日本の1920年代の勉強をしてみよう
3年前に「80年前の野田に行くのだ」と書いてから、なかなか進まなかった取材と執筆がここに来て、大詰めを迎えている。
プレッシャーを感じてしまうので、いままでブログには、はっきりと書かなかったのだが、昭和2年から3年にかけて起きたキッコーマンの「野田労働争議」について書いた本を、早ければ年内に出版する予定になっているのだ。
実は一日23時間くらい、労働争議のことを考えていて、悶え苦しみながら、そんな状態を楽しんでいる。
この出版不況の時代に、僕のような無名のサラリーマンに執筆を依頼する太っ腹な崙書房出版に心から感謝している。
それにしても、野田労働争議という歴史絵巻は、すさまじいスケールで展開されたのに、地元の東葛地区でも案外知られていない。
もちろん僕も流山市立博物館友の会に入るまでは、全く知らなかった。
凄惨な血なまぐさい事件も頻発したので、それを不名誉だと思う人も多いのかもしれない。
でもね、取材してゆくうちに、そんなことマイナーなことを考えていてはダメだとわかった。
亡くなった田中則雄さんの本を読むと、当時、世界最高水準の製品を作り出していた職人たちは、たとえ醤油屋者なんて呼ばれて蔑まれていたとしても、きっとプライドをもって仕事をしていただろうし、高い給料を要求して当然だとおもう。、
また、幕末期から世界中を市場と考えて、海外進出を視野に入れていた経営者たちの先見性にも、頭がさがる。
そして、厳しく大きな争議を解決したからこそ、今日のキッコーマンの繁栄があることがわかる。
だからこの争議は、1920年代に頻発した一般的なプロレタリアと資本家の間の労働争議とは、ワケが違う。
そのあたりの図式が、戦後生まれの人間にはわかりづらいところなのかもしれない。
ちなみに野田労働争議には、マルクスのマの字も、「資本論」も出てこない。
そこが戦後最大の争議である向坂逸郎が活躍した三井三池争議との違いだ。
じゃあ何が彼らのエートス(心的態度・倫理的態度)だったんだろう。
それを、ちょっとだけ解明してみたのが、今度の本です。
僕は歴史学者でもなく、作家でもなく、街の好事家(ひと呼んで下手の横好き)なので、難しいことは頭のいい人にお任せします。
書き手としては海野弘くらいしか思う浮かばないのだけれど、政治や経済だけでなく、文学や建築やアートといった分野でも興味つきせぬ日本の1920年代の勉強を、ぜひ一緒にやりませんか。
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