかった。

ところが、そこには対岸の建物からこぼれる灯りしかなく、一番暗いところでは、ホントに何も見えず、河原に落ちないように、這うような姿勢で手探りで歩いたほど。

比較的明るい場所で撮したのが、下の写真。

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土浦駅から歩いて数分、右手には不夜城のような盛り場が広がっているというのに。

荷風の名作「すみだ川」で描かれた、江戸から明治の隅田川べりは、もしかしてこんな感じだろうかと、妄想が広がった。

4月初旬、夜の花見で行った駒込六義園の夜の闇にも驚嘆した。

都心にこれほど深い闇が広がっている場所があるとは知らなかった。

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先日のエントリで、松岡正剛の本から「日傘や提灯や下駄を残そうというのなら、…」という一節を紹介した。

以前、『東葛流山研究』という本に、松戸の提灯屋八嶋さんに取材した報告を書いた。


八嶋さんによると、江戸では、名入りの提灯を持たない夜間の外出は禁じられていたそうである。提灯を持たない者は、闇に潜む不審人物と判断された。当時世界最大級の人口を誇る江戸ですら、月夜の晩以外は真っ暗で、追い剥(は)ぎやひったくりが横行したのである。

 提灯や行灯といった江戸期の明かりについて調べると、その明るさよりも、当時の夜の闇の暗さに思いが及ぶ。朝早く起き、明るい時だけ活動する不定時法と呼ばれる「明け六ツ・暮れ六ツ」の世界に生きる庶民は、高価なろうそくどころか、行灯用の菜種油や鰯油を節約するためにも早めに床についたという。

そんな時代の江戸にあって吉原遊郭は、畑の中に作られた人工空間で、夜通し街路では行灯や提灯の灯がともり、不夜城と言われた。

江戸期、今日の松戸市域の多くは広漠たる野馬の放牧場小金原と、新田開発が進む低湿地帯で、月のない夜は漆黒の闇であったろう。

昼は諸国の物産と旅人が集まる交通の要衝として、夜は遊客でにぎわう色里として、昼夜関係なく繁栄する松戸宿は、近隣の住民や旅人には、大変魅惑的な町だったと思う。

深い暗闇の中でこそ、提灯の仄かな灯りが映える。

どうですか、街の灯りや月の光に感謝しつつ、提灯を携えて歩く漆黒の闇に包まれた道なんてのも、なかなかオツなもんだと思うんですがね。

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