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2014年4月

2014年4月29日 (火)

そんな事態を避けて、これから日本で面白い町、楽しい町を作るには、両者を繋ぐ江戸時代の「連」のような少人数の組織が必要なんじゃなかろうか。

半年くらい前、映像関係のプロデューサーAさんと、「まちづくり」の話をしたら、彼が「仕掛ける」という言葉を頻繁に使うので、ちょっと閉口してしまった。
Aさんはあちこちのアートイベントに関係している人だから、自然に出てくる言葉なのだが、「仕掛ける」なんて言葉は、大手広告代理店やマスメディアの匂いがして、どうにも胡散臭い。

寂れかけた町に、なんとかプランナーなんて肩書きの人がやってきて、その時だけワアワアやって盛り上がるが、住民は取り残されているような風景が目に浮かぶ。
Aさんが典型的な「仕掛ける」人なら、ぼくは、どちらかというと町の遺伝子や集合的無意識を「掘り起こす」人で、軽薄な「仕掛ける」人に対して、「掘り起こす」人の方が、良心的で正しいなんて考えていた。

ところが、ふと我が身を振り返ると、ちょっとそれは違うかもしれないって、思い始めた。

地域で活動しようという人は誰でも「仕掛ける」人的要素と、「掘り起こす」人的要素を持っている。

自分の中にも両方の要素があるから、典型的な「仕掛ける」人には反発を感じるのかもしれない。
大切なのは、どっちが正しい、正しくない、ではなくて、両方のバランスがとれていることだろう。

そう考えると、地域で何か始めるなら、両方の人材が揃っていることが大事だと気づいた。
例えば、東京の台東区や墨田区などは人材が豊富だから、様々なテイストを持った人たちが集まって、その町独特のノリを作り出すのが上手い。

谷根千や蔵前、新御徒町エリア、向島エリアが楽しいのは、そういう下地がある。
イベントを「仕掛ける」人たちは、アクティブで、人と交流するのが得意で体育会系のノリがあるし、郷土の歴史や文化に精通している「掘り起こす」人たちは、文化系や芸術系で、深く静かに研究したり、作品を作ることが得意だったりするわけで、両方が補完関係になると強力なのだ。
ところが、両方のグループが交わらず、共通言語で話が出来なかったりする事例も多い。

そんな事態を避けて、これから日本で面白い町、楽しい町を作るには、両者を繋ぐ江戸時代の「連」のような少人数の組織が必要なんじゃなかろうか。

江戸には「連」という少人数の組織があった。連は、出入り自由な小さな機能集団であり、俳諧連句の座や狂歌連のかたちをとった。五人から二〇人ほどのこれらの集団は、時に落語を生み出し、時に浮世絵の新しい技術を生成、時に歌舞伎の贔屓連となり、時に出版やその背後の遊郭を支え、時に海外情報の受け取り手となった。

知識や情報や創造性の質を判断することのできる小集団があることによって、文化は易きに流れず、金銭的価値に依存せずにすんだ。

田中優子『未来のための江戸学』小学館101新書より

江戸には「連」があったが、一方で、学問も思想も技術も産業も地方で育った。
というより、地方の旧藩で独自の文化が育ったことが、一番興味深いのだ。
書き始めると止まらない。詳しくは上記の本を読んで下さい。
ふうう。
理屈っぽい野暮な話が、グダグダと長くなっちまった。
ちょっと疲れたので、そよそよと爽やかな風が吹き抜けるような曲で、ほっとしましょう。

2014年4月27日 (日)

浅草、両国、浅草橋といった個性の強い町に囲まれて、存在感の薄いエリアだった蔵前の古いビル街で、新しい文化が育っている。

連休前の日曜日、建築家のHさんと二人で、蔵前から新御徒町界隈を散歩した。
今回のお目当ては、ゲストハウス東京のホステル, ゲストハウス, バックパッカーズ | Nui.(ヌイ)
という不思議空間。
朝早い時刻に行ったら、若い外国人観光客が大勢いて驚く。

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日曜日には、ほとんど人通りのないはずの蔵前に、これだけの観光客が来ている。

コンセントという雑貨屋さんではユニークな工業デザインの製品ばかり並べている。

いくら見ていても飽きない。

娘へのお土産に動物の形をした300円の輪ゴムセットを買ったら、丁寧にラッピングしてくれて、恐縮した。

KONCENT

少し歩くと、お昼になったので、リバーサイドカフェ シエロイリオ
でランチ。
食事をすませて、外に出ると、店外には長い行列が出来ていた。

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隅田川周辺のこの辺りには近年若いクリエーターが多く集まっていて、自分でデザインした雑貨を自ら販売するお店が、あちこちに出来ている。
もともと、町工場が多いエリアだったが、「モノマチ」というイベントや、若いクリエーターを育てる台東デザイナーズビレッジの存在によって、職人さんとクリエーターがコラボして、この町からMADE IN JAPANにこだわった数々の製品が作り出されている。

下記のような著書があるセキユリヲさんというデザイナーのお店もみつけた。

また、このエリアでは活版印刷機を見かけることが多いのも、面白い。
オフセットやオンデマンドのプリンタ印刷が主流で、ほとんど見かけなくなった活版印刷だが、このエリアでは、どっこい生きている。
浅草、両国、浅草橋といった個性の強い町に囲まれて、存在感の薄いエリアだった蔵前の古いビル街で、新しい文化が育っている。
いまから、数年後、どんな町に育っているか楽しみだ。

松岡正剛の著書『日本流』にこんな一節があって、読むたびに、ぼくは心を奮い立たされる。

日傘や提灯や下駄を残そうというのなら、そこには職人の数、そのモノを使う場面の多さ、そのモノをいきいきとさせる意匠のセンス、そうしたもろもろのアソシエーションが一緒になって走るべきなのです。

MADE IN JAPANにこだわった製品群を見ていたら、松岡正剛の言葉を思い出した。

そうだ、おかず横丁に行ったら、意外にも看板建築の宝庫だということを発見した。

以前行った時は、店舗にばかり目が行って、上の方には目が行かなかった。

建築家と歩くと、やはり目線が変わってくる。

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最後に蔵前のカキモリという小さな文房具店に行った。

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オリジナルのノートを作ってくれるサービスもよかったけど、自分の店を中心とした町の地図を無料で配っている。
この地図「カキモリのある町」
の出来がすさまじくいい。溝川なつ美さんという人のイラストが和む。
このエリアでは、オリジナルの地図を作っている店が沢山あったけど、その中でもこれがナンバーワンで、無料でもらうのが申し訳ないほど。

町の小さな文房具屋でも、これだけの仕事が出来て、店内は人で溢れかえっている。

東京だから成り立つ店だと言われるかもしれないが、近隣の佐竹商店街は寂れかけているから、余計に、蔵前のがんばりが目立った。

明日は仕事だ。

マイケル・ブレッカーとジェイムス・テイラーのコラボDon't Let Me Be Lonely Tonight

を、本日の締めくくりに。


2014年4月26日 (土)

飲酒運転がなくなったのはいいことだけど、ロンドンのパブ、パリのカフェ、マドリッドのバル、ミュンヘンのビアガーデンなどの飲食文化空間と肩を並べる日本の居酒屋文化が失われるのは寂しい。

時の流れははやいもので、杉浦日向子が亡くなって9年になり、彼女を知らない若い人も増えてきた。
そんな時代に抗うように、近年ますます、彼女が残した言葉が、深く心にしみるようになっている。
例えばこんな言葉。

ちゃんとあそぶのは、ちゃんとはたらくよりむつかしい。あそんでいるつもりでも、多くは、あそびがしごとになっている。

仕事に忙殺される人生ではなく、その日その日を、いかに楽しみ、いかに遊ぶかです。

彼女の言葉を編集して語録にした本も出た。

若い人って、どうしてみんな、マジメで気ぜわしいのだろう。
管理教育が終わって、大学時代につかの間の自由な空気を味わったと思ったら、
すぐに就活という名の洗脳教育を受けて、個性を喪って行く。
ましてや、そこに本格的な読書習慣など入り込む暇もなく。
自分のリズムを見失って、スマホに支配されて、経済至上主義に疑問も持たず、
ターミナル駅の乗り換えで、バタバタ走り回るサラリーマンとして生きる。
そこのキミ、ある日、ふと思い立って、会社に向かうことを止めて、別の方向に歩き始めると人生が動き出すよ。
結果的に4つも会社を替えたけど、この30数年間を振り返ると、そうやって、ぼくは産業社会の中で、身を寄せる場所を作ってきたような気がする。

あそびのススメについて書き始めたつもりなのに、ちょっとマジメで固いなあ。

だったら、今日は、マイク・モラスキーの『日本の居酒屋文化』を紹介しよう。

日向子さんは『ソバ屋で憩う』で日本のソバ屋文化を礼賛したけど、こちらは同じ様な趣旨で、日本通のアメリカ人大学教授による居酒屋文化礼賛の書。


飲酒運転取り締まりが厳しくなって、自動車が主な交通手段の地方都市では居酒屋文化が衰退しているように思える。
飲酒運転がなくなったのはいいことだけど、ロンドンのパブ、パリのカフェ、マドリッドのバル、ミュンヘンのビアガーデンなどの飲食文化空間と肩を並べる日本の居酒屋文化が失われるのは寂しい。
それも全国チェーンの居酒屋ではなく、地域に根ざしたソウルフードを食べさせてくれる個人経営のお店をこそ、応援したい。
例えばこんな歌を聴きくと、青森の地酒で酔いたくなるね。

天才矢野顕子の「ふなまち唄」

2014年4月20日 (日)

自分には外来のエコロジー思想や持続可能な○○なんて言葉より、芋銭の河童の方がピンとくるのだ。

小川芋銭を題材にした小説正津勉の『河童芋銭』を読了。
このところはずっと、小川芋銭のことばかり考えている。
最初に芋銭のことを知ったのは、結構古くて、14,5年前になる。
山口昌男『敗者の精神史』で、田端にいた画家小杉放庵(未醒)と親しい人物としてだった。
小杉放庵と親しいということで、何となく東京で活躍した人物だと思っていたし、牛久と関連があっても、晩年の一時期牛久で暮らしたのかなあ、なんて考えていた。

ところが、茨城県をあちこち歩き回ると、芋銭の足跡に出会うことが多くて、この人が生涯のほとんどを牛久沼のほとりで過ごして、河童の絵を描いた農民芸術家だと知った。

そして、病弱な体で、よく旅をし、にわかには信じられないほど多彩な人的ネットワークを作っていたこともわかった。

『敗者の精神史』からちょっと拾い出してみる。

21歳で浅井忠と一緒に会津磐梯山噴火の取材に参加し、日刊新聞「いはらき」の主筆佐藤秋蘋と田岡嶺雲を知り、幸徳秋水や小杉放庵を紹介され、って書いていると切りがないのだが、茨城県との関わりという意味では、横山大観、野口雨情、山村暮鳥との関係が興味深い。

また、蕪村や一茶など江戸期以来の俳画というジャンルの作者としても注目に値する。

最近、フォト俳句なんていうカメラと俳句を組み合わせたジャンルも人気がある。

絵心がない人でも簡単に、俳画を楽しめるので、面白い。

だけど、何と言っても印象的なのは、芋銭のまなざし。

水辺の生き物たちなど、身近な自然への畏敬の念に溢れている。

自分には外来のエコロジー思想や持続可能な○○なんて言葉より、芋銭の河童の方がピンとくるのだ。

去年の秋、霞ヶ浦のほとりを歩いて、清明川の河口にある水神様にお参りした。

子供の頃、水神様は無数の蛇がいる薮の向こうに隠れていた。

霞ヶ浦の水の神様がいる神聖な場所で立ち入ると、祟りがありそうで、イタズラ盛りの年頃だったけど、近づこうという気にはならなかった。

そんな場所も、今は周囲がコンクリートで固められ、薮も蛇も消えて、強い日差しの下にポツンと建っていて、近くで見るとその小ささに驚いてしまった。

昔に戻ることは出来ないけれど、身近な自然への畏敬の念を少しだけ取り戻すことは、僕たちが暮らして行く上でも、大切なことじゃないかなあって、思う。

そして、ぼくが芋銭の河童から連想したのは、ミス・ポターのピーターラビット。

去年、ブログでこんなことを書いたことがある。

可愛いイラストを描いたポターと、見るからにいかつい熊楠。同じ時代にロンドンで暮らし、キノコなど菌類の研究家、自然保護運動家という共通点のある二人は、その外見的なイメージとは裏腹に案外共通項があるんじゃないかと気づいた。

この時はイギリスに留学した熊楠との共通項に注目したけど、むしろ小川芋銭の方がポターに近い。

しかも、同じように傑出した画家で文人の二人、小川芋銭とビアトリクス・ポターは、生年も没年もほとんど数年の違いしかない、同時代人なのだ。

二人は同じように、水辺の風景や自然を深く観察して、作品に反映させた。

周辺には、芸術家や文人のネットワークが出来て、20世紀前半の興味深い文化運動がそこから生まれた。

ひとつだけ例をあげると、この前紹介した通り、海野弘の『足が未来をつくる』に書いてあったナショナルトラストとそこから派生した「歩く旅」やフットパスづくりの運動があげられる。

りんりんロードのある水郷、常陸野地域にも当てはまるように思う。

例えば土浦から佐原まで約40キロの道のりを、イギリス人のようにフットパスを見つけて歩いたら、最高に気持ちいい「歩く旅」が出来そうだ。

これ以上は詳細になりすぎるので、少しずつ書いてゆこう。

芋銭のことを考えていたら、何故だか矢野顕子が聴きたくなった。

2014年4月14日 (月)

思えば、今から9年前に大塚で「江戸を楽しむ会」を作ったけど、力不足で自然消滅してしまったから、出直しの意味もあるなあ。

休日に、いざ、本棚の整理をと、意気込んで始めた途端、腰がぴきっとなって、体が固まってしまった。
ううう、10年以上腰痛と無縁だったのに、悔しい。
仕方なく、仕事を休んで、家でゴロゴロ、日がな一日向上心のない時間を過ごす。
幸い、俗事に惑わされず、時間を使えるから、こんな時は、ずばり江戸趣味でいきたい。

昨日に引き続き平賀源内で、本日は「萎陰隠逸伝」(なえまらいんいつでんと読む。萎にはやまいだれが付く)を読む。

もったいぶったタイトルに見えるが、内容はちょーくだらねえの。

だって、「なえまら翁の一生」だよ。

現代語訳の一部を紹介しよう。

いかなる詩人だって、偉人だって、その功のかなうかなわぬと関係なく、男の果てはみなインポなりで、いつかはなえるのだ(野坂昭如訳)

眠れば夢に遊び、醒めては世知辛い現実に嘆息を繰り返し、にこにこ食べては、しかめ面で排便し、たまの夜には一瞬のはかない快楽を味わい、そんなこんなで、ふと死ぬるその日まで、お目出度くも生きているよ。(杉浦日向子訳)

こんな源内の世界観、人生観が、日向子さんに流れ込んで、珠玉のエッセイになった。

オリジナルは、ちくま日本文学全集の「岡本綺堂」の解説だが、死後まとめられたエッセイ集『うつくしく、やさしく、おろかなり』の表題作として収められた。

このエッセイを読むたびに、難病で死を身近に感じていた当時30代の彼女の気持ちに思いをはせ、心が震える。

なんのために生まれて来たのだろう。そんなことを詮索するほど人間はえらくない。

三百年も生きれば、すこしはものが解ってくるのだろうけれど、解らせると都合が悪いのか、天命は、百年を越えぬよう設定されているらしい。なんのためでもいい。とりあえず生まれて来たから、いまの生があり、そのうちの死がある。それだけのことだ。綺堂の江戸を読むと、いつもそう思う。

うつくしく、やさしく、おろかなり。そんな時代がかつてあり、人々がいた。そう昔のことではない。わたしたちの記憶の底に、いまも睡っている。

「うつくしく、やさしく、おろかなり。」という言葉を思い出す度に、佐賀純一さんの『霞ヶ浦風土記』や『田舎町の肖像』の中で、自分の生きてきた体験を語る茨城の明治人たちを想う。

あるいは金子光晴の『日本人の悲劇』の中で、明治になっても江戸を引きずり生きていた人々を想う。

さらに、永井荷風『すみだ川』の主人公長吉の叔父俳諧師松風庵蘿月が印象深く、思い出される。

明治人の父祖達を身近に育ち、オリンピック準備のために、町並みや暮らしのスタイルが失われる前の東京を記憶しているのは、日向子さんやぼくの世代が最後だろう。

この秋から、土浦という微かに江戸の香りを伝える町で、仲間を集めて、明治を、大正を、そして地続きの江戸人の暮らし方を楽しみながら学んでみようと準備している。

思えば、今から9年前に大塚で「江戸を楽しむ会」を作ったけど、力不足で自然消滅してしまったから、出直しの意味もあるなあ。

150年前の江戸を振り返ってみることによって、80数年後に来るであろう22世紀の未来を想像してみるのもいいかもね。

だから、いまは、久しぶりにワクワクしている。

今宵は荷風が好きだったドビュッシーの「月の光」

2014年4月12日 (土)

東京のソバ屋はもちろん昼酒を飲める町のオアシスだけど、ぼくがたまに行く御徒町ガード下の「味の笛」って立ち飲み店じゃ、午後3時の開店と同時に満員になる。

この頃、若い人と話してみると、杉浦日向子を知らない人が多いのに驚く。
NHKテレビの「お江戸でござる」に出演していた印象が強いが、それも10年以上前のこと。

亡くなって早くも9年になる。
日向子さんも少しずつ、人々の記憶から消えて、忘れられた存在になってゆくのかなぁ。
アマゾンで調べたら、『もっとソバ屋で憩う』が品切れで、新刊本で買えないことがわかった。
あれほどの名著が、品切れとは、本当に悲しい。

この本はまず「まえがき」冒頭の一言に心を打たれる。

グルメ本ではありません。おとなの憩いを提案する本です。

自殺者や鬱病患者を蹴散らしながら、どこまでも続く経済成長至上主義の世の中で、
「おとなの憩い」っていう言葉が、近年ますます、重く響く。
こんな一節に、心がすっと、軽くなる。

昼と夕の間に、並木(藪蕎麦)で、焼き海苔を、蚕のようにはじからみみっちく食みつつ、徳利の冷やを、ちびちびやる。外はまだ明るい。ほの暗い店内では、おとなたちが、てんでに手酌で、つかのまのバカンスを紡いでいる。年を重ねるのも悪くはない。人生まんざら捨てたもんじゃない。ドンマイ、大丈夫。

こんな文章を読んだら、急に平賀源内の「放屁論」が読みたくなって、再読。
中央公論社の「日本の名著」シリーズに、まぎれ込んでいるから、マジメな論文のフリをしているけど、両国橋の西にある広小路の辺りでオナラを芸にしていたへっぴり男の話。
「かいけつゾロリ」の子分のイシシやノシシの特技オナラ攻撃と、同レベルのくだらねえ話だよ。

侍が威張って、切り捨て御免なんて言われた江戸なんて、実はそんなもんだろう。
そういや、日向子さんの『江戸へようこそ』の表紙が司馬江漢の両国橋の絵だった。


人の気配の少ない土浦を歩いていたら、昼酒を呑んで、酔っ払って歩きたくなった。

ここでは歩道を疾走する恐ろしい自転車に、出会うこともなく、のんびりと町を歩くことが出来るから、気持ちいいのだ。

駅は近いし、公共交通機関が発達してるし。

それなのに、どうして、こうもマジメな人だらけなんだろう?

せっかく、勇気を出して桜町の歓楽街を歩いたのに、人がいない。

昼間に東京の吉原を歩くと、人相の悪いのが、いまいましげにこっちを見ているのに。

そんな輩すらいない。

だいいち、開いている飲み屋がない。

東京のソバ屋はもちろん昼酒を飲める町のオアシスだけど、ぼくがたまに行く御徒町ガード下の「味の笛」って立ち飲み店じゃ、午後3時の開店と同時に満員になる。

生き馬の目を抜くような忙しない大都会東京だって、こんなにリラックス出来る場所があるのに。

江戸は吞兵衛の楽園だった。

子供まで含めて、江戸の人口の半分を下戸とすると、酒の消費量はひとりあたり一日二合強だという。

もっと、もっと、もっと。

ぼくたちは暮らしの中に、職場と家庭以外に、等身大の自分に帰れる憩いの時間と場所を持ちたい。

日向子さんが、生涯かけて、様々な方法で表現しようとしたのはそういうことだ。

だから今夜は、日向子さんの葬式で流れたベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章を墓前に捧げて、これから彼女の志を受け継ぐ決意表明としよう。

気取って、取り澄ましたセンスの良さじゃなく、須田さんの人柄が、自ら製作するバッグにも反映して、人を惹きつける魅力が溢れている。

3月は休日出勤も含めて、長時間残業をやった結果、還暦近い老体には、だいぶ負担をかけたので、「憩い」の時間を作らんと、金曜日に会社を休んで、仲間二人を誘って、土浦、つくば散歩を楽しんだ。
城藤茶店で飲んだ栗ジャムのミルクが美味しかったので、店主の工藤さんからジャムを作っているかすみがうら市の四万騎農園を教えてもらって、行ってみた。
石蔵ギャラリーで日本画の展覧会もやっているという。

大谷石の石蔵は、倉庫ではなく、最初から多目的空間として作ったという贅沢さ。

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栗ジャムを存分に試食して、購入。
ギャラリーや庭を楽しんでいたら、ご主人が菜の花と栗の木がある畑に連れて行ってくれた。
時間が経つのも忘れ、菜の花畑を散歩する。

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なんだろう。この開放感は!
後ろ髪をひかれつつ、雑誌「つくばスタイル」を読み、十年以上前から行きたかった八潮の須田帆布が、7年前につくば市に移転したことを知ったので、行ってみることにした。

須田帆布

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初めてお目にかかる須田栄一さんは笑顔がとびきり素敵なおじさんだった。

なにしろ、センスがいい。

気取って、取り澄ましたセンスの良さじゃなく、須田さんの人柄が、自ら製作するバッグにも反映して、人を惹きつける魅力が溢れている。

いいなあぁ。店内では高田渡が流れてる。

ていうか、高田渡しか流さないというこだわり。

須田さんが面白い古本屋があるって教えてくれたのが、ピープル で、若い店主の植田浩平さんが1年前につくばの天久保にオープンした古書店。

ぼくも大好きなブックデザイナーの平野甲賀にこだわった品揃えが面白い。

すぐ隣の千年一日珈琲焙煎所もコーヒーが美味しかった。

若い人を惹きつけるつくばの空気感をたっぷりと味わった。

かつては栄華を極め、今は信じられないくらい人の気配がない土浦。

磯崎新設計のつくばセンタービルがぽつんと立建っていた寂しい町に、今は「つくばスタイル」という新しい文化が育っている。

この30~40年の間に、すっかり時代が変わってしまった。

つくばの発展はうれしい。今度は須田さんのカバンを買いに行こう。

でもね、改めて、かすかに江戸の気配を感じる土浦が愛おしいと思ったのも事実。

さあ、面白くなってきた。

本日の歌はやっぱしこれ。須田さんの話に出てきた高田渡「生活の柄」。




2014年4月 9日 (水)

例えば土浦から佐原まで約40キロの道のりを、イギリス人のようにフットパスを見つけて歩いたら、最高に気持ちいい「歩く旅」が出来そうだ。

土浦のザックスオオヌマさんで、靴を選んだり、靴と足の関係について、いろいろ興味深い話を聞いていたら、無性に海野弘の『足が未来をつくる』が読みたくなって、再読。

宣伝コピーには「対抗文化として足の可能性に着目し、足の復権を促す画期の書」とあるけれど、大げさじゃなく、ぼくもそう思う。
類書がないから、これは貴重な本だけど、版元品切れでアマゾンでしか買えないらしい。
そういえばもう一冊面白い本が家にあったことを思い出して、再読している。
葛飾区新宿の人で、歩く旅の第一人者山浦正昭さんの本。

『slow&ecology style 地図を片手に「歩く旅」』

以前読んだ時は気づかなかったけど、こんな記述が目に留まった。

私が今までに歩いたところで、おすすめの所となると、茨城県が圧倒的に多い。

なぜ水戸線なのか。水戸線には特別な観光地がない。だから、カントリーウォーク向きなのである。知らない所だから歩く。歩いて何かを見つける。そういうポリシーが大切だと伝えたかった。

以前、美浦村の丘陵や霞ヶ浦湖岸の道を散歩したことがある。
美浦村や江戸崎も、水戸線の沿線同様、特別な観光地はないけれど、小高い丘の上から西の方を見ると、湖の向こうに筑波山が見える。
子供の頃から何百回、何千回も見た景色だけど、何度見てもいい。
例えば土浦から佐原まで約40キロの道のりを、イギリス人のようにフットパスを見つけて歩いたら、最高に気持ちいい「歩く旅」が出来そうだ。

途中、江戸崎辺りの旅館に泊まって、一泊二日の旅もいい。

佐原には小さな旅館がいくつもあるから、そこから潮来まで足を伸ばすのもいいなあ。

反対方向で、土浦からつくばの里山風景や、古町真壁を楽しみながら歩くのも面白いかもしれない。

それから千葉県の東葛地域だって、手賀沼南岸の都市化されていない旧沼南町のあたりは、「歩く旅」にはぴったりだと思う。

柏市内に、こんないい感じの鄙びた場所があるのかって、感動しますよ。

クルマで手っ取り早く観光地を回るんじゃなく、「歩く旅」に視点を切り替えた途端に、山浦さんが言うように「地域は不思議な世界に早変わりする。」のだろうね。




日々の暮らしの中に、ちょっとだけ「憩い」を取り入れる。 それが、このブログの存在意義なのでありまして。

先週の土曜日、少し遠出して、花見のために土浦を訪れた。
11時から17時まで、町を散歩しながら、写真を撮った.

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この6時間の間、入った店はたったの2軒。

城藤茶店とザックスオオヌマで、それぞれ2時間ずつ過ごした。

休日に外出するときは、いつもクルマで忙しなく、あちこち見て回って、バタバタと家路につく。

たとえ那須高原のようなリゾート地に行っても、都会と同じリズムで過ごしてきた。

ところが土浦では、靴を一足買い、コーヒーを一杯飲むのに、これだけの時間をかける。

そんなゆったりした時間の流れを感じて、心が喜んでいるのがわかる。

杉浦日向子が『杉浦日向子の江戸塾』でこんなことを書いている。

いま誰もが忙しすぎてちょっと料理が出てくるのが遅いと文句を言いますが、それでは、なんだかせっかくの味わいが半減するような気がします。

 

 『呑々草子』では、こんなことも言ってます。

遠くに出掛けるのに、時間を惜しんではいけない。道程を端折った合理化された旅なんか、旅じゃない。効率だの、有効だのと言いだすのは、シゴトだ。

 

やっとわかった。

おれたち、みんな、子供の頃からずっと、旅じゃなく、シゴトをやってきたんだ。

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なにも「スローライフ」なんて外来語を使わなくても、日本人は長い間ずっと、ゆったりしたリズムで暮らしてきた。

野田の醤油工場でも、大正期前半までは、食事を好きな時間に食べて、一日4時間労働、農業の忙しい季節は休みにするような自然な働き方があった。

ほんの百年ほど前に、遅刻という概念が導入されて、時間に追われる生活が始まった。

その変化の様子を『ぼくたちの野田争議』に書いた。

あの本の大正12年の部分が実は一番重要なのだと、今頃になって、思い返している。

ぼくたちが今すぐ、ライフスタイルを全面転換することなど不可能だ。

だけど、日々の暮らしの中に、ちょっとだけ「憩い」を取り入れることは出来る。

それが、このブログの存在意義なのでありまして。

土浦を歩いた気分にピッタリくる名曲。

細野晴臣「僕は一寸」

2014年4月 6日 (日)

そうか。 このどちらかの世界に近づくのではなく、どちらの世界も知っているのがいいんだ。 両方の世界を知っているのが、むしろ自分の長所なのかもしれないって、思えるようになった。

昨日で村岡恵里さんの『アンのゆりかご』を読了。

読み終わるやいなや、自分の日本語能力がにわかに気になり始めた。

10歳から東洋英和でカナダ人からネイティブの英語を学び、クリスチャンで、翻訳家といえば、日本的な教養から縁遠い人だと思っていたが、村岡花子さんは歌人の佐佐木信綱の門下生だと知って納得した。

それにしても佐佐木信綱。

鈴鹿市にある佐佐木信綱記念館のウェブサイトによれば、

信綱は6歳から短歌を詠みはじめ、生涯に1万余首を作歌し、第1歌集『思草』(博文館 明治36年)から第9歌集『山と水と』(長谷川書房 昭和26年)や『佐佐木信綱歌集』(竹柏会 昭和31年)など、多くの歌集を刊行しました。また、明治30年頃より竹柏会を主宰し、機関誌『心の花』の創刊(同31年)や門人の育成・指導にあたるな ど、歌人として活躍しました。
 一方、信綱は学者として、特に万葉集の研究者として、不滅の大業というべき『校本万葉集』(校本万葉集刊行会 大正13~14年)を刊行するなど、万葉集の研究と普及に尽力しました。

とある。

さらに、三越が新渡戸稲造や巖谷小波、福地桜痴、坪井正五郎など少年物語作家らに依頼してつくった「流行会」という集まりのメンバーにも名を連ねている。

唱歌「夏は来ぬ」(小山作之助作曲)や童謡「すずめ雀」(滝廉太郎作曲)、軍歌、北海道から九州までの学校校歌等の作詞を多数手がけるなど、多方面で活躍したひとだが、なんといっても竹柏会を中心として、その豪華な門下生の顔ぶれに驚く。

Wikipediaによると

歌誌「心の花」を発行する短歌結社竹柏会を主宰し、木下利玄、川田順、前川佐美雄、九条武子、柳原白蓮など多くの歌人を育成。国語学者の新村出、翻訳家の片山広子、国文学者の久松潜一も信綱のもとで和歌を学んでいる。『思草』をはじめ数々の歌集を刊行した。1934年(昭和9年)帝国学士院会員。1937年(昭和12年)には文化勲章を受章、帝国芸術院会員。御歌所寄人として、歌会始撰者でもあった。その流れで貞明皇后ら皇族に和歌を指導している。

この記述には入っていないが、社会学者鶴見和子も若き日に門下生だった。

その後、歌を忘れて、学者として長い年月が経過して。

晩年、NHK教育テレビの特集番組で、脳出血で斃れた夜から、長い間忘れていた短歌が突如迸り出たと話していたのが、印象に残っている。

村岡さんは自宅を訪ねてきた翻訳家志望の女子大生にこのように話したという。

難しい言葉である必要はない、しかし豊富な語彙を持ち、その中の微妙なニュアンスを汲んで言葉を選ぶ感受性は、翻訳の上では英語の語学力と同じくらい、あるいはそれ以上に大切な要素だと思う。季節や自然、色彩、情感を表現する日本語の豊かな歴史を思えば、日本の古典文学や短歌や俳句に触れることも大切。そんな指摘をすると、相手の女性は、当てが外れたような、きょとんとした顔をした。

このくだりを読んで、20代の頃から抱えていた疑問が氷解した。
きょとんとした顔をした女子大生の気持ちがよくわかる。

20代前半の頃、日本の代表的なクリスチャン内村鑑三の「二つのJ」や、新渡戸稲造の「武士道」を知識で知ったが、表面的な理解しか出来なかった。

夕暮れ時になると三味線の音が、どこからともなく聞こえてくる純日本風の花街下谷根岸で育った下町言葉しかしゃべれぬ少年が、学校に上がる前に新開地練馬に引っ越し、村岡花子の流れを汲む子供図書館ムーシカ文庫で、プロテスタントの児童文学者いぬいとみこ先生に出会って、違和感を感じながらも近代的で西洋風の知性に惹かれた。

やがて大人になった時、この二つの世界に引き裂かれた自分を発見した。

20代から、この二つの世界のどちらに近づいても、自分の居場所を見つけられず、戸惑いを感じながら、よろよろと放浪してきた。
いまはやりの言葉で言えば、「自分探し」とでもいうのかもしれない。
村岡さんの本で、目からウロコが落ちた。

そうか。
このどちらかの世界に近づくのではなく、どちらの世界も知っているのがいいんだ。
両方の世界を知っているのが、むしろ自分の長所なのかもしれないって、思えるようになった。

下町の路地裏で聴いた三味線ではなく、西洋の楽器ピアノが上手な山の手お嬢さんの代表で、日本的情感の世界とは全く縁がないと思っていた上田知華が、アメリカから帰国して、作曲家として発表した作品が歌曲集「枕草子」だったことが、偶然とは思えない。

歌曲集「枕草子」

5月26日には記念コンサートがある。

30数年前、有り余る才能と美貌で、好きだけど遠い存在だった自分と同い年の上田知華が、急に身近な仲間のように思えてきた。

本日は、1982年、社会人になって、しばらく経って、何をしたらいいか分からず、虚ろな心を抱えて、戸惑っていた当時の自分の気持ちに突き刺さったこの曲

”Lonely Weekend”を紹介します。

この当時一世を風靡した山口はるみのイラストが懐かしいな。

2014年4月 1日 (火)

まあ、おれのアホ加減は、どうでもいいとして、村岡さんの書いた『アンのゆりかご』(新潮文庫)を読み始めたら、これかなりの傑作評伝でした。

このところずっと大正文化を追いかけている。
そもそもの始まりは、長谷川堯『都市廻廊』辺りから関心を持ち始めたような記憶がある。
それがやがて、自著『ぼくたちの野田争議』になだれ込んで、産業史や社会思想史をかじってみた。
ところが、それでは終わらず、もっと柔らかいモノへの関心が、泉の如くわいてきて、
止まるところを知らない。
今のマイブームは女学生。

例えば稲垣恭子『女学校と女学生』(中公新書)とか弥生美術館・内田静枝編『女學生手帖』(河出書房新社 らんぷの本)とか。あと、大野らふ『大正ロマン着物女子服装帖』(河出書房新社)も、面白い。


今の女子高校生をイメージしても、全く違うので、大正の女学生は立体的に目の前で立ち上がらないなあって、悩んでいる。
そこに、突然、「村岡花子」が出現したのです。
もちろん、皆さんご存じのNHK連続テレビ小説『花子とアン』のことなんですが……。

おれ、恥を忍んで書いちゃうけど、去年、原作者の村岡恵里さんと一緒に酒を呑んだことがあるのかもしれない。
「かもしれない」ということは、つまり、あまりにも無知なので、そんなすごい人だって、全然知らないで一緒にいた可能性があるわけで、年下だと思って偉そうに話しかけたかもしれないと思うと、冷や汗が出るだけで、自慢にも何にもならないでしょう。

って、気が動転して、まともに文章になってないな。

どこで会った可能性があるかは、ご本人の許可を得ていないので、書けないけど、今さらながら自分の無知に、枕を濡らす、今宵の逆流亭写楽斎くんです。

まあ、おれのアホ加減は、どうでもいいとして、村岡さんの書いた『アンのゆりかご』(新潮文庫)を読み始めたら、これかなりの傑作評伝でした。

評伝とは銘打っているけど、小説より面白い。

大正の女学生が生き生きと描かれている。

注釈や年表や参考文献も充実していて、実にいい。

惜しむらくは索引がないことくらいかな。

たまたま、村岡さんに興味がわいて、読み始めたのだが、自分にとってはそれ以上の価値がある本だった。

あああ、もし、いつかお目にかかるチャンスがあったら、今度は、ちゃんと村岡さんだって理解して、旧幕臣と日本のクリスチャンの系譜や、大正の女性史について、質問したいなあ。

あああ、それにしても、恥ずかしい。

今宵は照れ隠しに、何百回聴いても大好き、ガーリッシュな名曲を。

若き日のトレーシー・ソーンのアルバム「遠い渚」から、「ファム・ファタール」。

ベルベット・アンダーグラウンドのオリジナルを凌駕する出来映えです。

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