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2013年1月

2013年1月26日 (土)

そんな折に、法政大学の田中優子さんによって、増淵敏之『路地裏が文化を生む!』(青弓社,2012年)という本が朝日新聞書評欄で紹介された。江戸の音曲に造詣の深い田中さんが紹介する路地裏と文化の本。悪かろう筈はないと思って、飛びついたのだが。

このところずっと、路地裏と原っぱという都市の中にある共有地について、考え続けている。

昭和時代に東京近郊で育った子どもなら、誰でも路地裏か原っぱで遊んだ記憶があると思う。

そんな身近な空間が、どんどん消滅している。

微力ながら路地裏や原っぱの価値を見直してみたいと考えて

「路地裏文化研究会」を始めた。

そんな折に、法政大学の田中優子さんによって、増淵敏之『路地裏が文化を生む!』(青弓社,2012年)という本が朝日新聞書評欄で紹介された。

江戸の音曲に造詣の深い田中さんが紹介する路地裏と文化の本。悪かろう筈はないと思って、飛びついたのだが。

確かに悪い本ではない。いや、とってもいい本なんだと思う。

ただ、タイトルと本の内容が不一致なのが気になる。

増淵さんはマジメな学者さんだと思うので、おそらく出版社がつけたタイトルでしょう。

ここに書かれているのは、路地裏ではなくバックストリートで、文化ではなくポップカルチャーのことなのだ。

例えば岡本哲志『江戸東京の路地』(学芸出版社,2006年)に出てくる東京の路地はというと、日本橋・京橋、佃・本郷菊坂・下谷根岸、銀座、月島、谷根千、渋谷、築地、京島、麻布、下北沢、阿佐ヶ谷、代官山といった顔ぶれ。

それに対してこの本では、新宿、渋谷、六本木、原宿、下北沢、秋葉原、吉祥寺といった町で、だぶっているのは渋谷と下北沢のみ。特に東京の東エリアが、ほとんど取り上げられていないのもどうかしらと思う。

で、ふと気づいたのは、札幌生まれの増淵敏之さんの「東京」って、東京生まれの岡本哲志さんの「東京」とは、似て非なるものなんじゃないかということ。

ぼくの「東京」は古今亭志ん生や杉浦日向子や小林信彦の「東京」なんだけど、岡本さんの「東京」もそれに近いんじゃないかなあ。

それに対して、増淵さんの「東京」は、例えばピチカート・ファイブの「東京」だと思う。

ピチカート・ファイブの2人も確か、増淵さんと同じ北海道生まれで、東京と北海道を行ったり来たりして育った人たちだった。

他には植草甚一や浜野安宏の「東京」イメージもそれに近い気がする。

それに対して、ぼくの「東京」はこんな感じ。

「三丁目の夕日」で描かれる東京ですら、かっこよすぎると思うほど、ローカルな香りが漂うデン助が暮らしていた東京の裏町。

デン助こと大宮敏充ご本人も、確か葛飾区亀有に住んでいたと聞く。

こち亀の両津勘吉よりも、亀有らしいのはデン助だろう。

そんな訳で、どこまで読んでも、僕の中の「路地裏」や「文化」は、増淵さんの「路地裏」や「文化」とは交わらず、終わってしまった感がある。

どっちが正しいとか、正しくないという話ではないと思う。

都市を見る視点が増淵さんとぼくは違っていたということだろう。

それでも、この本を書いてくれた同い年生まれの増淵さんには、深く感謝している。

自分の中にある「東京」や「路地裏」イメージを再確認することが出来たから。

いつかお目にかかれればいいなあ。

2013年1月19日 (土)

鈴木隆行は早すぎた坂口恭平だったような気がする。坂口が考えているのと、同質の夢を鈴木は20年前、30年前、すでに見ていた。

坂口恭平の『独立国家のつくりかた』を読了。

予想をしていた内容を遙かに超えた好著だった。

同時に、鈴木馬之助こと鈴木隆行を思い出した。

鈴木隆行は早すぎた坂口恭平だったような気がする。

坂口が考えているのと、同質の夢を鈴木は20年前、30年前、すでに見ていた。

ひとりひとりが小さな独立国家の国家元首である九龍城の住人たちへの憧れが、鈴木の九龍城への思いを支えていた。

鈴木と坂口、両人の師匠だった建築家の石山修武が、自らのウェブサイトで鈴木の追悼文を書いている。

元ダムダン鈴木隆行くんのこと

「街ものフォーラム」という勉強会を重ねていた鈴木隆行から声をかけられて、東京の路地裏を探検する会を作ろうと誘われたことがある。

それは結果的に四谷荒木町の町おこしといった形に発展して行くのだが、路地裏探検という本来の活動目的から外れていったように見え、大きなイベントを一度やっただけで、協力関係も自然消滅してしまった。

もし、あの時現在のようにインターネットが発達して、こまめな情報交換が出来ていれば、彼は今でも元気で、一緒に笑顔で何か企画していたのではないかという痛切な思いが残る。

何年も前から話をしていた「鈴木馬之助を追悼する会」。

やりますか。そろそろ出番だよ。馬さん。

2013年1月12日 (土)

なんだかまとまりのない文章になってきたけれど、それもまた神道的でいいかもね。体系化された教義とか、そんな難しいことではなく、生命賛歌であり、自然の霊性を感じて生きるってことが神道の本質なんだから。気持ちが楽になるでしょ。神道の感覚で生きれば鬱病なんて治っちゃうかもね。

若い時分は、年をとって徐々に体が弱ってゆくことを、恐れていた。

実際に50代半ばになってみると、体が弱った分、自分の体を取り巻く環境の変化をビビッドに感じられるようになったような気がする。

子どもの頃は、神様とか、自然とか、動物とか、大地とか、霊とか、いろんなものを身近に感じて暮らしていた。

「となりのトトロ」に出てくるような世界が普通だった。

大人になって、そんなこときれいさっぱり忘れて、会社員になって、満員電車に揺られて30数年。

最近はつくづく満員電車や乗り換え駅の人波が苦痛になった。

1分間隔で到着するような山手線に乗るために、せわしないリズムで歩くのがイヤで、自分のペースで歩いていると、後ろからぶつかってきて、謝罪もなく、だまって先にいくような人間に出くわす。

みんな心をなくしている。

幕末に日本に来た外国人が賞賛した日本人の心ってのは、いったいどこにいったんだろう。

ところが、松岡正剛の千夜千冊から鎌田東二『神道とは何か』という一冊の本に出会った。

神道といえば、国家神道のイメージが強くて、縄文時代はなかったことになっていて、神武天皇が国を作ったことになっている荒唐無稽な話だとおもっていたので、ほとんど興味を持てないし、祭りというものも正直言って好きではなかった。

そんな神道のイメージというより偏見が、この本を読んで一変した。

いままで興味を持っていたけれど、バラバラだった事象が、神道というベースで繋がっていることがわかった。

個々に興味を持っていたラフカディオ・ハーンや折口信夫や南方熊楠や鶴見和子や宮沢賢治や岡本太郎やクロード・レヴィ・ストロースといった人々が、頭の中で一つの体系としてつながり始めた。

どう考えても日本人の祖先に違いない縄文人とその文化を無視することなく、さらにその先まで見ているのが神道だというのは、目から鱗が落ちる思いだ。

そして明治初年の廃仏毀釈や神仏分離が、どれだけひどい蛮行で、どんな意味を持っていたのか、よく理解できた。

廃仏毀釈によって、明治期以降の日本人の心の中に、そこだけぽっかりと空洞があいて、その隙間を埋めるのが、ある時期はキリスト教だったり、社会主義だったり、数々の新興宗教だったりしながら、国家神道へと収斂し、戦争に突入してゆく。

戦後もそれは続いていて、というよりもっとひどいことになって、経済成長神話が登場して、ぽっかりとあいた空洞は広がるばかりなのかもしれない。

なんだかまとまりのない文章になってきたけれど、それもまた神道的でいいかもね。体系化された教義とか、そんな難しいことではなく、生命賛歌であり、自然の霊性を感じて生きるってことが神道の本質なんだから。気持ちが楽になるでしょ。神道の感覚で生きれば鬱病なんて治っちゃうかもね。

神道の感覚が少しだけわかって、『苦海浄土』の石牟礼道子が「週刊金曜日」の田中優子との対談で言ってるこんなこと。このやわらかい感覚が理解できるようになったかも。

私は逆に、絶望が拡がって、若い人たちが何も希望を持てなくなってしまった時に、初めて祈りはじめるんじゃないかと、そういう若い人がでてくるんじゃないかと期待しております。

ああ、お前たちもこんな風に生きていたのかと。魚とか虫とか、地を這うもの、空を飛ぶものに、お前たちも俺たちと一緒だねって思う若者が、出てくるんじゃないかと思います。だから、まだちょっと絶望感が足りないんじゃないかと。

今日はなんとなくザ・バーズ。

高校生の頃、この曲のクラレンス・ホワイトのギターを聴いて、どれほど心を癒やされただろう。

2013年1月 6日 (日)

キンドルの電子本で『路地裏のユートピア 昭和三十年代下谷根岸物語』を出すことにした。

キンドルの電子本で『路地裏のユートピア 昭和三十年代下谷根岸物語』を出すことにした。

無料配布するつもりだが、まだキンドルのソフトをダウンロードしていない方も多いだろうから「あとがき」だけでも、気軽に読んでいただきたいので、ブログに掲載します。

  最近、仲間数名と路地裏文化研究会なる団体を立ち上げた。
 僕以外は、社会的地位もある人たちなので、名前の公表は差し控えるけれど、個性的な顔ぶれが集って、楽しく散歩し、酒を酌み交わしたりしている。
 路地裏で育ったから、路地裏好きなのではなく、路地裏に対して愛憎半ばする感情が、長い間まとわりついていた。
 本文には書かなかった、若い時分には路地裏から脱出して、広い世界に、それこそシュバイツァー博士のように地球の果て までも行って、そこで暮らしたいと考えていた。
 
 結婚して、徐々に所帯じみてきて、そんな夢など、忘れかけていた時に、家族で沖縄旅行に出かけて、心の奥深くに流れている地下水脈に触れた気がした。
 三十数年の長い間訪れていなかったふるさと根岸を訪れたのは、その数年後である。
 いま思えば小泉改革に伴うミニバブルで、町こわしが急ピッチで進む直前、二〇世紀の終わりの頃だった。
 根岸はほとんど何も変わっていなかった。 
 都電こそ消えたが、弟が生まれた下谷病院は健在だったし、黒塀に囲まれた仕舞屋や、路地もそのまま残っていた。
 よくぞ昭和の終わりのバブル時代を生き抜いてくれたと、町に住み続けた人たちに感謝したことを思い出す。
 それからたったの十数年で、町は急激に変貌してしまった。
 海外の機関投資家とやらがお金を出して、古い町は壊されて、次々とマンションが建ち上がり、薄暗い路地裏は、さらに暗くなった。

 かつて音楽評論家の中村とうようは「地球のでこぼこ」と言った。
 でこぼこがあるから、人も町も面白い。
 でこぼこを平らにしようとする資本の力は圧倒的で、陽の当たる大通りは日本中どこも同じ様な店が並ぶ、個性のない空間に成り下がった。
 そんな風潮に対する異議申し立てをしたくて、路地裏文化研究会を作った。
 その設立趣意書にぼくは、こんな文章を書いた。

 かつて、横丁や路地裏や空き地は、東京や東京近郊の至る所に存在していました。
そこでは、決して贅沢ではないけれど、伝統を重んじ、季節感を生活に取り入れた、風土に根ざした趣味のよい「庶民の暮らし」があったように思います。
時代が進むにつれて、暮らしの中から、地域性や伝統的なものが薄れてゆくのは、仕方のないことかもしれません。
そこでぼくたちは、かつて横丁や路地裏や空き地で営まれていた庶民の生活文化を総称して「路地裏文化」と名付けることにしました。 自分たちの出来る範囲でいいから、路地裏文化を「残すため」、あるいは「思い出すため」、若い人なら「発見するため」といってもいいかもしれません。
とにかく有志で集まって情報交換する場を作りたいと考えました。
そして、もし可能なら、情報交換した結果を何らかの形で、外部に向けて発表したいと考えています。
路地裏文化全般を扱うという志は大きいですが、出来ることは限られています。
酔っ払った勢いで、気宇壮大になって、大風呂敷を広げるのではなく、地道に活動を継続し、少しずつ成果を出したいと思います。 

きっと『路地裏のユートピア』という本は、ぼくが路地裏文化研究会にたどり着くまでの、長い履歴書なのだと思う。

  表題作の「路地裏のユートピア」は、五年前に出版した『ふるさと』という画文集に寄稿した作品で、今回電子本化にあたって、少し手を入れた。
 「一葉と私」は三年ほど前に「流星」というずいひつ雑誌向けに書いた作品だが、文字数が多くなってしまい、「鶯」という作品に改稿したので、没原稿にした未発表作品。
 この本の趣旨には「鶯」よりも、こちらの方があっているので、この作品を採用した。
 「沖縄病のなおし方」は一番古くて、七年前、まだほとんど文筆に手を染めていない時期に、発表するあてもなく書いたエッセイ。エッセイと書いたが、読んだ人は小説だと言うし、書いた本人は論文だと思っていたようなジャンルを超越した作品。ある意味では、下手な常識や先入観を持たず、無心で書いた作品で、結構気に入ってる。この本に収録するに際して、最後の部分を書き直した。
 
 履歴書づくりはこれでおしまい。
 これからは、仲間と一緒に、路地裏文化再興の、新たな歴史を刻んでゆく。

ことしもよろしくお願いいたします。

2013年1月 3日 (木)

紅白歌合戦で美輪明宏が歌った「ヨイトマケの歌」について調べたら、「土方」「ヨイトマケ」という言葉が民放では放送禁止だという。その瞬間、江戸期に実在した「戸塚の大金玉」を思い出した。

紅白歌合戦で美輪明宏が歌った「ヨイトマケの歌」について調べたら、「土方」「ヨイトマケ」という言葉が民放では放送禁止だという。その瞬間、江戸期に実在した「戸塚の大金玉」を思い出した。

大道芸通信:戸塚の大金玉

本文にあるとおり大きな睾丸を見世物にしていた乞食なのだが、興味深い逸話がある。

紅毛人が大睾丸を見て、
「彼は実に不憫である。水を抜いて治療をしてやろう」と、通辞(=通訳)に云わせた処、
「気持ちは有難いが、私には何の取柄もない。幸い今は陰嚢のおかげで沢山施しを受け、口腹を安穏に養うことができている。(生活基盤がなくなるので)治療のことはどうかお免(ゆる)し下さい」
 と鄭重に断ったと云う。

進歩的な文明人の立場から見ると、不合理だったり、憐れむべき障害に見えても、別の尺度で見れば、それは個性であり、商売道具だったりする。

そういえば、昔はテレビで「こびとプロレス」なんてのもあったなあ。

友人の話では「障害者プロレス」というのもあるらしい。

オリンピックに出るような立派なアスリートではない、平凡な障害者でも、それを個性に生きている姿を見せるのは決して「悪いこと」ではない。

「悪いこと」どころか、世の中は多様性に満ちていて、出来合いのレールから外れても、いろいろな居場所があるって事実を子どもたちに教えることは、いまとても大事なことなんじゃないかと思う。

マスメディアがどんどん自己規制して、「土方」という立派な言葉を放送禁止用語にしてしまう。

江戸時代の紅毛人同様、自分たちのお上品な尺度を絶対だとして、そこから外れる言葉は、汚い言葉、差別用語だと曲解して、排除してしまう。

よーし。ことしはひとつ、放送禁止用語をビシバシ使って、文章を作ってみるとしよう。

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