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2011年8月

2011年8月29日 (月)

映画「フラガール」とイヴァン・イリイチ

デンゾーさんに教えられて、ユーチューブで『福の歌~頑張っぺver.~』という歌を

聴いていたら、たまらなく映画「フラガール」のラストシーンで蒼井優が踊るところを見たくなってしまいました。

やっとみつけたので、下に貼り付けます。

この映画の舞台はいわき市ですが、昔は平といいました。

子供の頃、常磐線で日暮里から土浦まで、母の実家に毎月のように通っていたぼくは、

必ず勝田ゆきか、平ゆきの電車に乗ったので、いつか平という町に行ってみたいと、おさな心に憧れていたものです。

そんな平が、今回の震災と原発問題でひどい目にあっているかと思うと、心が痛みます。

日本のエネルギー革命に翻弄され、炭鉱を諦め、やっとの思いで観光で生きてゆくことを選択した平が、再びエネルギー問題に痛めつけられているという事実。

そんな平の惨状をよそに、安易に原発の運転再開を語る政治家たちを見るたびに、怒りで胸が震えます。

技術的に安全か危険かという論議の前に、専門家と称する集団に制御不能な巨大エネルギーと利権を与えることが、どれほど向こう見ずな暴挙であるのか、ここは冷静になって頭を冷やして考えてほしい。

航空機で雌雄を決する時代になって、戦艦大和や武蔵をつくった戦前の政府や、ずるずると諫早湾を死滅させる判断を下した自民党政府と同じことが、今現在も続いている。

なんの反省もなしに、開発だの、貿易立国だの、経済成長だのといった言葉を使う政治家ではない、

たとえばイヴァン・イリイチくらい読んでいるような政治家が出てきてほしい。

今日、ぼくと同年齢の野田という男が次の首相になることが決まった。

彼のぶざまな歴史観は、とうてい容認できるものではなく、この先が大変不安になるが、

せめて平の人たちが少しでも明るくなれるような政治を、と願っている。

2011年8月27日 (土)

山口昌男のお陰です。

デンゾーさんのコメントに返事を書いていたら、なんだか山口昌男のことを思い出してしまった。

ちょっと必要に迫られて、今週は杉浦日向子の『合葬』

そしてさっきまで山口昌男の『敗者の精神史』を読んでいた。

どちらも、いわゆる明治維新の負け組を描く。

内村鑑三のようなクリスチャンが負け組だったことは、若い頃から知っていた。

けれども、もっと大きな知の地下水脈があったこと。

そして、どうもこの本に登場する人々に、自分が無性に惹かれることを知った。

自分のアイデンティティのありかを見つけた思いがした。

維新の元勲なんて呼ばれている連中が安っぽく見え、永井荷風や内村鑑三に惹かれる理由がわかった。

それもこれも、みーんな山口昌男の、1995年に発表されたこの本のお陰。

「内田魯庵山脈」「挫折の昭和史」「敗者学のすすめ」といった関連書も全部いい。

山口昌男は脳梗塞で倒れてから、健康がすぐれず、最近は新著も出ていないけれど、

いままでの仕事で十分、日本の知識人をあっと驚かすような仕事をしてきた。

協調会にいた田沢義鋪のことを調べるためにページを開いたら、八王子における大正デモクラシー文化の中心人物だった松井翠次郎や菱山栄一の活動に目が移り、かれらを好きになってしまった。

自分が今考えているようなことは、とっくに大正時代の先輩たちがやっているんだ。

菱山が売文社の堺利彦(黒岩比佐子『パンとペン』の主人公、モリスの「ユートピアだより」を訳したことでも知られる)に仕事を頼むと、仲間の白柳秀湖も登場する。

白柳秀湖は野田争議でも登場してくる作家、評論家である。

山口昌男のことを書いているのに、いつの間にか「野田争議」につながってしまった。

それくらい「野田争議」は、その後の日本の歴史を暗示し、1920年代の終焉を告げる一大ページェントだったと思う。

もうしばらく、いやずっと、「野田争議」の仕事がつづくんだろうなあ。

2011年8月20日 (土)

豊かなローカル・マーケット・エリアを取り戻すために

原発マネーという言葉がある。

原発を受け入れたことによる自治体への交付金のことで、その金額が減ってしまうと自治体がたちゆかなくなるというのだ。

ブログで書いたかどうか忘れたけど、原発が怖いのは地域自立の経済システムを、原発依存型に変えてしまうことだという。

そんな町では、原発に反対する人間など、邪魔者でしかないだろう。

ソ連や北朝鮮をバカにしていた新自由主義の平成ジャパンの国民だったつもりなのに、いつの間にか、ソフトな全体主義国家が形成されていた。

「路地裏の経済」という言葉が好きだ。

田中優子の『未来のための江戸学』にかいてあったろうと思って探したが、見つからない。

猛威をふるう巨大資本とは無縁の、地域自立の経済活動で、細々とではあっても、地元に根づいているから、簡単に撤退したり、消滅しない。

ぼくの身近な存在では、町民がこぞって出資し、出来たので「町民鉄道」と呼ばれた流山線などが典型だと思う。

崙書房出版も、京北スーパーもそういう存在かもしれない。

経済史の分野では「ローカル・マーケット・エリア(大塚久雄は局地的市場圏と訳した)」なんていう言葉で表現している。

資本主義が発達した国はどこでも、しっかりとしたローカル・マーケット・エリアがあって、農村工業が発達し、地域自立の経済が重厚な社会基盤を形成していた。

たとえばウィリアム・モリスも憧れた産業革命が起きる前のイギリス社会。

ぼくが真面目に世の中を憂いて運動する社会主義の人たちに敬意は感じつつも、社会主義に共感できないのは、そんな資本主義社会が理想としてあるからだと思う。

貿易や金融のみに依存した国では貧富の差が拡大するだけで、中産階級が形成されない。だから国内市場も拡大しないし、資本主義の基盤ができない。

だからマックス・ヴェーバーは本来の資本主義と区別して、賤民資本主義なんて呼んだ。

ホリエモンや村上某なんていう連中が典型だろう。

貨幣の獲得に魂を奪われたあわれな連中。マルクスは「貨幣の物神性」なんて言った。

こんなことは大塚史学の評価とは関係なく、経済史をちょっとだけかじった人間なら誰でも知っている常識だとおもうが、東京大学で経済学を勉強したような方々が率いる戦後(もしかすると1940年体制から)の日本はローカル・マーケット・エリアを壊して、いわゆる国民的産業を作り、輸出することばかり、血まなこになってやってきた。

賤民資本主義社会の完成である。

そして日本はひ弱な資本主義社会になった。

いま、震災後の復興事業について、いろいろとやっている。

いかにも利権がからんでいそうな、きな臭い「大連立」なんて言葉も新聞の紙面を賑わす。

ぼくが江戸期に憧れるのは、高度に「路地裏の経済」が発達し、豊かなローカル・マーケット・エリアが形成された時代だったから。

東北はこんどこそ、××マネーなんぞに依存しない、地域自立の21世紀の日本社会のモデルになってほしい。

そのためのマニュアルはいくらでもある。

中でも『未来のための江戸学』はいい本だと思う。ぜひご一読をお勧めしたい。

2011年8月15日 (月)

御霊たちに「イマジン」を

保守派の家庭で育ったので、ぼくの親戚には靖国神社に参拝に行く人も多い。
今日も、休みなので朝からブログと野田労働大争議の原稿を書いていたので、すっかり忘れていたが、

親戚が靖国神社に参拝に行ったと聞いて、今日が終戦記念日だということを思い出した。

かつて江戸期までの日本には「御霊信仰」があった。
御霊は「みたま」とも読み、死者の霊を畏れの感情とともにそう呼んだそうである。
戦争でいえば味方でなく、敵に当たる人々の霊をさす。
敵が怨霊となって災いをもたらすのを防ぐために、彼らを鎮魂し、悪を制御したという。

田中優子は『江戸を歩く』に、このように書く。
「日本が伝統を重んじる国であるなら、御霊の鎮魂と慰撫を大切にし続けただろう。敵を無視し味方の軍人だけを「英霊」と呼んで特別に祀ったりはしないであろう。そういう施設に、国の代表者が参拝に行ったりもしないだろう。

日本が伝統を重んじる国であるなら、明らかに御霊とみなされる者たちを、線路で分断しその下に踏みつけにしたりもしない。
一八七九(明治一二)年、陸軍省の主導のもと、靖国神社が成立する。
近代日本は植民地戦争をするために、御霊を捨てて英霊をとったのである。歴史や文化を捨てて軍事をとったのである。人々は明治以来そのような価値観をひきずる政治家を、いまだに選び続けている。」

常磐線の線路の下に眠る御霊たちの鎮魂のため、年に一度は千住小塚原の回向院に行って、首切り地蔵に参拝するぼくには、これ以上書くことはない。
8月15日の今夜は御霊たちに「イマジン」を捧げよう。

「ポール・ポジション」が大嫌いだった。

先日参加したある会合で歌謡曲の話が出た。
歌謡曲には一家言あるけれど、世代が違う人達なので、話が通じるわけもなく
ニコニコして、話を聞いていた。
まえにジューシーフルーツのイリアの活動を紹介したことがある。
その時、イリアがいなければ森高千里もプリンセス・プリンセスも登場しなかったと書いた。
けれども、よおく考えると楽器を弾きながら歌をうたう女性の芸人にはながい歴史がある。
もしかすると人類の歴史とともに発生した職業かもしれないが、明治時代の樋口一葉『たけくらべ』を読んでも、ヒロインの美登利が吉原の町を流す女太夫に声をかけて連れてくる場面がある。
田中優子は著書『樋口一葉いやだと云ふ』の中で、幕末期に完成した喜田川守貞『守貞謾稿』を引用して、女太夫の姿を描く。
「女太夫は菅笠をかぶり、木綿の着物に木綿の帯の新しいものを身につけ、襟や袖口や襦袢や腰帯には絹の縮緬を使い、化粧をし、日和下駄を履き、木綿の手甲をつけ、なまめかしい姿で唄った」
浮世絵にも描かれた江戸の非人組織に所属する女性芸人だという女太夫は一般の人には縁遠い存在で、ミステリアスで、とにかく魅力的だ。
ぼくたちはアイドル歌手を軽く扱ってしまい、こむずかしい歌をうたう歌手を有り難がる傾向があるけれど、流行歌や歌手をよおく見てゆくと、名もない庶民の想像力がそこに込められていることがわかる。
いろんな歌手が登場して、その都度時代の変化を感じてきたのだけれど、今井美樹が登場したときは、自分の青春時代が終わったと感じた。
南沙織や山口百恵やピンクレディーといった同世代のアイドルたちが背負っていたそこはかとなく漂う悲しみを、完全に払拭したその輝きがまぶしかった。
のびやかな肢体と、透き通った歌声はそれまで見た歌手の誰とも違っていて、当時バブル経済華やかな陰で、パワハラに苦しむ会社員だったぼくは、反発すら感じた。
職場のあった渋谷の街かどで流れていた「ポール・ポジション」が大嫌いだった。
渋谷も今井美樹も「ポール・ポジション」も、全部キライだった。
だけど今は、素直にいい曲だなあと言える。
そういえば当時の今井美樹は女優の蒼井優に似ている。
「フラガール」以降蒼井優ファンのぼくは、いまやっと今井美樹の良さに気づいたのかもしれない。




2011年8月13日 (土)

那須どうぶつ王国を応援したい。

那須どうぶつ王国に初めて行ってきた。
流山に進出するという計画はなくなり、東京都あきる野市のサマーランドに開園したが、失敗したといういわくつきのムツゴロウ王国である。
妻が動物好きなので、テレビでムツゴロウ王国の番組をやっていた頃は、よく見ていた。
この施設が震災後の放射能問題で苦境に陥っていることを知り、チケットももらったので、いい機会だと行ってみることにした。
そこは想像以上に素敵なスポットだった。

動物を見せるだけでなく、ぼくたちが知らない能力や面白さを体験させてくれる。
観光牧場の何倍も面白い。
スタッフも親切で、よく勉強している。
iPhoneを持っていたら、王国の敷地内はWI-FIでつながるのも有難かった。
犬用の施設が充実しているので、自分の犬を連れていって、のんびりと遊ばせながら、ネットを見たり、仕事をしながら一日中過ごすのもいいと思う。

あれだけのスタッフや動物たちを育てるには大変な苦労があったと思う。
いままで長年蓄積したものが放射能の影響で、潰えてしまうのは、あまりにも悲しい。
できるだけ多くの人に足を運んで頂きたい。

 

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2011年8月 7日 (日)

日本の1920年代の勉強をしてみよう

3年前に「80年前の野田に行くのだ」と書いてから、なかなか進まなかった取材と執筆がここに来て、大詰めを迎えている。
プレッシャーを感じてしまうので、いままでブログには、はっきりと書かなかったのだが、昭和2年から3年にかけて起きたキッコーマンの「野田労働争議」について書いた本を、早ければ年内に出版する予定になっているのだ。

実は一日23時間くらい、労働争議のことを考えていて、悶え苦しみながら、そんな状態を楽しんでいる。
この出版不況の時代に、僕のような無名のサラリーマンに執筆を依頼する太っ腹な崙書房出版に心から感謝している。

それにしても、野田労働争議という歴史絵巻は、すさまじいスケールで展開されたのに、地元の東葛地区でも案外知られていない。
もちろん僕も流山市立博物館友の会に入るまでは、全く知らなかった。
凄惨な血なまぐさい事件も頻発したので、それを不名誉だと思う人も多いのかもしれない。
でもね、取材してゆくうちに、そんなことマイナーなことを考えていてはダメだとわかった。

亡くなった田中則雄さんの本を読むと、当時、世界最高水準の製品を作り出していた職人たちは、たとえ醤油屋者なんて呼ばれて蔑まれていたとしても、きっとプライドをもって仕事をしていただろうし、高い給料を要求して当然だとおもう。、
また、幕末期から世界中を市場と考えて、海外進出を視野に入れていた経営者たちの先見性にも、頭がさがる。
そして、厳しく大きな争議を解決したからこそ、今日のキッコーマンの繁栄があることがわかる。

だからこの争議は、1920年代に頻発した一般的なプロレタリアと資本家の間の労働争議とは、ワケが違う。
そのあたりの図式が、戦後生まれの人間にはわかりづらいところなのかもしれない。

ちなみに野田労働争議には、マルクスのマの字も、「資本論」も出てこない。
そこが戦後最大の争議である向坂逸郎が活躍した三井三池争議との違いだ。
じゃあ何が彼らのエートス(心的態度・倫理的態度)だったんだろう。
それを、ちょっとだけ解明してみたのが、今度の本です。

僕は歴史学者でもなく、作家でもなく、街の好事家(ひと呼んで下手の横好き)なので、難しいことは頭のいい人にお任せします。
書き手としては海野弘くらいしか思う浮かばないのだけれど、政治や経済だけでなく、文学や建築やアートといった分野でも興味つきせぬ日本の1920年代の勉強を、ぜひ一緒にやりませんか。


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