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2012年6月

2012年6月30日 (土)

この『三絃の誘惑』を読んでいると、自分がすこしかじった近代の精神史と小島さんや佐藤さんの音曲の世界が地下水脈のように、深いところでつながっていることがわかる。

まだ読みかけだけど樋口覚『三絃の誘惑』人文書院を、ゆっくりと読み始めている。

松岡正剛の「千夜千冊」で見て、気になって購入したのだが、多分読み始めたら

ハマり込んで、抜けるのに時間がかかりそうな本だから、諸事情を考慮して後回しにしていた。

最近、日本の音曲に詳しい小島豊美さんや佐藤錦水さんを知るにつけ、さあ読むかという

気になった。

松岡正剛の千夜千冊「三絃の誘惑」

これは久々の名著だなあ。

どれくらい久々かというと長谷川堯『都市廻廊』中公文庫以来だから、多分10数年ぶり。

知的興奮で、頭をグラグラ揺さぶられる感じ。

逆立ちしてもこんな本は書けるはずもなく、脱帽モノの名著なのだ。

『都市廻廊』が建築を中心にすえて、文学史、社会思想史、都市史、美術史といった分野にどんどん越境してゆくタイプの本だったのに対して、この本は広がりを持ちながらも文芸批評の枠内にとどまりながら、細かく個々の文学者たちの心のヒダまで入り込んでゆく。

松岡正剛はこのように書く。

明治の連中は、自身の存在と仕事の総体にぎりぎりの荷重をかけておいて、その荷重に劣らぬ音曲感覚をもって義太夫や常磐津に聴き惚れていた。それがけっこう壮絶なのだ。

ぼくもわずかながら、樋口一葉が娘義太夫の大ファンで、『たけくらべ』もミュージカルのような小説だという程度の低いレベルの認識はあった。

けれど、この『三絃の誘惑』を読んでいると、自分がすこしかじった近代の精神史と小島さんや佐藤さんの音曲の世界が地下水脈のように、深いところでつながっていることがわかる。

そして、その同じ場所に、驚いたことに岡倉天心や中江兆民が立っていることもわかる。

こうして視野が広がってゆく。

親バカならぬ、飼い主バカだけど、僕は本気で、世界一かわいい犬だと、密かに思っていた。

愛犬ハニーはもうすぐ火葬場に向かう。

その前に、ハニーが一番きれいだった頃の写真を公開したくなった。

他人のペット自慢などバカバカしいから誰も読まないだろうと思って、ハニーの美しい時代のことなど、ブログに書かかないできた。

せめて、荼毘に付される今日ぐらい、自慢しても許されると思う。

Photo

5歳の頃のハニーの写真。

親バカならぬ、飼い主バカだけど、僕は本気で、世界一かわいい犬だと、密かに思っていた。

少なくとも「わんわん物語」のレディーちゃんくらいかわいい犬なんじゃないかと思っていた。

ひとから「かわいい」と言われると、「もっと言って」とばかりに、小首を傾げる仕草を

見て誰もが微笑ましく思ってくれた。

周囲の人みんなに愛された犬だった。

一時期は声帯を失ったのではないかといぶかるほどに、無駄吠えしない賢い犬でもあった。

たまたま、交通事故で後ろ足を骨折してから、動きが悪くなり、心臓に負担がかからなくなったのが、長生きの一因だったように思う。

本当に幸せな犬だった。

そして、長いこと僕たちの心を癒してくれたことに、お礼を言いたい。

僕は、きっと死ぬまで君のことを忘れないよ。

最後に、ハニーにふさわしい曲で、送り出してあげたくなった。

ハニーはこれから先立った娘のミルクと一緒にお墓に入る。

ミルクの名前はジョンのアルバム「ミルク・アンド・ハニー」に因んで名付けた。

だから「ミルク・アンド・ハニー」に入っていた「グロウ・オールド・ウィズ・ミー」のアウトテイクを

捧げよう。

アルバム収録バージョンよりもアクースティックで、いい感じだ。

あっちに行ってジョンに会えたらしっぽ振るんだよ。

そうだ!タマ姫と一緒に那須にお墓を作って埋めてあげよう。一緒に茶臼岳に登ったことも楽しい思い出だからね。

16年と7ヶ月ずいぶん長い付き合いだった愛犬ハニーがさっき亡くなった。
生後2ヶ月で家に来て、それからずっと。
寝たきりになって約半年間。
家族の介護疲れもピークになっていたので、大往生に悔いはないけれど、
自分が家庭を持ってから経過した時間の三分の二程度を一緒に過ごしたのだから、
思い出は数えきれないほどある。
この犬が来てから、我が家はキャンプ以外に家族旅行しない家族になった。
そういえば、死にかけていた野良猫を拾ってきて、家族の一員に加えたたのも、この犬のしわざだった。

Dsc001572

たかが犬だけど、現在の我が家のライフスタイルを決定する上で、大きな役割を果たしてきたなあって、今更ながら思う。
7年前に愛猫のタマ姫が交通事故で死んだ時、ぼくはペットロス症候群になって、新しい猫が来ても、気が紛れず、しばらくは頭が変になったが、今回は大丈夫、爽やかな満足感が残る。
そうだ!タマ姫と一緒に那須にお墓を作って埋めてあげよう。一緒に茶臼岳に登ったことも楽しい思い出だからね。



ぼくの世代は物心ついた時がピーナッツのデビュー時で、大人になるまでずっと彼女たちの黄金時代だった。

今週、ザ・ピーナッツの伊藤エミさんが亡くなった。

ピーナッツは1975年に引退しているので、40代以上の人しかリアルタイムで見ていない。

彼女たちがテレビで活躍している時は、大して有難いとも思わず、当たり前のように聞いていた曲を、今聴き返すと不世出の天才デュオだったんだなあと痛感する。

半年前に岩谷時子の歌詞とピーナッツについて、書いたばかりだったのに、この悲報だ。

昭和に育ってよかったね。

ぼくの世代は物心ついた時がピーナッツのデビュー時で、大人になるまでずっと彼女たちの黄金時代だった。

だから、ナベプロの歌手の中でも、特別に思い入れが深い。

ぼくと同い年のジューシーフルーツのイリヤこと奥野敦子も同じ思いだったに違いない。

たまたま見たテレビで、ソロになった彼女が「ふりむかないで」を歌っているのを見て、喝采した記憶がある。

ユーチューブでそんな奥野敦子バージョンの「ふりむかないで」を見つけた。

切なくて、胸が震えた。

2012年6月29日 (金)

不勉強なので、虚無僧と尺八の深い関係について、何も知らないが、維新の際の過ちを二度と繰り返してはいけないと思う。

いわゆる「明治維新」と呼ばれる歴史的な事件があった。

ぼくは荷風さんに倣って「幕府の瓦解」って呼んでいる。

友達の尺八奏者佐藤錦水さんの投稿によると、大阪「維新の会」を率いる橋下某が文楽協会への補助金を打ち切ろうとしているらしい。

ぼくは「維新」という言葉に本能的な嫌悪感を覚える。

「明治維新」で、近代化して、よくなったことも多々あったろう。

けれど、少なくとも旧来の江戸期以来の日本文化の多くが根絶やしにされたことも事実なのだ。

そんな維新の文化破壊に対する最大の批判者の一人が永井荷風だから、ぼくは荷風を尊敬している。

浮世絵の展覧会を見にゆくたびに、海外の美術館から貸与されたものであることに、気付かされ、明治新政府の文化破壊の激しさに恐れおののく。

樋口覚『三絃の誘惑』人文書院を読むと、明治維新とともに「検校、虚無僧らの特権廃止」という記述がある。

家の近所の小金宿には一月寺というお寺がある。

いまでは日蓮宗の普通の寺だが、江戸期までは普化宗の寺で、ここが全国の虚無僧の総本山だった。

普化宗は危険思想だとされて、明治維新で潰されたのだ。

わずかな救いは、その遺産の一部を馬橋の萬満寺で見られるということ。

尺八のことを考えると、ぼくは必ずこの寺の運命を思う。

不勉強なので、虚無僧と尺八の深い関係について、何も知らないが、維新の際の過ちを二度と繰り返してはいけないと思う。

文楽協会の存続を切に願う。

夜も更けて、荷風の『江戸芸術論』など、読んでみたくなる。

豊かな日本人の感性を取り戻すために。

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2012年6月25日 (月)

たった40年前、ヒデとロザンナのような20代の歌手が、こんな大人っぽい歌詞を歌っていた時代があったことが、いまはもう信じられない気がする。

TSUTAYAの会員カードが更新になるので、由紀さおりの「1969」というアルバムを借りてきた。由紀さおりはもちろんとってもいいんだけど、ヒデとロザンナの曲が入っていて、ふとヒデとロザンナを思い出してしまった。
ヒデの死去と同時に活動停止してしまったから、今はもう忘れてる人も多いけど、ぼくは好きだったなあ。
あまりテレビにも出なくなって、レコード会社もワーナーに移籍してから出した「ロンリー・ウーマン」って地味な曲が好きなんだけど、ユーチューブでは見つからない。オイラのシングルレコードコレクションは、全部母親に捨てられてしまったらしく、どこにも見当たらない。
残念だけど、この曲も好きだったから、貼っちゃう。

子供心に「粋(いき)」って言葉を初めて意識したのは、この曲のタイトルを知った時だと思う。
今は子どもでも、将来は粋な大人にならなきゃいけなんだよなあ、なんて気を引き締めた。
たった40年前、ヒデとロザンナのような20代の歌手が、こんな大人っぽい歌詞を歌っていた時代があったことが、いまはもう信じられない気がする。
話を強引に由紀さおりに戻す。
佐藤利明という「オトナの歌謡曲/娯楽映画評論家」という肩書きの男が解説を書いている。
由紀さおりとPinkMartiniを共演させた仕掛け人だという。

肩書きが気になるので、佐藤利明のしごとをWikipediaで調べたら、学生時代オイラがやりたかったような仕事は、5歳も若い佐藤利明にすべてやられちまっていた。

その仕事ぶりには、どことなく小林信彦~大瀧詠一臭が漂う。

素直に敬服するけど、やっぱりちょっと悔しい。

R大の歌謡曲研究会創設者として、そろそろ気合を入れなおす時かもね。

2012年6月24日 (日)

もちろん気前がいい人だとは思わないけれど、ぼくから見るとごく普通の人の金銭感覚だと思う。

最近、永井荷風のことを思う。
別に荷風じゃなくてもいいのかもしれないが、文学者一般のこと、そんなに詳しい訳じゃないので、とりあえず荷風について考えてみる。
例えば、荷風はケチンボだという話がある。
ケチンボな大作家というレッテルが貼り付いている。

どこに書いてあったか忘れたが、荷風は、ある作家が女性を大勢連れて劇場にやってきて、
芝居を見ながらこれみよがしに、そこで原稿を書いて、この原稿が札束になるんだといった風情で、騒いでいる様子を、痛烈に批判している。
荷風は自分のしっかりした経済的基盤が後ろ盾となって、時流におもねることなく執筆活動に励むことができるのだという認識を強く持っていたと思う。
筆一本で食べてゆくというと一見カッコイイが、時代の潮目が変われば、時流におもねって、文章をかかなければならないという事実を、ぼくたちは3.11以降、深く心に刻んだ。

ましてや大逆事件に激しいショックを覚えた荷風である。

作家、しかも財産家の永井荷風といえば、上記の作家のように派手に金をつかうのが常識だと思っている出版人やメディアの人たちから見れば、ケチンボに見えたのも仕方ない。
そして、インターネットのない昭和30年台以前、荷風に接した普通の人たちは情報を発信するすべもなく、情報といえば出版人やメディア関係者から出たものだけが世の中に伝搬してゆく。

正直言って荷風の情報をいくら集めても、普通の人であるぼくはケチンボという認識にならないのだ。
ケチンボは、わざわざ自宅の近所にある山形ホテルに行って飯を食ったりしないだろう。
銀座まで舶来の食料品を買い求めにいったりしないだろう。
戦後は映画だって、見に行っているし、浅草で遊ぶのだって、かなりお金を使っているはず。

本を買ったり、取材するにはかなりお金がかかるのだ。

もちろん気前がいい人だとは思わないけれど、ぼくから見るとごく普通の人の金銭感覚だと思う。

いままで荷風について書かれた、メディアによって歪められた荷風像を取り去って、等身大の荷風と、特に筆力が落ちたと酷評される戦後の荷風と、静かに向きあってみたいと考えている。

荷風というと江戸趣味と同時に、モネとドビュッシーのイメージなので、「夢」などをひとつ。

2012年6月19日 (火)

エライ人から怒られたり、人様から後ろゆび指されたりするほうが、慣れているので、どうもいまの状態は決まり悪くていけないよ。

「志は高く、テンションは低く」をモットーにしているんだけど、さすがに20年ぶりに新聞に載るので、眠れない。

朝4時に起きてしまった。

仕方ないので、ブログを書こう。

しかも20年前はラッキーパンチが炸裂したようなもんで、オイラは建築家の小須田先生の考えたシナリオに乗っかって、バタバタやっていただけで、あとは口から出任せにしゃべったことを記者さんは書いてくれたけど、べつに大した苦労だったわけじゃない。

今回はゼロからスタートして、なんとか一つの作品に仕上げたので、感慨深い。

そして、なんと、お世話してくれた皆さんが出版記念パーティまでやって下さるという。

謝恩パーティの間違いじゃないかと思うんだけど。

子ども時代からずっと、劣等生で日頃の心がけが悪いので、いままで、人様から褒められたり、お祝いしてもらったりしたことがないので、いい年をして、当惑気味である。

そういえば二年前に生まれて初めて賞状をもらった時、受け取り方がわかんなくて、困ったもんなあ。

エライ人から怒られたり、人様から後ろゆび指されたりするほうが、慣れているので、どうもいまの状態は決まり悪くていけないよ。

まあ、それはさておき、逆流亭って名前も、4,5年くらいたって、だんだん飽きてきたので、

あたらしい名前に変えようかと思う。

写楽斎はまだ一年くらいだから、よしとしよう。

そうなるとやっぱし、鶯亭写楽斎でしょうかね。

明治から昭和にかけて、鶯の鳴くふるさと根岸に住んだ文人鶯亭金升(おうていきんしょう)に長い間憧れている。

『明治のおもかげ』なんか、読み直してみる。

落語や都々逸、狂句・狂歌・戯文、茶番や小唄、民謡などの作者で、言語遊戯の愛好者でジャーナリストの鶯亭金升は、他人とは思えないのだ。

ちょっと控えめに、下も変えて、鶯亭小金ってのもいいかなあ。

でもオウテイコキンなんて、落語家みたいな名前、誰も読んでくれないかもね。

2012年6月17日 (日)

昨日は娘といっしょに足でリズムを取りながら家の中を行進した。リンドグレーンの童話の世界に入った気分だった。ぼくはこんなたわいない遊びをしている瞬間がたまらなく好きなのだ。けれども、そうやって遊んでくれるのもあと一年くらいだろう。大人になるにつれ、娘も大人の常識ってやつに染まってゆくのだから。

今日初めてお目にかかった菊谷倫彦さんが自分の雑誌「KOTOTOI」に「詩を失った時代に」という巻頭文を書いている。

その文章の最後にこんな一節がある。

文学の話題から一見離れて、ローカルに生きること、小さく生きること、低く生きること。これが私たちの課題だ。それはつまり、日常に詩を取り戻すということを意味するのである。

「日常に詩を取り戻すということ」って、W・モリスの言う「生活の芸術化」に近いのかも知れない。

むかしむかしは誰もが芸術家であり、詩人だった。

すこし歴史をひもとくと、おそらく江戸期までは、かろうじてそんな気風が残っていたように思う。

ところが、文学や音楽や美術といった言葉が生まれた瞬間(あるいはジャンルを作ったとたん)に、多くのものが失われてしまったような気がする。

その失われたものがいちばん大切なものなんじゃないかって思う。

そしてジャンルを作ったとたんに、文学も音楽も美術も、庶民には縁遠いものになってしまう。

あああ。文章が重いなあ。ぼくには消化しきれていないテーマだから文章が重くなる。

けれども20年以上、こんなことを考え続けていて、答えがみつからない。

例えば、子どもは無邪気に(音楽以前の)音を楽しみ、(文学以前の)言葉遊びに入っていけるのに、どうして大人は構えてしまうんだろう。

昨日は娘といっしょに足でリズムを取りながら家の中を行進した。リンドグレーンの童話の世界に入った気分だった。ぼくはこんなたわいない遊びをしている瞬間がたまらなく好きなのだ。けれども、そうやって遊んでくれるのもあと一年くらいだろう。大人になるにつれ、娘も大人の常識ってやつに染まってゆくのだから。

大人になると、猫も杓子も、宴会の二次会というとカラオケに行く。

ぼくはカラオケなんて、大嫌い。

昔の宴会のように手拍子でリズムをとって、無伴奏で唄を歌うなら、大歓迎。

でも、近頃そんな風景は見なくなった。

そういえば流山博物館友の会では、イベントの時はみんなで合唱する。

これが大変貴重な習慣だと思えてきた。

もしかすると、やりたくても今までできなかったことが、可能になるかもしれない。

先日、小島豊美さんと、SP盤コレクターの第一人者岡田則夫さんと話をしていると、坪井正五郎や正岡容や花園歌子の話になった。ふうむ。花園歌子って、どこかで聞いたことがあるなあなんて、ぼけたことを考えていたのだが、『ぼくたちの野田争議』を書く時に何度も紐解いた『敗者の精神史』第10章大正日本の「嘆きの天使」で大きく取り上げられてる人だった。

吉野作造について調べるために読み始めた部分だったけど、実は花園歌子がメインだった。

小島さんや岡田さんと話をしていてピンとこない自分も情けないが、いままで縁遠い人だと思っていた花園歌子が、急に身近に感じられて、とても面白い。

そしてこの章では、花園歌子をプロデュースして、世に送り出した黒瀬春吉という怪人も紹介されている。

山口昌男には他に『挫折の昭和史』『内田魯庵山脈』という2冊があって、「日本近代史の見えない部分を描く三部作だという。

なかでも『内田魯庵山脈』は学校のようなタテ型でない趣味や遊びに根ざした市井の自由なネットワークを描いた快著なのだが、小島さんや岡田さんの世界は、そのまんま『内田魯庵山脈』の世界に直結しているように思える。

長い間、『内田魯庵山脈』の世界に憧れていた。

例えば「野のアカデミー」というタイトルのついた集古会の様子を知れば知るほど、グイグイ惹かれていった。

この本の副題の「<失われた日本人>発掘」というテーマは、『ぼくたちの野田争議』にも通底するテーマなのだ。

もしかすると、やりたくても今までできなかったことが、可能になるかもしれない。

なんだか、ワクワクしてきた。

2012年6月16日 (土)

高級な会場に、エライ人たちが集う、「なんとかフォーラム」とか「なんとか塾」ではなく、庶民の町で、例えば蕎麦屋の二階で、どんな風に江戸や明治を残響させることが出来るのだろう。

小島豊美さんの紹介で、日本文化の真髄を理解しているような人たちと交流していると、複雑な思いが脳裏をよぎる。

ふだんのサラリーマン生活では、絶対に出会わないような人たちである。

そう思うと、去年から今年にかけて出会った人で、印象に残るのは日本にこだわっている人物が多い。

3.11以降、こちらの問題意識が変化しているせいもあるのかもしれない。

外国人の知り合いも急増している気がする。

松岡正剛がアメリカ生まれのジャーナリスト、写真家のエバレット・ブラウンと対談した『日本力』という本で、こんな風に書いている。

多くの日本人は好きな日本を“知っている”のだとしても、なかなか“思い出す”ことができなくなっている。年齢の問題ではない。歴史の勉強が足りないせいでもない。日本人から「日本を感じるための知のフェロモン」のようなものが希薄になり、衰微しているのだ。

(中略)

それでも昭和に入って、そういう欧米文化と旧来の日本文化との好ましい融合が新たに進み始めていた。これはすばらしいものだった。泉鏡花、萩原朔太郎、宮沢賢治、小川未明、西田幾多郎、鈴木大拙、宮城道雄、九鬼周造、柳宗悦らは、みんなそういう「東と西の融合」に取り組んでいた。ところがそこから急転直下、軍部が台頭し、満洲に大日本帝国の夢を託すようになっていくにつれ、日本は好ましからざる戦争に突入していった。

ここで何本もの大きな綱と細かに張られた網がぶすぶすと解れていったのである。数寄者は途絶え、文楽グループは分断され、なにより江戸文化が軟弱なものと断罪された。いわば「遊び」の文化が地下にもぐってしまったのだ。

そしてこのように書く。

伝統は保存されるべき文化財のほうに追いやられ、知覚身体からほとばしるような伝統的前衛力と前衛的伝統力の両方が薄れていってしまったのだ。

本書で「日本力」と呼ばれているのは、この伝統的前衛力と前衛的伝統力をつなげている知覚身体に宿すべき力のことをいう。

しかしところが、いったん廃れたかに見えた日本力は、どっこい、いろいろなところに残っていた。方言にも、アスリートにも、職人の手技にも、食の文化にも、各地の祭にも、芸能界にも、お酒の味にも……。日本にはまだ江戸も明治も残響していたのだ。

ああ、ずいぶん気合入れて長い引用をしてしまった。

エバレット・ブラウンや松岡正剛や田中優子のようなインテリの眼には、江戸も明治も残響しているかもしれないが、ぼくたち一般人の眼には、どんどん見えづらくなっていることも事実だと思う。

そんな一般人のぼくでも、先月、田中優子の『江戸を歩く』に惹かれて、関口芭蕉庵を歩いた時、東京の都心に残っている江戸を強く感じた。

高級な会場に、エライ人たちが集う、「なんとかフォーラム」とか「なんとか塾」ではなく、庶民の町で、例えば蕎麦屋の二階で、どんな風に江戸や明治を残響させることが出来るのだろう。

いろいろ知恵を出していかなくちゃね。

こんなエントリを書いているうちに寝そびれてしまった。

3週間ぶりにビールなんぞ飲んじゃおう。

禁酒しているわけではない。

酒をやめただけだから、今日は飲もうって決めたら飲んじゃう。

BGMはトム・ウェイツ。西海岸の河島英五みたいなおじさん。

高校生の頃、シラフでこんな曲を聞いてた。

オイラはひねくれたガキだった。

「いい国」か「侵略国家」だったのかなんていうガサツな議論をするのではなく、ひとつひとつ事実に向きあって、レッテルを剥がす知的作業を続けていきたいと考えている。

昨日朝日新聞の記者さんと話をしていて、少しづつわかってきたことがある。

ぼくが心底嫌いなのは「レッテル貼り」だっていうこと。

ある人物だったり、ある集団だったり、ある出来事だったり、ヒトはある対象にレッテルを貼って、わかったつもりになってしまう。

そして、そのレッテルが自分に敵対するものなら、相手に対してどんな残酷な扱いをしても許されると思ってしまう。

コイズミ改革時代のワンフレーズ・ポリティクスあたりから、子どもの世界の「エンガチョ」レベルの幼稚な判断が社会に蔓延しつつある。

以前引用したマルティン・ニーメラーの詩がぼくの心に重くのしかかっている。

『 彼らが最初共産主義者を攻撃したとき 』

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)
私は共産主義者ではなかったから。

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。

彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
私はユダヤ人などではなかったから。

そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。

記者さんと別れてから、今度出版した『ぼくたちの野田争議』について、書いた動機ってなんだろうって、もう一度考えてみた。

もちろん周囲から勧められたのが直接の理由だが、「野田争議」という対象をどのように書くのかは、ぼくが責任を持って決めた。

いくら周囲が勧めても、書く動機がなければ週末文筆家のぼくは書くことが出来ない。

きっと、一番深い動機は、「労働争議」「鈴木文治」「松岡駒吉」「官僚」「協調会」「総同盟」「矢次一夫」「社会主義」「暴力団」「右翼」「警察」といったキーワードに貼り付いてしまったレッテルを剥がして、事実に基づいて検証したかったということ。

これらのキーワードにいままで貼り付いたレッテルが、どうも間違いなんじゃないかって、思えるようになったから。

ぼくはそんな風に事実に向き合う知的姿勢を学生時代に野田一夫に教わった。

戦前の日本が「いい国」か「侵略国家」だったのか、なんていう二者択一の議論がある。

どうして、そんな単細胞な議論になっちまうんだ。

ぼくは戦前の日本は今よりずっと「いい国」だったと思うけど、帝国主義の「侵略国家」だったと思う。

何度も書くが、「国家」と「国」は違う。

ファシズム「国家」は侵略戦争をやって数えきれないほど多くの中国人を殺したのは事実。

実際に体験した多くの人の証言を聞いた。

それでも、いまよりずっとピュアな日本の「国」は美しい。

谷崎潤一郎も永井荷風も柳宗悦もいた。岩手の片隅には宮沢賢治だっていた。

当時の文物に触れると、いつでも心が喜ぶ。

「いい国」か「侵略国家」だったのかなんていうガサツな議論をするのではなく、ひとつひとつ事実に向きあって、レッテルを剥がす知的作業を、これからも続けていきたいと考えている。

『荷風と東京』は、こんな風に川本三郎さんが自分の足で歩いて発見したワクワク感が満載されているから、名著になった。手を抜けば、あっという間に紋切り型で、平板になりがちな紀行文だけれど、紙上に幻景の町を再現してゆく技は、川本さんならではだと思う。

先日東京スカイツリーに行ったので、ライフスタイル研究家三浦展『スカイツリー東京散歩』を購入して、真剣に読んでみた。

こいつは散歩本というよりは、スカイツリーにつられて、うっかり隅田川を越えてしまった吉祥寺あたりの住人に、上野や浅草じゃないディープな下町を教えるための学術書だということがわかった。

初めて知ったことも書いてあって、学術書としては悪くないけど、下町への思い入れは全くなし。

三浦氏が自分の思い入れの深い、中央線沿線の好きな町とはちがう純粋な研究対象として、下町の住人たちの暮らしを見ている。

そこが同じように山の手から下町にやってくる川本三郎との大きな違い。

川本さんには町への愛情や敬意を感じる。

学者と作家の文章のスタイルの違いだから、仕方ないのかもしれないが、三浦氏の書き方に対して、好感はもてないなあ。

それに、もしかすると全部自分で書いていないかもしれない。

学生かアシスタントに取材させて書かせているかのように思える稚拙な文章も散見される。

比べては失礼かもしれないが「散歩の達人」や「meets regional」のライターの文章のほうが、ずっといいと思う。

紀行文や散歩本が好きだし、自分も書くことがあるから、ぼくが散歩本に求める水準は高いのだ。

荷風研究者の最高峰のひとり持田叙子が書いている川本三郎『荷風と東京』岩波現代文庫の解説文がすさまじくいいので、紹介したい。

上巻140ページあたりに関する解説である。

つまり荷風の一時期愛用した<山形ホテル>をめぐってまず、絵・同時代人の証言・現在のルポルタージュ・「日乗」記述という四種の異素材が重ねられ。谷と窪地多いほぼ八十年前の偏奇館近隣の地理の陰翳をポリフォニックに照射すると同時に、それら消え去り再開発のマンション林立する現在をも指顧する。現在と過去の時間の層さえ孕むのだ。うーむこれを名づけてミルフィーユ・スタイルとも言うべきか

(中略)熟練のパティシエが息を詰めて繊細なミルフィーユの層を作るような、資料収集とそれらを配置する知の力と技量、町歩きの実見がたえず緻密に働いているのだ。

『荷風と東京』は、こんな風に川本三郎さんが自分の足で歩いて発見したワクワク感が満載されているから、名著になった。手を抜けば、あっという間に紋切り型で、平板になりがちな紀行文だけれど、紙上に幻景の町を再現してゆく技は、川本さんならではだと思う。

そんな川本さんの仕事に憧れるのではなく、物書きとしては、少しでも近づきたいと思うのである。

なぜか理由はわからないけど、ずっと前から隅田川沿いの向島あたりの古い町を歩くときにヘッドフォンで聴いてみたいジャズアルバムだと思う、ジャッキー・マクリーンの「スウィング・スワング・スウィンギン」から、一曲目のWhat's Newです。

2012年6月13日 (水)

明日辺りから元気が回復しそうな予感はあるけど、とりあえず今夜はなんとなく、「氷雨月のスケッチ」な気分。

しとしと雨が降り続いて、梅雨寒の夜。しばらくぶりで裏起毛のトレーナーなんぞを着てしまた。

まるで晩秋みたい。

こんな寒い夜はジェイムス・テイラーが聴きたくなる。

この前、フェイスブックで佐藤錦水さんがアップしたパット・メセニーを聴いていたら、パット・メセニーがプロデュースしたマイケル・ブレッカー晩年の「ニアネス・オブ・ユー」というバラードアルバムを思い出してしまった。
プロデュースとギターはパット・メセニー、ピアノはハービー・ハンコック、ベースはチャーリー・ヘイデン、ドラムスはジャック・ディジョネットという豪華メンバーが抑制された演奏を聴かせてくれる名盤なのだが、二曲のみジェイムス・テイラーがボーカルで参加しているのだ。

名曲DON'T LET ME BE LONELY TONIGHTと、タイトル曲の「ニアネス・オブ・ユー」 


この二、三週間ばかり、全力疾走してきて、少しばかり疲れたよ。
とうとう日曜日の夕方、心身共に力尽きた。

今日は長い文章も手紙も書く気力なし。

明日辺りから元気が回復しそうな予感はあるけど、とりあえず今夜はなんとなく、「氷雨月のスケッチ」な気分。  

物憂げな鈴木茂のボーカルがいい味出している。

お天気だからいいってもんじゃない。

雨に煙る町だって素敵なんだぜ。

2012年6月11日 (月)

最新の空間であるスカイツリーに登って、ぼくは関東大震災でも東京大空襲でも消えることのなかった、江戸という町の骨格を意識してしまった。

小津安二郎監督の名画「東京物語」に原節子扮するヒロインが義父と義母を観光バスで東京見物させるシーンがある。

本日は私も原節子状態で、妻の両親を連れて、皇居前広場とスカイツリーに行ってきました。

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お堀と水と空が絵はがきのように美しい。手前の石橋は明治時代に出来たから仕方ないけど、奥の二重橋が木製だったらよかったのだが、昭和39年に鉄橋に掛け替えられて、同時に二重から一重に変わったということらしい。

東京中で、昭和30年代後半に、かろうじて残っていた江戸以来の風景がずいぶん消えてしまったけれど、江戸城の中でもそんなことがあったとは知らなかった。

江戸城からさらに西側には高層ビル群ばかり建ち並ぶ、見にくい風景が広がっているので、撮影したけどアップせず、東京の東側の写真をアップしたい。

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スカイツリーの天空回廊から筑波山が見えた。

この高さは未体験ゾーンで、飛行機に乗っている気分。

ちょうどこのアングルって、ぼくの好きな司馬江漢の「三囲の景」に近い。

そして、西側に立ち並ぶ資本とバブルの象徴、みにくい高層ビル群は、東側のアングルには入ってこないのもうれしい。

高層ビルは下から見上げると、それなりに美しいと思うのに、空から見下げると、みにくいなあと思った。

視点が変わると、こうも変わるのが面白い。

展望デッキにあった鍬形蕙斎の「江戸一目図屏風」や、展覧会で見た歌川国芳の「東都三ツ股の図」の絵からくるイメージなのだろうか。

それともかろうじて江戸期の水路の面影を残す墨田区の町並みを見たからだろうか。

最新の空間であるスカイツリーに登って、ぼくは関東大震災でも東京大空襲でも消えることのなかった、江戸という町の骨格を意識してしまった。

それはきっとこんな理由。

下町には工場以外に、大きな資本が入ってこなかったから、庶民がなんとか踏ん張ってきたから、町が息をしているのだろう。

江戸の意識は薄れつつもなんとか頑張っている。

おしゃれだけど、顔のない資本が跋扈する、人が生息していない町はやがて飽きられる。

時代は徐々に東京の東へ、東へと向かっている。

そんな気がする。

2012年6月 9日 (土)

寄席や芸人に加えて、川柳の楽しさまで教えてくれる、正岡容の『東京恋慕帖』は、これからぼくの愛読書になってゆくに違いない。

かつて市川には正岡容という人が住んでいた。

昭和33年12月7日に信濃町の慶応病院で亡くなった。

どうしてそんなに詳しく知っているかというと、杉浦日向子『大江戸観光』の中に「正岡容に「江戸」を見る」という一文があるからなのだが、日向子さんとたった一週間だけ、同時代を生きた正岡容が最近気になり始めた。

もともと興味はあったので、木村荘八の装画も美しい『東京恋慕帖』ちくま学芸文庫は買っておいたのだけれど、荷風全集もまだ完全読破していないのに、正岡容まで手が回らなくて、積ん読状態だった。

小島豊美さんの父上の小島貞二さんが師事したのが正岡容だった。

小島さんにいただいた「小島貞二の世界」を読むと、容は戦後、川柳作家で医師の吉田機司の紹介で市川に転居したというが、この吉田機司という人も面白い。

昭和21年、徳川夢声、古川緑波、正岡容とともに「川柳祭」を創刊し、容の紹介で荷風のかかり付けの医者となって、検察医として荷風の検死にも立ち会った。

昭和35年に葛飾区に転居したというから、容と荷風の死がきっかけだったのだろうか。

容の『東京恋慕帖』はこんな文章で締めくくられている。

これがかっこいい。

思わず、喝采を送りたくなる。

この『東京恋慕帖』全巻をつうじて、兎角私は過去許りを談つた。それは徒に感傷的な懐古癖からではゆめゆめない。私は、ふらんす文化と同じやうに、既往の江戸文化及びその水尾を曳いてゐる明治大正の市井文化の方が、御一新以来のかの薩長閥文化よりも科学的に余程高度だと確信してゐるからである。

江戸文化だけでなく、明治大正の市井文化って書いてるところにしびれる。

よく中野翠が書いている幻の町ってのもこの市井文化に近いイメージかもしれない。

江戸は遠いけれど、明治大正の市井文化なら、まだなんとかなる。

寄席や芸人に加えて、川柳の楽しさまで教えてくれる、この『東京恋慕帖』は、これからぼくの愛読書になってゆくに違いない。

4年前に自費出版した「路地裏のユートピア」や、「流星」に寄稿した「鶯」などの随筆を書いて、根岸への郷土愛には決着をつけたつもりだったから、それから根岸について何か書くことはなかったけど、佐藤錦水さんやそら塾にいた大平夏澄さんといった、自分より若いアーチストたちとフェイスブックで交流しているうちに、ムズムズしてきた。

金曜日の夕方、一週間の疲れが出て、猛烈に眠い。

帰りに都内をふらつくのはあきらめて、葛飾中央図書館だけ立ち寄る。

出口智之という若い学者さんが書いた『幸田露伴と根岸党の文人たち』教育評論社を借りる。

根岸党のことは山口昌男が『敗者の精神史』で書いているけれど、まとまった本は塩谷賛『露伴と遊び』くらいで、心細い状況だったから、こういった本が出版されるのはうれしい。

一般的に学者さんは自分の専門外のことは書かないから仕方ないけど、ぼくが幼少時を過ごした台東区根岸という町は根岸党や正岡子規の根岸短歌会といった文学のことだけで語りつくされるようなもんじゃなくて、もっとスケールの大きな歴史を持っている。

坂崎重盛『超隠居術』ハルキ文庫は、根岸特集の趣があって、例えば根岸生まれの画家、小説家、漫画家、随筆家である水島爾保布(みずしまにほふ)のことが書いてある。

そこからさらに陣内秀信初期の『東京の町を読む-下谷・根岸の歴史的生活環境』相模書房が紹介されて、次の小村雪岱につながってゆく。

泉鏡花の挿絵で知られる小村雪岱も根岸の生まれなのである。

根岸は江戸期の酒井抱一がいた当時から続く芸術家村で、その流れの中に森鴎外も関係した根岸党がいる。

そう言えば岡倉天心も一時期根岸党の連中と盛んにつきあっていたという。

日本の洋画の草分けで、千葉県を代表する画家浅井忠も、根岸に住んでいた。

創作だけど池波正太郎の『剣客商売』のヒロイン佐々木三冬も根岸に住んでいた。

根岸を舞台にした明治期の小説は、山ほどあるしなあ。

根岸の自慢話を書き始めるとキリがないので、ここいらでやめるけど、最近フェイスブックで佐藤錦水さんという国際的に活躍してる尺八奏者の方と友達になった。

佐藤さんは岡林信康と活動したりして、日本の音楽を現代的な感性で再構築していて興味深い。

昭和四十年に根岸で生まれ育ったというから、ぼくが根岸から練馬区に引っ越して、すこしたって生まれた方だということがわかった。

4年前に自費出版した「路地裏のユートピア」や、「流星」に寄稿した「鶯」などの随筆を書いて、根岸への郷土愛には決着をつけたつもりだったから、それから根岸について何か書くことはなかったけど、佐藤錦水さんやそら塾にいた大平夏澄さんといった、自分より若いアーチストたちとフェイスブックで交流しているうちに、ムズムズしてきた。

東北復興の願いをこめて佐藤さんが去年作ったPray for Japanというプロジェクトの曲が

YouTubeに載っていた。

そのうちの一曲福島県民謡「相馬二遍返し」 に特に心ひかれた。

相馬と流山の歴史的な深い関係まで、想起してしまった。

知名定男がプロデュースしたネーネーズの最初のアルバム「IKAU」を聴いたときと同じような、じんわりとした感動がある。

「路地裏のユートピア」という長い随筆で、沖縄の三線と根岸の路地裏から聞こえてきた三味線のことを書いた時の気分が蘇ってきた。

ゆったりとした気持ちのいい時間をどうぞ。

2012年6月 4日 (月)

堀義人は知らないだろうが、この動画の中で話している内容は、ぼくが33年前に教室で聴いた話と、重なる内容も多い。つまり、野田一夫はぶれない。

前日のエントリで学生時代の恩師野田一夫氏のことを書いたが、

もう少し、付け加えたくなったので、YouTubeを探した。

今年の2月にグロービスとかいうビジネススクールが主催したトークショーで話している姿が動画になってアップされていた。

30年以上会っていないので、多少おじいさんになったなあとは思うし、スーパー頭が切れていた50代前半の頃と比較すると、多少言葉が出にくくなったなあとは思う。

だけど今年85歳になるという年齢を考えると、昔のイメージそのままなことに驚く。

とりあえず、長い動画なので、民主党議員がくだらねえ意見をしゃべる57分30秒くらいから、維新の会についてしゃべり終わる59分10秒だけでも、見てもらえばいい。

オイラは全体を見たけれど、野田先生が「国家」と「国」の違いについて、一生懸命に話しているのに、堀義人グロービス経営大学院学長とかいう司会の人は、全然理解できていない。

世間一般では、京都大学を卒業して、ハーバードでMBAとった堀義人のような人をインテリで、何でも知っている人だと考えて、ご高説を拝聴することになるんだろうが、オイラのような一般ピーポーには全然魅力が感じられないよ。

口幅ったいけど、オイラのような頭の悪い人間でも多少は勉強したウェーバーや丸山真男や川島武宜を、この人全然読んでないから、たぶん理解できないんだと思う。

野田先生が自分の内なる声に従って、心の底まで降りてしゃべっているのに、堀義人は周囲ばかり気にしているから、質問がちっとも面白くない。

有力政治家や財界人なんていうセレブな人たちが集まっているから、その人たちの顔色ばかり気にしている様子が、よくわかる。

まるで、オイラには堀義人が、野田先生の言葉をハマコーあたりの戯言と同じような感じで捉えているようにすら見える。

堀義人は知らないだろうが、この動画の中で話している内容は、ぼくが33年前に教室で聴いた話と、重なる内容も多い。つまり、野田一夫はぶれない。

例えば淡路島とシンガポールの比較話なんてのがそう。

だからオイラは夏休みを利用して、淡路島とシンガポールに行ってきたんだもん。

この昭和と平成を見続けた希代の大学教授が、長年かけて熟成してきた考えを語る一言一言が重い。

お時間のある方は、生命保険会社のお兄ちゃんのしゃべるとこや、政治家のしゃべるとこは、飛ばしていいので、野田一夫の主張を聞いて欲しい。

2012年6月 2日 (土)

あじさいの季節にサー・ローランド・ハナ・トリオのSkating in Central Park が聴きたくなって

ジャズって不思議な音楽で、こっちの気分がゆったりしていないと、雑音にしか聞こえない。

歌謡曲やロックは、気分がノラない時に聴くと元気になったりするんだけど、ジャズは気分に支配されるなあ。何故か。

初めての自分の本を作るんで、ゲラが上がってきた2月頃から夢中で校正して、やっと校了したら、本が刷り上がってくるのが、待ち遠しくて、イライラし通しで。

印刷が上がった先週からは、お世話になった人へのお礼なんかで、バタバタして、この一週間も忙しかった。

今日になって、やっと少しゆったりした気分になれた。

すると、サー・ローランド・ハナ・トリオのSkating in Central Park が聴きたくなって、

ユーチューブを探したけど見つからない。

MJQのオリジナルはヴァイブが耳障りなので、パス。

そこでDreamという曲にした。

最近フェイスブックを見るとあじさいの写真をアップしてくれる人が増えてきた。

初めての経験ばかりで、もがいていると、いつの間にかあじさいの季節になっていた。

3年前の今頃、過酷な労働と長時間の通勤に疲れ果てて、精神的に余裕のない中で、こんなエントリを書いた。

雨が似合う古い町

いまは、ずいぶん余裕が出来た。

3年前よりももっと、今住んでいる静かな町が好きになっている。

そして、3.11以降、新しく素敵な仲間が出来た。

今日、生きていることに感謝したくなった。

大阪維新の会に危惧の念を抱き、「国」と「国家」の違いを親や教師がしっかり教えておく必要がある。「国を愛しても国家には気を許すな!」と説く野田一夫は永遠にぼくの師だと思った。

先週、給料が出たので、今週はまた本を何冊も買ってしまった。

自分の本もそうだけど、毎日のように膨大な本が発行され、あっという間に消えてゆく。

野菜や魚を買うような感覚で、本を買っていかないと、いざという時バカ高い金を払うことになるから、こちらの読書能力とは関係なく、本を買うはめになる。

そういえば昨夜、松戸駅前の堀江良文堂で拙著を見つけた。

001

隣の永井荷風の写真に目が行くなあ。フツウは。

なんと、カフウに邪魔されるとは。これも何かの因縁か。

冗談はさておき、今週買った本の中で、かなりうれしかったのは、

野田一夫『悔しかったら、歳を取れ!わが反骨人生』幻冬舎

学生時代の恩師が、初めて自分を語った本。

教室で話してくれた個人的なエピソードが満載で、こいつはすごい。

この人の書いた経営学関係の本は、ドラッカー『マネジメント』の監訳者まえがき以外に、

あまり面白いものがなかった。

文章よりも本人自身のほうが、圧倒的に面白くて、他人におすすめできるような本がなかった。

だけど、この本は編集者が、うまくサポートして、破天荒な行動的大学教授であるこの人の思考が形成される軌跡をたどっていて、読みやすい。

大学生の時、深い影響を受けたにもかかわらず、大学を卒業して、うだつの上がらない貧乏な労働者だった(今でもそうか!)ぼくは、大学の研究室とは別に、都心の一等地に、目が飛び出るほど美しい女性秘書を置いた個人オフィスを持ち、才能と、富と、人脈のすべてに恵まれて、まぶしすぎる人生を送っているこの人を、次第に敬遠するようになった。

そして、大学を卒業してからは、全く縁が切れてしまったけれど、いまこの本を読むと、順風満帆に見える活躍の裏で、どれほど多くの困難に立ち向かっていたのか、よくわかる。

自分も年を取って、日本の社会の陰湿さ、因循姑息さが、よおくわかってきたから。

そして、この人は、ぼくが20代の当時イメージしていた自民党や大企業べったりの、体制派などではなく、本のタイトルにある通り、周囲の無理解と闘いながら反骨人生を歩んできたということも、よくわかった。

坂口安吾の『堕落論』を愛し、アメリカにいたときは丸山真男と親しくつきあって、骨の髄まで反ファシズムで固まっていて、今でも理想の国をスイスだという。

そして、南部藩士をルーツに持ち、中央権力に反抗して、井上ひさしの『吉里吉里人』に胸を打たれ、余生を東北への貢献に捧げると言う。

マックス・ウェーバーへの関心、地域や都市への関心、犬養道子を読むように勧められて芽生えたキリスト教への関心や、アメリカやヨーロッパ社会への関心もこの人から教えられたものだ。

そして毎週二冊課題図書を出され、本を読み続ける習慣を作ってくれた。

今でも、ぼくの思考のベースには、常にこの人がいる。

中でも一番印象的だったのは、ある日、教室に入ってくるなり、いきなり大きく板書した「愛知」という言葉。

「そういえば、名古屋の生まれっていってたなあ。」なんて、バカなことを考えていたら、

「君たちは一生、知を愛する人間にならなきゃいけない」と言われて、驚いた。

その前も、その後も、誰からもそんなことを言われたことはない。

きっと、教室に来る前に、知的好奇心の減退した大学教授と話をして、怒りを覚えたのだろう。

教室以外で起きたことを、すぐに授業に取り入れて、教材にしてしまう能力は、教師としても天才的だったと思う。

この本は、タイトルがちょっと、気に入らないけど、野田一夫の面目躍如の快著で、うれしい。

大阪維新の会に危惧の念を抱き、「国」と「国家」の違いを親や教師がしっかり教えておく必要がある、「国を愛しても国家には気を許すな!」と説く野田一夫は永遠にぼくの師だと思った。

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