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2012年7月

2012年7月29日 (日)

ずっと昔、中野か池袋あたりで、館内にしょんべん臭い匂いが漂って、冷房のないおんぼろ映画館で観た、ATGあたりの映画の中でコルトレーンの「サマータイム」が流れていたような記憶がある。

夏だ、渚だ、ビーチ・ボーイズだって、感じで、「Break Away」「I can hear music」なんていう、

人気に陰りが出た頃の作品を聴いていると、しみじみいいなあって思う。

ブライアン・ウィルソンが家に引きこもってしまい、早世したカールがボーカルで頑張って、ブルース・ジョンストンがベースを弾いてる姿も、現在の彼らの活動を思うと涙を誘う。

でも、オイラは海が苦手なの。

日焼けしない体質で、赤くなってやけど状態になるだけなので、どう転んでも「渚のシンドバット」にはなれそうもなく、「海」や「渚」っていうと、死んだ魚の匂い、なんともいえない磯の臭気、台風の海でおぼれて九死に一生を得た悪夢ような事件なんてぇの、ばっかり思い出す。

山の奥の湖なんて、シチュエーションは大大大好きなんだけどなあ。

実は、個人的に一番夏を感じるミュージシャンっていうと、コルトレーンなのよ。

暑い夏を、もっと熱くするコルトレーンのうっとうしいサックスの音が、オイラにとっては夏の代名詞。

ずっと昔、中野か池袋あたりで、館内にしょんべん臭い匂いが漂って、冷房のないおんぼろ映画館で観た、ATGあたりの映画の中でコルトレーンの「サマータイム」が流れていたような記憶がある。

あんまり不快だったので、暑い夏がくると、あの臭気とコルトレーンの「サマータイム」の記憶が蘇ってしまう。

昨日も書いたけど、匂いや音の記憶ってのは、良くも悪くも、死ぬまで忘れない力があるなあって、痛感する。

という訳で、「サマータイム」は、あんまり暑苦しいから、LPでは「サマータイム」の次の曲、激しい夕立があがった後の、さわやかな夏の日の町って感じが耳に心地よい 「But Not for Me」をどうぞ。


こうして、ぼくはだんだん頭の中が明治時代化して、ずぶずぶと泥沼にはまってゆく予感がある。泥沼もまた、楽しいかもね。

今朝は、あんまり、あじぐで、あじぐで、寝苦しくて早起きしちゃった。
だから、午後はもうグロッキー状態。
ソファ→ふとん→ソファ→ふとんの往復運動を繰り返して、半分眠りながら、いままで読めなかった本を読む。
中野翠の『今夜も落語で眠りたい』も6年かけて、本日読了。
まさに、この6年間は、取材したり、原稿を書くのに忙しくて、読みたくても読めない本が、どんどんたまってしまった。
古今亭志ん生の話を小島貞二さんがまとめた『びんぼう自慢』も、今日から読み始める。
志ん生の語り口調ってぇのが、たまんない魅力。
ついつい、「遊び」と書いてあるのを「あすび」と読んでしまったりする楽しさに、時間を忘れる。
志ん生に飽きたら、真ん中あたりまで読んだ樋口覚『三絃の誘惑』をひっくり返す。
中江兆民と正岡子規という意外な取り合わせ(近代文学研究者の間では意外でも何でもないのかもしれないが、こちとらバリバリの素人さんだからね。許して。)が面白い。
岡倉天心や幸田露伴の関係でも、まだ、手つかずの本がいくつもあるし、いくらあっても時間が足りない。
こうして、ぼくはだんだん頭の中が明治時代化して、ずぶずぶと泥沼にはまってゆく予感がある。泥沼もまた、楽しいかもね。

窓から深い夜の闇を見ながら入力していると、時たま聴きたくなるカサンドラ・ウィルソン。

1996年に発表し、グラミー賞を受賞したアルバム"New Moon Daughter"から、Love Is Blindness

2012年7月28日 (土)

そうか。昨日から「ひらけ!ポンキッキ」づいてるんだけど、俺の記憶の奥底にポンキッキと、この曲When I'm Sixty Fourが重なっているのかもしれないって、改めて音楽の持つ力を感じた。

オリンピックの開会式で、ずいぶんと、しわの増えたポールが「ヘイ・ジュード」を歌うのを見て、感慨にふけっていると、
ビートルズのWhen I'm Sixty Four
という曲を思い出してしまった。
ポールは確か1942年生まれだったから、64どころではなく、今年70歳。
武道館に警備員のひとりとして動員された警察官だった父が、無料でビートルズの日本公演を見たのが46年前。
何もかも、大昔のことになっちまった。
それはさておき、この曲
にはオリジナルバージョンがあって、本来はもっとゆっくりした曲だったのを、若々しい声に聞こえるように、テープの回転を速くしたものをレコード化したらしい。
そこで、本来のバージョンを貼り付ける。

こっちのほうが自然でいいなあ。


こんなエントリを書いてるうちに、なんか胸騒ぎして、ウィキペディアを見たら、こんなこと書いてある。

日本の幼児番組「ひらけ!ポンキッキ」のBGMに、この曲のイントロ等が使われていたのは有名。

そうか。昨日から「ひらけ!ポンキッキ」づいてるんだけど、俺の記憶の奥底にポンキッキと、この曲When I'm Sixty Fourが重なっているのかもしれないって、改めて音楽の持つ力を感じた。
文章の力って、それに比べれば悲しいほど儚く。
月日と共に薄れて行く。

いま日本に一番必要なのはもえみさんが持っていたような破天荒なプラスのエネルギーじゃないかなあ。

いま、何を書きたいって、これしかないよなぁ。
我が家のレジェンド「もえみお姉さん完全復活」!
4月28日のエントリで「ひらけ!ポンキッキ」のことを書いた。

そんな発狂しそうな

そこにも書いた通り、まだ若かりし頃の僕と妻は、当時赤ん坊だった息子そっちのけで、毎日「ひらけ!ポンキッキ」を見ていた。

番組全体のセンスの良さに心惹かれるものがあったから、毎日見ていても飽きなかったのだけど、お姉さん役の木の内もえみさんから発散される異様なプラスのエネルギーに圧倒された。

彼女が、忽然と番組から消えて、お姉さんが変わったとたん、見る気が失せてしまい、申し訳ないが、その後のポンキッキはほとんど記憶にない。

そんな我が家のレジェンドもえみさんが、うちからTXで20分程度のつくばで、鈴木もえみさんとして、元気に活躍していることを知って、すごくうれしかった。

それだけでも、十分うれしかったのに。

なんと、昨日、もえみさんとFacebook友達になったのだ!小島さんのお陰で。

とにかく、当時の映像を見て欲しい。

89年に彼女が突然降板し、翌年バブル景気が崩壊し、80年代が終わった気がした。

それから23年間、日本は失われた○○年間を、ずっと更新し続けている。

2012年7月25日 (水)

胸くそ悪くなるドジョウ君のことなど、しばし忘れて、今夜も落語で眠りたい。

昨夜寝る前に古今亭志ん朝の『大工調べ』を、聴いた。
志ん朝の息もつかせぬ、スピード感あふれる洗練された悪態の歯切れのよさ。
ああ。これだよなあ。
ぼくが「ら抜き」言葉がきらいなのは、言葉のリズムも歯切れもなくなって、平板に聞こえて、気持ち悪いから。

古風な日本語の響きが美しい古典落語は、おそらく日本に生まれた庶民の精神の地下水脈に位置すると思う。

だから、ぼくの心が喜んでいるのがわかるのだ。
荷風さん流に言えば「生命が延びるような気がするね。」って感じ。

中野翠は宮崎勤の幼女誘拐殺人事件やオウム真理教事件の時に、崩れそうな心を落語で、とりわけ古今亭志ん生で乗り切ったという。

志ん朝も大好きだけど、もっと好きなのは志ん生。

『お直し』

何回、聴いたろう。

吉原から、もっと低級な苦界へ、どこまでも墜ちて行く男女の運命の怖さと、ポップな明るさが同居している摩訶不思議な感覚。

聴くたびに楽しめて、さらにまた聴きたくなる。

もし、「路地裏文化」なるものがあるとするなら、その中央に位置するのはやはり落語だろう。

上記の中野翠は『今夜も落語で眠りたい』の中で「落語こそ日本文化最大最高の遺産なのだ」と書いているが、大賛成。

胸くそ悪くなるドジョウ君のことなど、しばし忘れて、今夜も落語で眠りたい。

2012年7月22日 (日)

そろそろ、資本主義VSマルクス主義、右翼VS左翼なんていう単純な図式から卒業して、社会主義っていっただけで「アカ」なんて、レッテルを貼る低い次元から脱却して、オルターナティブな新しい経済システムを作っていかないと、日本社会が保たないところに来ている。

朝、「日本のロバート・オーエン」佐久間貞一のことを書いた。

そもそも本家のロバート・オーエンといっても、知らない人がほとんどだと思う。

日本では、これまでマルクス、エンゲルスの影響が強くて、エンゲルスが空想的社会主義者と切り捨てたロバート・オーエンは、まともに取り扱ってもらえなかったように思う。

だから、一般的に日本では、資本主義VS社会主義=マルクス主義という短絡的なレッテル貼りが横行してきた。

手元にある生活クラブ生協の情報誌を見ると、

「日本では、生協をはじめ、協同組合の価値や重要性が広く一般に認識されておらず、協同組合について専門的に学べる大学も少ない。」

なんて書いてある。

さらに、平山昇さんという方のブログを見ると、かなり詳しく佐久間貞一について書いてある。

高野房太郎が労働組合期成会をつくる際、それに協力した秀英舎の佐久間貞一がいた。秀英舎は大印刷工場(大日本印刷のルーツ)で、「社員持株制による労使協同会社の実験」であり、その経営者であった佐久間貞一は日本のロバート・オウエンと呼ばれた。

ソ連が崩壊して、マルクス主義が敗北して、何もかも市場のメカニズムに任せれば上手くいくような幻想を抱かせる時代遅れの「新自由主義」なるものが、日本中を席巻した。

そして、ぼくの愛するふるさと東京の町は、特に最近の十数年で、どこもかしこも、のっぺりした、カオナシのような人間が幅をきかせる、ハートのない町になっちまった。

そろそろ、資本主義VSマルクス主義、右翼VS左翼なんていう単純な図式から卒業して、社会主義っていっただけで「アカ」なんて、レッテルを貼る低い次元から脱却して、オルターナティブな新しい経済システムを作っていかないと、日本社会が保たないところに来ている。

ワーカーズ・コレクティブや協同組合やNPO。

形態はいろいろあるけれど、新しい市民事業によって、未来を切り開いてゆくことが、いま一番求められていることだと思う。

佐久間貞一といっても、一般によく知られている人物ではないが、あの大日本印刷の創業者で、片山潜が「日本のロバート・オーエン」と呼んだ人物といえば、少しは興味を持ってもらえるかなあ。

根岸という町の歴史をちょっと掘り進むと、ザクザクいろんな情報が出てくる。
幕末から明治にかけて、旧幕臣のネットワークの中心地だということは、山口昌男の著作である程度わかっていたけど、それにしてもゴージャスな町だなと、改めて痛感する。
先週小島さんに教えてもらって、アンツルの本に桂文楽が中根岸で生まれたと書いてあることを知ったばかりだが、昨日は佐久間貞一の墓と石碑が西蔵院にあることを知った。
佐久間貞一といっても、一般によく知られている人物ではないが、あの大日本印刷(元は秀英舎)の創業者で、片山潜が「日本のロバート・オーエン」と呼んだ人物といえば、少しは興味を持ってもらえるかなあ。
佐久間は旧幕臣で彰義隊にも参加し、榎本武揚と一緒に五稜郭で戦っている。
もちろん五稜郭では土方歳三も一緒だったろう。
その縁で、上記の石碑は榎本の手によって作られたという。
榎本武揚は1836年下谷御徒町で生まれ、佐久間貞一は1848年下谷南稲荷町で生まれたから、根岸ではないが、二人ともいまの台東区生まれ。今だって、西蔵院からは徒歩圏内。

佐久間貞一にとって、佐幕だ、勤王だって「大文字」の屁理屈じゃなくて、自分たちが子どもの頃から遊び、敬った上野の山を、西軍の兵隊に蹂躙されるのは、許せなかったんだろうって、気持ちがわかる気がする。

さらに佐久間は、早くから労働問題への理解が深く,明治11年労働者のための徒弟学校を開設し22年には秀英舎で8時間労働制を実施するなど、労働者の待遇改善や福祉に努力したという。日本初の労働組合も経営者自ら組織し、「日本のロバート・オーエン」と言われるようになったらしい。

拙著『ぼくたちの野田争議』の取材で、大正元年の第一日目、8月1日に日本最初の組合運動である友愛会が発足したと思っていたが、明治31年に亡くなった佐久間の組織した労働組合とは、どんなものだったのだろう。

さらに付け加えると、友愛会を組織した鈴木文治は東大を卒業して、最初は秀英舎に就職している。そこを八ヶ月でやめてしまうので、関連書にも詳しくは触れられていないのだが、その後の鈴木文治の活動を考えると、新卒で入った会社が秀英舎(現大日本印刷)という事実は、興味をそそる。

なんか、ものすごく面白くなってきた。

『ぼくたちの野田争議』と、根岸がゆっくりとつながり始める。

もっと勉強してみよう。

句読点の付け方が独特で、贅肉のない硬質な文体が名人芸だ。いつどこで、入りこんだ情報だか、わからないけど、アンツルってのはイヤな奴という偏見があって、今まで一冊も読まなかたことを後悔した。

昨日は足から腰にかけて、違和感があって、歩くのも辛くって、「すわ、難病の予兆ではないか、ジュン・サンダースの骨肉腫じゃないか」とか、「中村とうようさんの霊が体についたんじゃないか。くわばら、くわばら」とか、本気でバカなことを考えていたのだが、どうも金曜日の夜遅く3時間も、電車が動かないのでウロウロしたことが原因だとわかった。
左の下半身が痛いので、朝早く起きて、かみさんに膏薬を貼ってもらったら具合がいい。
こうやって、オイラのような無知な一般ピーポーは、怪しげな新興宗教の世界に入って行くんだろう。
それはさておき、休日出勤で疲れて、どろどろになって、眠い目をこすりながら、好きな歌手エスターの話を超テキトーに書いたら、数人の方から、文章がいいって、お褒めをいただいた。
この5,6年、郷土史の論文ばっかり書いていたので、おそらく硬くて、重い文章を書く癖がついている。
ところが読み手にとっては、超テキトーくらいな感覚で書いた方が、リズムがいいのかなあ。
文章ってのは、奥が深くって、自分じゃよくわかんないのだ。
だから、面白いってことかもしれない。
そういや、文体っていうと、小島豊美さんが貸してくれた安藤鶴夫の随筆集『歳月』が、よかった。
句読点の付け方が独特で、贅肉のない硬質な文体が名人芸だ。

例えばこんな感じ。

み送っていて、わたしは、遠くに、いま、聖天のはやしがきこえるような気がした。

いつどこで、入りこんだ情報だか、わからないけど、アンツルってのはイヤな奴という偏見があって、今まで一冊も読まなかたことを後悔した。
小島さんから借りなきゃ、生涯読まずに終わったかもしれない。
このところ郷土史ばかりやっていて、それはそれで、自分の教養の足腰を強くしてくれたと思う。
だけど、しばらくはそこから離れて、長いこと封印していた建築や、まちづくりや、落語や、江戸明治の音曲の勉強や、東京の町歩きを復活させたい。
少し遠回りしたけど、いまはものすごくワクワクしている。

そうだ、新しい朝が来たので、川田晴久とダイナ・ブラザース「地球の上に朝が来る」を張ろう。

ふてくされた、へんてこりんな高校生の頃、FMで聴いていた歌が、いまは映像で見られる。
素直に楽しい。



2012年7月21日 (土)

と、ここまで書いてきて、腰が抜けるほど驚いた。今日って中村とうようの命日じゃないか。

世間の人と同じことをやっていると、飽きてしまう性分で、親や学校の先生の期待を裏切り続けた少年時代だったが、あれほど好きだったロックも数年で飽きてしまったことを思い出した。
具体的にいうとロックを聴いていたのは、1971年から76年まで、足かけ6年。
だから数十年間もストーンズ一筋に追いかけているなんていう人が、心底羨ましい。
ザ・バンドが解散して、イーグルスが1969年からスピリットがなくなったなんて歌った頃には、ロックに興味を失っていた。
そこから昭和の歌謡曲探求が始まるのだが、ロックから離れるきっかけって、何だったのかと思い返すと、中村とうようさんが編集長を務めていた「ニュー・ミュージック・マガジン」で、98点だか97点だかをもらった、この曲の入っているアルバムだったような気がする。
エスター・フィリップスの「ブラック・アイド・ブルース」。
なけなしの小遣いをはたいて、清水の舞台から飛び降りたが、大成功だった。


エスターの唄を聴いた瞬間に、ジャニスだの、ジョー・コッカーだの、ロッドだのといったロックのボーカリストたちが、おこちゃまに見えてしまい、一気に興味を失った。
間奏のギターもかっこいいの。

YouTubeで久々に聴いたけど、いいなあ。

プロデューサーは確かクリード・テイラー。

このあと、エスターはディスコ・ミュージックに傾斜してゆく。

その時期も好きだったけど、今聴いて素敵なのは、やっぱりこのアルバム。

えええ、うっそー。

と、ここまで書いてきて、腰が抜けるほど驚いた。今日って中村とうようの命日じゃないか。

とうようさんは、人生最初に文章のお手本にした人物だ。

オイラ最近、ますます霊感が強くなっている。

久々にお化けに会いそうで、怖いよー。

お化けきらいだし。

2012年7月16日 (月)

ちょっとショックだったのは黒田原駅近くの商店街を車で通ると、古い木造のいい感じの郵便局など、震災の爪痕が生々しく残っていて、首都圏では考えられないくらいひどくやられて、放置されたままになっていること。

二日間那須に行ってきた。

いろいろ良い意味での収穫はあったけれど、ちょっとショックだったのは黒田原駅近くの商店街を車で通ると、古い木造のいい感じの郵便局など、震災の爪痕が生々しく残っていて、首都圏では考えられないくらいひどくやられて、放置されたままになっていること。

栃木県の被害って、あんまり報道されていないと思う。

本田技研の工場で亡くなった人がいることくらいしか、大きな話題にならなかった。

ところが、福島との県境に近い、那須町の被害の大きさに声を失った。

首都圏ではどんどん建物も修理したり、建て直されたり、復興が進んでいる。

もちろん津波にあった地域に比べれば大したことではないのかもしれないが、復興めざましい仙台市内くらいしか、見ていない僕にとっては、ショッキングだった。

写真に撮ろうかどうしようか迷ったけれど、中で人が暮らしているかもしれないのに、興味本位で撮影するのは、失礼だと思って、撮影しなかった。

1991年から通っている那須町は、僕にとって第二のふるさとになりつつある。

川嶋工務店の川嶋満さんや、遊行庵茶屋の大平夏澄さんなど、徐々に仲間も出来てきた。

これから死ぬまで、那須町と関わりが続くと思う。

まずは、芦野という古い歴史ある町を活気づけようと頑張っている若い大平夏澄さんを、自分に出来るやり方で、応援したいと考えている。

2012年7月14日 (土)

原っぱについて一家言あり、我こそはと自負する人は、是非名乗り出てくれるとうれしいなあ。ひょっとすると中川利枝子のような児童文学者の方は詳しいかもね。

小島豊美さんがFBで書いているように、路地や横町と並んで、都市に必要なのは空き地である。

荷風の『日和下駄』では、路地だけでなく、空き地についても一章を割いている。

やはり、『日和下駄』は路地裏文化研究会のバイブルだと思う。

一部を紹介しよう。

市中の散歩に際して丁度前章に述べた路地と同じような興味を感ぜしむるものが最う一つある。それは閑地《あきち》である。

(中略)

そして一雨降ればすぐに雑草が芽を吹きやがて花を咲かせ、忽ちにして蝶々蜻蛉やきりぎりすの飛んだり躍ねたりする野原になってしまうと、外囲はあってもないと同然、通り抜ける人たちの下駄の歯に小径は縦横に踏開かれ、昼は子供の遊場、夜は男女が密会の場所となる。夏の夜に処の若い者が素人相撲を催すのも閑地があるためである。

そして、『日和下駄』といえば、やはりあのフレーズだろう。

裏町を行こう、横道を歩もう。

空き地あるいは原っぱといえば、原っぱを研究した本といえば奥野健男の『文学における原風景―原っぱ・洞窟の幻想』くらいしか思い浮かばない。

ぼくたちが日頃何気なく使っている原風景という言葉は、この人が作った言葉らしい。

それくらい名著だけど、後に続く人はいるのだろうか。

原っぱについて一家言あり、我こそはと自負する人は、是非名乗り出てくれるとうれしいなあ。ひょっとすると中川利枝子のような児童文学者の方は詳しいかもね。

一日で4つもエントリ書いちゃった。ふうう。疲れた。

ブログ初めてから、最高記録かもしれない。

これ以上テンション上げないように気をつけなきゃ。昨日はまた血圧上がってたし。

それでは寝る前にもう一度。

裏町を行こう、横道を歩もう。

路地裏文化研究会という集まりを、ゆっくりと始めようと思う。もう歳だから、あんまりテンションを上げないように気をつけながら。

路地裏文化研究会という集まりを、ゆっくりと始めようと思う。

もう歳だから、あんまりテンションを上げないように気をつけながら。

ぼくが世話人として、裏方仕事をやり、論者に語ってもらう。

あるいは論者の案内でフィールドワークする。

そういえば昔、亡くなった建築家の鈴木馬の助と四谷荒木町でやったことがある。

路地裏研究会ではなく、路地裏文化研究会である。

略して「路地研」

思想信条も政治も宗教も国籍も老若男女も関係ない、路地裏文化に美を見いだす人なら誰でもOK。

物理的な街路としての路地裏だけなら、日本路地裏学会という団体が活動しているようだ。

ぼくがやりたいのは、路地裏の文化である。

荷風の『日和下駄』を引用しよう。青空文庫バージョンから借用する。

路地は公然市政によって経営されたものではない。都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の地響に午睡の夢を驚かさるる恐れなく、夏の夕は格子戸の外に裸体で凉む自由があり、冬の夜は置炬燵に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買わずとも世間の噂は金棒引の女房によって仔細に伝えられ、喘息持の隠居が咳嗽は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種いいがたき生活の悲哀の中に自からまた深刻なる滑稽の情趣を伴わせた小説的世界である。しかして凡の世界のあくまで下世話なる感情と生活とはまたこの世界を構成する格子戸、溝板、物干台、木戸口、忍返なぞいう道具立と一致している。この点よりして路地はまた渾然たる芸術的調和の世界といわねばならぬ。

大正4年に書かれた『日和下駄』は、路地裏文化研究会のバイブルだと思う。

『日和下駄』から100年近い歳月が流れ、その間に東京の街は関東大震災や東京大空襲やオリンピックの町壊しやバブル期の地上げを経験して、路地はとんどん消えてゆくばかりだけど、そんな時代だからこそ、考えなきゃいけないだろうって思う。

神楽坂や根岸のように今でも東京に残っている街路としての路地や、閉店した喫茶去のような路地裏の名店や、そこで営まれる暮らし。

「下町の太陽」のような路地裏の楽しさを教えてくれる映画。

荷風や泉鏡花や谷崎のような路地裏的な小説や詩、あるいは音楽や芸術。

『都市廻廊』や『モダン都市東京』のような路地裏を描いた名著。

日本だけではなくベンヤミンの言うパリの「パサージュ」なんてのもいい。

どんな人からどんなアイデアが出てくるのか、想像もつかないけれど、幅広く、「路地裏的」な文化現象全般について、詳しい人から話を聞いて、勉強してみたい。

映画「下町の太陽」は以前にアップしたことあるけれど、削除されていたので、再度アップ。

東京オリンピック直前の、まだ古き良き東京が残っていた最後の時代を切り取った映像。

堀切橋だろうか、荒川にかかる橋が木製だったことに驚き、感動した。

そして路地裏文化研究会世話人としては、エンディングの「路地にも幸の来るように」という歌詞に、心の底から拍手を送りたい。

あんまり暑くて難しい本を読む気にならないので、ものすごく昔の中野翠の本『ウテナさん祝電です』なんぞを取り出す。

朝から暑くてぼうっとして、娘と一緒に行水。

娘と二人で行水するのも、娘の歳を考えると、今年で最後かなあなどとシンミリした気分になる。

それはさておき、あんまり暑くて難しい本を読む気にならないので、ものすごく昔の中野翠の本『ウテナさん祝電です』なんぞを取り出す。

古本屋で50円で売っていたから、とりあえず買ったけど、長いこと放り投げていた本だ。

ぼうっと読んでたら、「およげ!たいやきくん」の作詞者である「下品のタカダ」なんていう記述を発見する。

「およげ!たいやきくん」といえば小島さんの出番だ。

そういやあ小島さん、ゴールデン街のバーで、中野翠と知り合いになったなんて言ってたもんなあ。

ちなみに「下品のタカダ」って最近も「かつおぶしだよ人生は」なんか作詞した高田ひろおでしょ。

脈絡ないこと書いているけど、この新潮文庫の『ウテナさん祝電です』という本も脈絡ないのよ。

初めて自分の名前で単著を発表した頃のためらう気持ちがよく出てる。

いまの自分の境遇と近くて、「うん。わかる。わかる。」なんて心の中でうなずいている。

首都圏の中流の平凡な家庭に育って、人に語るほどの自分がないから、作家にならず、コラムニストになったという話にも共感する。

こうして小島さんとの出会いで、もう読まねえだろうなあって思ってた本が、立体的に読めるようになったことが、面白い。

80年代のあの、フワフワした時代の空気感まで、伝えていて、意外に楽しめた。

それにしても解説を書いているインチキ臭い外人のバージニア・キャスリン・ローランズって誰だろう。

知りたいなあ。まさか中野翠本人だったりして。

1969年の夏、まだ小学生だったぼくはOくんと一緒にコマ劇場付近の映画館をはしごしたことを思い出したのだ。

七夕から盂蘭盆会のこの季節、精霊が活動して、亡くなった人を偲ぶ季節でもあるから、今年もOくんのことを書きたくなった。

というのも、木曜日に小島さん、大輪さんと一緒にコマ劇場跡地に行ったから。

1969年の夏、まだ小学生だったぼくはOくんと一緒にコマ劇場付近の映画館をはしごしたことを思い出したのだ。

オールスターキャストの「西部開拓史」という映画のリバイバル上映を観ただけでは、物足りず、デビッド・マッカラム主演の「モスキート爆撃隊」という映画を観た。

デビッド・マッカラムはTV番組で人気を博し、「おそれイリアのクリアキン」などと言われ、当時は人気スターだった。

ぼくと同い年のジューシー・フルーツ奥野敦子がイリアと言われるのも、ここから来ている。

小島さん、大輪さんとゴールデン街のバーに行ったとき、古い映画の話になってしまったのも、Oくんの霊に導かれてしまったのかもしれない。

ぼくたち3人の話をOくんが隣で聞いていてくれたら、なんてふと思った。

Oくんはそれくらい、映画が好きな早熟な少年で、ぼくの映画熱は中学に入って、彼と別れたとたん、雲散霧消してしまった。

ぼくがずっと彼に寄り添っていたら、彼も死なずにすんだのかなあって、時々思う。

Oくんのことを一生忘れないように、5年前に書いた「おもかげ」という小説では茂という少年のモデルになってもらった。

イーグルスのバーニー・リードンがドラッグで亡くなったグラム・パーソンズに捧げた「マイ・マン」を、ぼくはOくんに捧げよう。

2012年7月 8日 (日)

日向子さんのあっけらかんとした青空の下の江戸の町ではなく、雨や雪の中、傘を差した女性が歩くようなイメージの小村雪岱の絵は、日向子ワールドとは異質だけど、僕の中の下谷根岸のイメージにはぴったりと当てはまるのだ。

買ったはいいいが、読むのをずっと我慢していた一群の本がある。

なにせ「下手の横好き」なので、気晴らしの読書ってやつが出来ない。

糸の切れた凧みたいに、どこまでも飛んでいって戻ってこられなくなる。

というわけで、『ぼくたちの野田争議』の仕事が終わって、読みたいのを我慢していたのが小村雪岱関係の本たちだ。

「芸術新潮」の説明文を引用すると

数々の書籍をあざやかな意匠で飾った「装幀家」、江戸を描いてモダンな感覚あふれる白黒の線画で人気を博した「挿絵画家」、名だたる役者たちに愛された「舞台美術家」-とまあ、かくも多彩なジャンルにとびきりの才能を発揮し、大正から昭和初期を多忙にして優雅に駆け抜けた男

とある。

杉浦日向子は『大江戸観光』の中で、小村雪岱は「ちがう」と書いたけれど、ぼくにとって最もふるさと根岸を感じさせるアーティストとしての地位は揺るがない。

日向子さんのあっけらかんとした青空の下の江戸の町ではなく、雨や雪の中、傘を差した女性が歩くようなイメージの小村雪岱の絵は、日向子ワールドとは異質だけど、僕の中の下谷根岸のイメージにはぴったりと当てはまるのだ。

なかでも松岡正剛「千夜千冊で紹介された星川清司『小村雪岱』は大好きな本。松岡正剛はこんな風に書いている。

この本はいい。雪岱(せったい)の絵がいいから当たり前にいいというのではない。星川清司の文章もいいし、菊地信義の装幀も本文組もいい。みんないい。人に教えたくないくらいなのである。

わかるなあ。この気持ち。こういう仕事をする平凡社という出版社に心から敬意を捧げる。

さあ、明日から楽しみ、楽しみ。ワクワクだぜ。

時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣ひながら崖道づたひ谷町の横町に行き葱醤油など買うて帰る折など、何とも言へぬ思のすることあり。哀愁の美感に酔ふことあり。かくのごとき心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。

のっけから引用で申し訳ないが、無性にこの文章を入力したくなった。

時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣ひながら崖道づたひ谷町の横町に行き葱醤油など買うて帰る折など、何とも言へぬ思のすることあり。哀愁の美感に酔ふことあり。かくのごとき心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。

フェイスブックで大輪茂男さんの「自分の身の周り、2メートルにあるもの。そして小雨の景色。」という文章を読んで、思い出した。

『断腸亭日乗』昭和16年1月1日の名文。
日常の暮らしの中で、空想力がはたらいて、どんどんイマジネーションが広がる荷風の面目躍如。

この文章の直前に「昨年の秋頃より軍人政府の専横一層甚しく世の中遂に一変せし」とある。

いいなあ。

そんな世の中だからこそ、時流に合わせて、戦争を賛美するような文章をとうとう一行も書かなかった荷風の決意表明がここにある。

「心の自由空想の自由」を守るためには、けちんぼと揶揄されるほどがっちりした金銭哲学もまた必然で。

梅雨空の日曜日、岩波文庫版抄録『断腸亭日乗』を片手に、すごすなんていうのも、おつなもんですぜ。

カオナシのようなお金(資本)は、アノニマスな、取り替え可能な部品のようなサラリーマンではなく、ゼニー婆のような心も顔も名前もある存在、例えばノーベル平和賞をもらったインドの銀行家のような人物のもとで、心ある起業家のもとに貸し出され、初めて社会の中で機能する。

昨日の夜、録画しておいた「千と千尋の神隠し」を、娘と二人で鑑賞した。

この映画は何度見ても、見るたびに発見がある。

例えば、カオナシは、それ自体、顔も名前もお家もお父さんもお母さんもいないお金(資本)のメタファーだと思うけど、カオナシが最後はゼニー婆の所に、とどまるという部分は今回初めて、その意味を考えた。

人間社会は、バブル景気に象徴されるように、このカオナシが跳梁跋扈するお陰で、どれほど多くの災いに巻き込まれたのだろう。

関東大震災や東京大空襲でも生き残った町の記憶遺産になるような建物が、カオナシに食い散らかされる光景を、ぼくたちはいつまで見せつけられるのだろう。

自らは何も価値を生み出さない大手金融機関が、一生懸命勉強した優秀な文化系学生にとって、一番人気のある就職先であること自体が、異常だと思う。

若者よ、もう、そんな価値観から脱却する時が来なきゃ、日本の未来はないぞ!

なんて、天下国家を語るのは苦手なんで、話を戻すと、カオナシのようなお金(資本)は、アノニマスな、取り替え可能な部品のようなサラリーマンではなく、ゼニー婆のような心も顔も名前もある存在、例えばノーベル平和賞をもらったインドの銀行家のような人物のもとで、心ある起業家のもとに貸し出され、初めて社会の中で機能する。

宮崎駿の意図はもしかすると、そんなことだったのかもしれないと、密かに思った。

ぼくたちの社会にたくさんのゼニー婆を作り、国境を越えて瞬時に世界を駆け巡り、あらゆるものを破壊してゆくカオナシをコントロールする。

今はそんな知恵が求められているように思う。

ちょっと堅い話になったから、最後は思い切り柔らかく、小島さんが手がけた「ひらけ!ポンキッキ」の挿入歌を聴きたい。

この歌を初めて聴いたとき、ケント・ギルバートに歌わせたアイデアに舌を巻いた記憶がある。ケントのたどたどしい日本語が、新鮮な味になって、仕上がっている不思議な名曲だと思う。

2012年7月 7日 (土)

ときたまDENやビクトリアに行ったり、大学芋を買いに行ったり、提灯屋さんの建物を写真に撮ったり、ふるさと根岸とはゆるい付き合いをしてきたけど、幕末くらいまで遡って、この町の文化史を調べると、江戸から明治になっても継承され、生き残った「何か」が見つかるんじゃないかと思うようになった。

沖縄学の創始者伊波普猷に「汝の立つ所を深く掘れ、そこに泉あり。」という言葉がある。

赤坂憲雄さんの季刊「東北学」に載っていたので、初めて知った。

杉浦日向子の「どうせ死ぬまで生きるんだ」も好きな言葉だが、これもいい言葉だなあって思って、座右の銘にしている。

最初の本を出版する仕事も一区切りついて、体も少し駄目になって、明日は誕生日で、一昔前の定年年齢に達して、自分に残された時間を真面目に考えた時に、頭に浮かんだのが上記の伊波普猷の言葉だった。

最近岡林信康のバックもつとめる尺八演奏家で根岸生まれ根岸育ちの佐藤錦水さんとフェイスブックで友だちになった。

錦水さんと情報交換していると、物心ついた時に見た町の風景や空気感と、体の中に染み付いてしまった人々の話し声や物売りの音、どこからともなく流れてくる和楽器の音色、そういった根岸的なものによって、自分の奥底に眠っていた記憶を呼び覚まされたような、妙な高揚感がある。

六畳一間の小さな公務員住宅に住んでいたぼくは、胸をはって根岸の住民でございましたなどと、言える立場ではなく、たまたま幼少時の数年そこに滞在した行きずりの存在にすぎない。

弟は中根岸の下谷病院で生まれたけど、2歳で引っ越したので、街の記憶はない。両親は生まれも育ちも純粋な茨城県人。

一つ屋根の下に暮らした家族の中で、ぼくだけ異質な文化的背景を背負ってしまった。

だから長い間、自分自身でもふるさとの町のことなど忘れていた。

東京散歩をするようになって、それでも思い出が壊れるのが恐ろしくて、根岸に行くことは避けていた。

意を決して、2001年に38年ぶりに、根岸を散歩した時、全く道に迷うことなく、歩き通すことが出来て、変わらない街並みに、軽いめまいを覚えたことを思い出す。

(その後、コイズミ改革にともなうミニバブルで、町がかなりやられたことは悔しい)

それから10年余り、ときたまDENやビクトリアに行ったり、大学芋を買いに行ったり、提灯屋さんの建物を写真に撮ったり、ふるさと根岸とはゆるい付き合いをしてきたけど、幕末くらいまで遡って、この町の文化史を調べると、江戸から明治になっても継承され、生き残った「何か」が見つかるんじゃないかと思うようになった。

だからこそ、一葉が、荷風が、露伴や天心の根岸党が、あるいは池波正太郎が、この町を愛して作品に取り入れたのかもしれない。

もう当分は無理が効かない体なので、何が出来るのかわからないけれど、ゆっくりとわがふるさとの町を勉強しようと思っている。

『ぼくたちの野田争議』から連続している関心事である経営者の精神史と、花柳界の文化の関連性なんてのも面白いかもしれないなあ。

ぼくにとって、何かの始まりはいつもこの曲。

「重荷をおろして、自由になれ」と。今はなきレボンやリックが歌う「ザ・ウェイト」

2012年7月 1日 (日)

こうして、中江兆民や桃中軒雲右衛門や宮崎滔天が立体的に見え始めれば、もうこっちのもの。

昨日も書いたように『三絃の誘惑』を、だらだらと読み進めている。
急いで読んでわかったつもりになれるようなレベルの本ではないので、来た道を戻ったり、脇道に迷い込んだりしながら、ゆっくりと読む。
それが楽しい。

この本を読んでいると、まだ二十代の頃、中江兆民の『三酔人経綸問答』を読み、兆民にとりついた「東洋のルソー」というレッテルを確認して、わかったつもりになっていた自分が恥ずかしくなる。
「レッテル貼り」をしてわかったつもりになるくらいなら、中途半端に本など読まず、全く知らない方がマシだとすら思う。

むかし桑原武夫なんていう大変偉い学者がいた。
「ルソー研究」で有名な、戦後日本の日本を代表する知識人と言っても過言ではない大先生だ。
二十代のぼくは、こういう偉い学者は間違ったことなど書くわけがないと、本に書いてあるすべての記述を信用しきっていた。
ところが、この本では桑原武夫が、中江兆民の文楽好きについてキチンとした説明ができない人物として紹介されている。
小島豊美さんに教えてもらって、つい最近その名を知った桃中軒雲右衛門が登場する。
著者が『三酔人経綸問答』の豪傑くんのモデルだという宮崎滔天が浪曲師として、桃中軒雲右衛門に弟子入りし、桃中軒 牛右衛門という名前までもらっていたという。
辛亥革命に関わった風雲児宮崎滔天が浪曲師だったとは知らなかったが、正岡容『日本浪曲史』を確認したら、詳述されていた。
こうして、中江兆民や桃中軒雲右衛門や宮崎滔天が立体的に見え始めれば、もうこっちのもの。
青年時代に「桑原武夫的なエラい人」の本を読んで、レッテルを貼って、わかったつもりになり、本棚の奥に仕舞っておいた多くの本が、読まれるのを待っているのかもしれない。
いまぼくの机の上には中江兆民の『一年有半』が載っている。

もちろん『三絃の誘惑』だって、完璧なはずはなく、あら探しも読書の楽しみの一つだけどね。



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