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2012年10月

2012年10月21日 (日)

自分たちの町に残る歴史を忘れて、どこにでもある個性のない街が作られてゆくことの多い昨今、墨田区のひとたちのバイタリティに、心を打たれた。

路地裏文化研究会という集まりを始めて、昨日は墨田区の京島に行った。

午後は、向島まで歩いて、鳩の街商店街をみたのだが、wikiによれば、吉行淳之介の小説「原色の街」の舞台となり、永井荷風がこの地を舞台に戯曲「渡り鳥いつかへる」「春情鳩の街」を書いているということ。

近隣の玉の井と同じように永井荷風が訪れ、そのほか多くの文人が訪れたといい、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎、小沢昭一などが、出入りしたことが知られているという。

また、女優・歌手の木の実ナナがこの地で生まれ育ったことで有名である。
以上が鳩の街の簡単なプロフィールだ。

鳩の街に一時間ほどいて、鈴木荘という複合店舗や商店街の裏にある色街の跡を見た。

僕が住んでいる松戸にもかつて平潟という色街があったが、地元では負の歴史遺産と考える人が多いらしく、遊客で賑わってた当時の面影を残しているのは、平潟公園に隣接する来迎寺と、一本の柳の木だけで、ほとんど痕跡はない。

それが常識だと思っていたので、鳩の街に当時の建物が残っていることに驚いた。

そして、いまでも鳩の街という名前に誇りを持って、「帰ってきたキューピッドガールズ」が、商店街のために歌い踊る。

自分たちの町に残る歴史を忘れて、どこにでもある個性のない街が作られてゆくことの多い昨今、墨田区のひとたちのバイタリティに、心を打たれた。

歩いているうちに、ちょっと頭がクラクラしたのは、昼間から呑んだビールのせいだけではないだろう。

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2012年10月19日 (金)

江戸期以前に出版された本を、博物館に入れて、しまいこむのではなく、現代に繋がる読み物として、社会の中で機能させてゆくべきだと思う。

朝から、自宅で室田武『天動説の経済学』(ダイヤモンド社、1986)を探しているのだが、見つからない。
アマゾンの書評をあまり信用していないぼくが、思わずアマゾンに書評を載せてしまったほどの名著だというのに、どこに消えてしまったのだろう。
ぼくがこの本を好きな理由は、原発の問題点を取り上げて、そこから脱却するための処方箋が用意されていたからというだけではない。
一番衝撃を衝撃をうけたのは、与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」という有名な俳句が冒頭で紹介され、江戸時代に対して「暗黒時代」とか「鎖国」とか、単純なレッテルを貼って、ステロタイプな見方しか出来なかった、当時の僕の眼からウロコを何枚もはがしてくれたことである。
いま思えば、江戸期の社会や思想への関心は、この本から始まった。
もちろん未開で、野蛮なことも多い江戸時代だが、日本の気候風土を考えて国土を開発し、自然と調和したゆったりとした平和な社会を作り上げた先人の知恵を、明治以降の日本社会はあまり生かしてこなかったように思う。
19世紀に猛威をふるった帝国主義のヨーロッパ列強に負けじと、近代合理主義一辺倒でやってきてしまった。
つい近年だって、グローバルスタンダードなる、怪しげな言葉で、日本企業は苦しめられたので、日本的な経営に戻るために株式上場を意図的に廃止した会社もあるという。
もうそろそろ,気づいてもいいんじゃないかな。
江戸期以前に出版された本を、博物館に入れて、しまいこむのではなく、現代に繋がる読み物として、社会の中で機能させてゆくべきだと思う。
例えば、熊沢蕃山。
室田氏は「現代エコロジーの先駆者・熊沢蕃山」と呼んで、日本の林業を考える際に欠かせない人物だというのだが、本屋に行っても熊沢蕃山の現代語訳の本など見つからない。
アマゾンで調べたら、中央公論の「日本の名著シリーズ」で読めるのかもしれないが、それも品切れで、入手は難しい。
これが、日本の現状で、江戸期以前の学問や思想の蓄積に対して、全く知識を持っていない浅薄な人間が、気候風土を無視して、国の形を変えて行ってしまう。

経済の語源は経世済民である。

「凡(およそ)天下國家を治むるを經濟と云、世を經め民を濟ふ義なり」という。

そんな経済学のイロハすら知らないで、新古典派の教科書かなんか読んで、何でもわかったつもりになったエリートたちが、なりわいで生きていた人々を、土地や仕事から引きはがして、産業化社会に無理矢理放り込むことを経済だと勘違いしている。

国土をでたらめにいじるのも、地名をでたらめに変えてしまう蛮行も、この国の歴史や文化や気候風土に対する深い知識や見識がなければ、良心の呵責など感じるはずもなく。

3.11の時も同じ様なことを書いたが、学校では教えてくれない本当の歴史の勉強 幕府の瓦解と明治の新政府が成立した時点まで、いちど立ち返って、この国のあり方を見直さない限り、こんな負のスパイラルは続いてゆくと思う。
産業革命に始まって19世紀から続いているやり方を問い直すのか、21世紀にふさわしい新しいやり方を模索するのか。
これは、○○党が政権をとる、とらない以前の、目下の日本にとって、最重要課題だと思うんだけどね。

2012年10月13日 (土)

どことなく下町というより郊外の雰囲気もわずかながら残っていた当時の根岸に比べて、人形町は日本一、おしゃれで、粋で、洗練された理想の下町だと、子ども心に思った。 だからいまでも、自分の中には、人形町やその周辺の町に対して、特別な思いがある。

地下鉄の「水天宮前」という駅を初めて利用し、日本橋蛎殻町、中洲、浜町。人形町といったエリアを歩いた。
懐かしい「水天宮前」という言葉から、連想するのは都電の21番系統。
小さい頃住んでいた根岸の町を走っていた都電である。
父は毎日、金杉二丁目から人形町まで、「水天宮前」行きの都電で通勤していた。
まだまだのんびりしていた昭和30年代の中頃。
警察官だった父は帰る時間が決まっていたので、家から歩いて100メートル程度の距離にある電停まで、毎日のように父を迎えに行った。
携帯どころか、家に電話もない時代だったが、毎日定刻に迎えに行って、父と一緒に戻るのが、何よりも大好きな習慣だった。
いま思うと、この頃が、ぼくの人生で一番びんぼうだけど、一番幸福な時代だったような気もする。
あの醜悪な首都高速道路もなく、空の広い町には、時たまのんびりとアドバルーンが上がっていた。千住のイトーヨーカ堂のバーゲンの告知でもしていたのだろうか。
そして、ちんどん屋や物売りが、代わる代わる家の前の路地まで入ってきた。
夜になると真っ暗になる町で、三ノ輪に出来た東京スタジアムの照明灯だけが、まばゆい光を発していた。
父は家に帰ってくると、人形町界隈の話を聞かせてくれた。
芳町の芸者さんや、明治座や映画館、末廣亭という寄席や、小粋な料理店。
人気絶頂だった力道山の道場もこのエリアにあって、警察署長だった大叔父はあこがれのヒーロー力道山と懇意にしている。
そんな夢のような話をワクワクしながら聞いた。

家の前を走る21番の都電の行き先はあこがれの地で、滅多に行けない場所だった。
どことなく下町というより郊外の雰囲気もわずかながら残っていた当時の根岸に比べて、人形町は日本一、おしゃれで、粋で、洗練された理想の下町だと、子ども心に思った。
だからいまでも、自分の中には、人形町やその周辺の町に対して、特別な思いがある。

そんな人形町を20数年ぶりに訪れて、オフィスビルだらけになった町を見た。

明治座の特徴ある建物もなくなって、大きなビルになっていた。

人通りは昔より多いけれど、地元の個人店は消えて、サラリーマンが行く居酒屋が目立つ。

甘酒横町の周辺には客引きが立っていて、あの特別な空気感は感じられなくなっていた。

日曜日の朝、ここを訪れることはあっても、平日の夜にこの町を訪れることは、二度とないだろう。

自分の中に残る美しいイメージを消したくないから。

夢の中で会えればいい。そして、さようなら。

長谷川時雨や谷崎潤一郎や向田邦子が愛したこの町は消滅し、もう二度と元へは戻らないだろう。だからこそ、中洲で発見した隅田川や清洲橋の夜景の美しさに心打たれる。

金曜日の夜、仕事を終えたサラリーマンで賑わう人形町の喧噪や、忙しく旅行客が行き交う箱崎町の東京シティエアターミナルから、ほんの少し歩いて、中洲に入り、小さな坂を登ると、隅田川にかかる清洲橋が目の前に立ち上がる。
テレビドラマ『男女7人夏物語』の舞台にもなった、優美なこの橋の上に立って、川風に吹かれながら、ゆったりと流れる水量豊かな隅田川の川面や、遠くに見えるビル群の燈りや、ライトアップされた東京スカイツリーを眺めるのは、とてもいい気分だ。
周囲にはジョギングしている人が、たまに通り過ぎる程度で、ほとんど人影がない。

いまから25年前、仕事の関係で、対岸の清澄にゆくために、毎月この橋を渡った。

半蔵門線はまだ開通していない時分で、日比谷線の人形町駅から歩いた。

くだんのドラマが大ヒットして、主題歌の石井明美「CHA-CHA-CHA」という曲も、街角で流れていた。

バブル経済が真っ盛りの頃で、昼間のこの橋をウキウキしながら、渡ったけれど、中洲という小さな町のことなど、気にとめることなどなかった。

隅田川と清洲橋を見ながら、そんな遠い日のことを思い出した。

ここに来るのは、夜がいいと思う。夜の闇が、美しくないものを消してくれる。

そして、大都会の片隅に、こんな美しい風景を独り占め出来る空間をみつけた。
それが、無性にうれしい。

この25年間に、周囲にはオフィスビルが増えて、昔は芳町と呼ばれた艶っぽい町人形町は、粋だとか、洗練といった言葉とは無縁の、サラリーマンの酔客だけが目立つミニ新橋になってしまった。

長谷川時雨や谷崎潤一郎や向田邦子が愛したこの町は消滅し、もう二度と元へは戻らないだろう。だからこそ、中洲で発見した隅田川や清洲橋の夜景の美しさに心打たれる。

複雑な気持ちで、日比谷線に乗った。

2012年10月 7日 (日)

ぼくには、小津作品に登場するような、趣味のいい中流の小市民が分厚く存在している社会が健全な社会だという確固たる信念がある。

ずいひつ流星の原稿がやっと脱稿。
脱稿って言葉、気分でてるよなあ。
がんじがらめにされて、監禁されていた小部屋から、外に飛び出したような開放感だ。
今度こそ軽やかな文体で、小沢信男さんのように、らくーーーーに書いているような文体で書きたいと思っていたのに、それには30年早いか。

ひとまず、ダークな感じからは脱却出来たので、まあ良しとするしかない。

実は、佐藤春夫を中心として、大正文学をテーマに書こうと考えたのだが、自分にはまだ、大正文学について語れるような力量もなく、文学評論的なエッセイは破棄して、一から書き直した。

だから、今回は家族や住宅やまちづくりをテーマにした。

どこまで、上手く書けたのか、はなはだ不安だが、一応辻野さんから及第点をもらったので、

今秋には「ずいひつ流星第14号」として、発行される予定。

家族の情愛とかって、地味で平凡で、当たり前のことだと思い、見逃されがちだけど、

幸せな暮らしの基本中の基本で、しかもそれが、今揺らいでいる。

小津安二郎が「東京物語」で取り上げた問題は、いまもぼくたちの前に横たわっている。

ぼくには、小津作品に登場するような、趣味のいい中流の小市民が分厚く存在している社会が健全な社会だという確固たる信念がある。

そして、人物や物事の善し悪しの判断に、小津作品に登場して、違和感があるかないかという基準でみてゆくと、案外正しい判断が出来ることに気づいた。

野田くんはサイテーの首相だと思うけど、富の分配が偏って、「少しくらいの格差なんか、問題じゃない」と言い放って、ホリエモンを賞賛したコイズミという男は、日本の社会を壊した史上最悪の政治家だと思う。

コイズミが壊した中流の小市民を、どのように増やしてゆくか。

まずは小津映画でも見ながら、考えますか。

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