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2011年6月

2011年6月25日 (土)

田嶋昌治さんと松戸史談会

僕が住んでいる松戸市には、「松戸史談会」という郷土史家の団体がある。

以前ある本で、「松戸史談会」の紹介記事を書かせていただいたことがきっかけで、松田会長さんを中心に、数名の方とお付き合いが始まり、名ばかりで大変申し訳なくおもっているけれど、賛助会員とさせていただいている。

体がひとつで、やるべきことは沢山あるから、活動には参加できないが、「松戸史談」という研究誌はいろいろ参考になり、よく読む。

そんなありがたい研究誌のバックナンバーを田嶋昌治さんが下さるというので、もらいに行った。

といっても、田嶋さんは家から歩いて10分程度の殿平賀在住。元は高等学校の歴史の先生である。

殿平賀はこの時期関東一円から観光バスが押し寄せる「あじさい寺」本土寺にほど近い、町かどに咲くアジサイもまた美しい落ち着いた町だ。

田嶋さんとは、松戸史談会・流山市立博物館友の会両方でお付き合いさせていただいている。

幼稚園児の頃からずっと劣等生だった僕は学校の先生が苦手なのだが、田嶋さんは目線が低い方で、無教養な僕の作品もちゃんと読んでくださり、温かいコメントを下さるので、ご近所のよしみもあり、なんとなくウマが合うのだ。

創立50年を超える松戸史談会の研究誌を読みかえすと、あまり大した歴史のなさそうな松戸でも、利根川・江戸川と水戸街道が整備された江戸期以降は、松戸宿を中心に江戸とつながる水運と陸路の要所として、ゆたかな歴史があるなあと感心する。

さらに僕の住む小金地区は江戸期以前から栄えた宿場町で歴史の重みでは、はるかに松戸宿をしのぐことも知った。

僕は無教養で、郷土史家とはとても言えず、横丁の雑学家なので、「松戸史談」に載せるようなちゃんとした論文は書けないけど、側面から松戸史談会や流山市立博物館友の会のような郷土史家の団体を応援してゆきたいと思っている。

2011年6月21日 (火)

「生活の柄」を変えなくちゃいけない。

TVでは「原子力に代わる代替エネルギー開発を最大限頑張ります。」

なんて、政治家が言ってる。

今すぐ原発を止めることなど出来ないからって、言ってる。

俺の世代は原発がなかった時代の社会をかろうじて覚えている。

日本で最初に原子力発電所が稼動したのが昭和38年だというが、今思えばこの年はすごい年だった。

東京オリンピックを前に国民一丸となって、近代科学を盲信し、大量生産・大量消費に走りだした年のような気がする。

このころ鉄腕アトムがヒーローになり、新幹線が走りだした。

ケネディが暗殺されて、古きよきアメリカが消えて、ビートルズとボブ・ディランが現れた。

小津安二郎は死んで、原節子は引退した。力道山が殺されたのもこの年だった。

首都高速道路が日本橋をふさぎ、「君の名は」で有名な数寄屋橋を壊して走り始めたのもこのころだった。

震災と戦災をくぐりぬけた多くの江戸東京の風景が壊されたのもこの時代だ。

戦前生まれの人は戦争が終わって、価値観ががらりと変わったというが、ライフスタイルに限って言うなら、この時代も大きな転換期だったとおもう。

まるで濁流に飲み込まれるかのように、考えるひまもなく、48年間も走り続けてきた。

確かどこかで小林信彦が、この頃に江戸期以来続いていた多くの生活習慣が失われたと、書いていた。

だから。

「生活の柄」を変えなくちゃいけない。

本気で原発に立ち向かうなら、「生活の柄」を変えなくちゃいけない。

生き延びるためには「生活の柄」を変えなくちゃいけない。

高田渡が聴きたくなった。

ここで「生活の柄」ってんじゃ、あまりにベタなので、ひねりを加えて「ブラザー軒」にしよう。

近いうちに仙台に行きそうだから。

そして、今年も七夕が始まるから。

2011年6月19日 (日)

20年ぶりに堀切菖蒲園に行った。

葛飾区は花菖蒲の見所が何箇所かあって、江戸時代からの名所が「堀切菖蒲園」。

20年以上前にこの町で働いていたことがあるので、確かその時分に行った記憶があるけれど、その当時は花にも、庭園にも、葛飾にも、広重の江戸百景にも、全く興味がなかったので、大した印象はなかった。

突然妻が菖蒲園に行きたいと言うので、母と娘も連れて、4人で「堀切菖蒲園」見物ということになった。

Photo 左が幕末期に描かれた広重「江戸百」の「堀切の花菖蒲」。下が21世紀の花菖蒲。

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幕府が瓦解して、江戸が東京と名を改め、150年の歳月が流れて、のどかな田園地帯がコンクリートだらけの町に変わっても、葛飾堀切では花を愛でる善男善女の姿が絶えない。

園芸都市江戸の息吹を感じる瞬間で、花菖蒲の優美さはそのままだ。

つい嬉しくなって、「日本一のきびだんご」なんぞを買ってしまう。

向島から来たおじいさんがその場で作ってくれた。

捨ててしまうのがもったいないほど、きな粉がたっぷりかかったきびだんごは、5本で250円とお買い得だ。なかなか美味。手作り風の屋台もいい味だしてる。

Dsc00758

きびだんごを食いながら駅に向かってぶらぶら歩く。

昭和の匂いがする下町の住宅街を抜けてゆく。

下町と書いたけど、ここは葛飾区。江戸時代からの伝統ある下町ではなくて、大正期に入って徐々に市街地になった東京の東郊。

どことなく漂うのんびり感が、浅草や神田のいなせな感じとは対照的で、僕は大好き。

住宅街では花菖蒲ではなく、アジサイが街並みに華を添える。

練馬や世田谷のように農道がそのまま残っていて、クルマよりも歩きが便利なので、この町では個人商店ががんばっている。

20年ぶりにこの町を歩いて、半年という短い期間だったけど、ここで仕事をして、僕は私鉄沿線の小さな町の暮らしやすさを再発見した。

今の自分につながる貴重な体験だったと、改めてこの町に感謝したい。

2011年6月12日 (日)

小金城趾のぶれない人

ふと、最近東葛地域の話題に触れていないことに気づいた。

もうひとつのブログ「東葛学めざして」を始めたこともあるけど、大震災以来、落ち着いて足元をみつめる余裕もなかった。

たまたまこの数日、久しぶりに地元を歩いて、人と会った。

昨日会ったのが無農薬野菜を売る八百屋をやっている映像作家の香取直孝さん。

「ぶれない人よ」

という「ずいひつ流星」辻野弥生さんの言葉で、香取さんに興味がわいて、話を聴きたくなったのだ。

やおや旬

逆流亭から徒歩3分の距離だが、今で数回行った程度で、香取さんの存在を知らなかった。

お会いした香取さんは、思ったとおり強烈な人物だった。

僕の盟友小田健人と同じ匂いがする、一般人の理解を超えた人物だけど、間違いなく「嘘をつかない人」

だから力強い。

「僕の話を最後まで聞けない人は、自分が壊されるのが怖いからだと思う」

なんて、すごい言葉をさりげなく語ってくれた。

日常に流されて、自分がだめだなぁと思うと、小田健人に会って、自分を立て直すことにしている。

もしかすると、香取さんもこれから自分にとって小田健人と同じような存在になってゆくかもしれない。

ここ数日、表現することと、食べてゆくことについて、考えていた。

すこおし、香取さんのお陰で悩みが解消したような気がする。

そして、香取さんがくれた「関さんの森」のDVDを見て、感じたのは人それぞれの時間感覚が違うということ。

数百年というロングレンジの時間の中を生きている関美智子さんの言葉の重みと、支援者・市役所側にかかわらずその他の登場人物たちの言葉の重みが全然違うことが印象的だった。

香取さんは、撮影に入る前はご自分のテンションも上げなくてはいけないので、準備が大変だと語った。

数百年の時間を生きている関美智子さんと対峙し、関さんの表情をアップで撮影するには

香取さんも尋常ではないパワーが必要だということであろう。

言い方を変えれば「真剣に対峙するには、ブレている余裕などない」のかもしれない。

何かとても大切な事を教えていただいたと思う。

それでは、香取さんと意見が一致したブレない人。

高田渡の隠れた名曲を聴きながら日曜の夜を終わろう。

渡さんと親しかった小田健人によるとハウスシチューのCMに使われたことを恥じて、ステージでは決して歌わなかったというけど、亡くなった今聴くと味わい深い名曲だ。

落語の世界で古今亭志ん生がもう出てこないように、歌の世界でもこんな人もう出てこない。

だからこそ、渡さんと同じ時代を生きられたことに感謝している。

2011年6月 5日 (日)

植草さんのことを話そう。

最近エントリのタイトルが長くなっている。

本来なら、そんなタイトルのつけ方は邪道なんだろうけど、今はそんな邪道が当たり前に許されてしまうのも、ふと振り返ると植草甚一のお陰なのだと思う。

永井荷風は永遠の憧れだけど、物心つくまえに亡くなっているので、リアルタイムでは記憶がない。

それに比べて、高校生の頃、植草さんの活動には、度肝を抜かれた。

当時の60歳代ときたら、少年にとっては還暦過ぎのもうじき亡くなる好々爺というイメージだったのに、60過ぎて次々とは発表するエッセイや、写真で見るファッションは、過激そのもの。

例によって松岡正剛の千夜千冊で、植草さんの紹介をしているので、リンクを貼り付ける。

植草甚一「僕は散歩と雑学が好き」

植草さんが切り開いた世界はいろいろあると思うけど、何と言ってもその独特の文体だと思う。

「こんな風に文章を書いていいんだ。」

文学部出身の先生に、学校で正しい文章の書き方を教わっていた少年には、衝撃的だった。

70年代初頭、三島由紀夫が割腹死し、川端康成がガス管をくわえて亡くなるという文学者の死に様を見て、文学という言葉の重みと厳しさに暗い気持ちになっていた時、植草さんのエッセイを読むたびにワクワクしたことを思い出す。

そして、暖かい農村に比べ、東京砂漠という血も涙もない都会で暮らしていると思っていた東京生まれの少年たちが、自分たちの住む町を故郷として誇りを持って歩き、そして語れるようになったのも植草さんの影響が大きいと思う。

シネマとジャズ、古本とコーヒーと散歩。池波正太郎とミステリー。

こうして書いているだけで、嬉しくなってくる。

久々にウィスキーで酔ったこんな夜は、マイルスとエヴァンスとコルトレーンが見事に調和するアルバム『カインド・オブ・ブルー』から耽美的とも呼べる名曲「ブルー・イン・グリーン」

で、締めくくろう。

植草さんに乾杯。

2011年6月 4日 (土)

坂口安吾も草葉の陰で腰を抜かしているだろう。

内田樹さんはなかなか売れっ子でベストセラーを連発してるけど、その文体になじめなくて、もうひとつ何を言いたいのかわからなかった。

ところが自身のブログで今回の橋下某率いる大阪維新の会の暴挙について書いている文章はとてもよかった。

学者特有のまわりくどい文章で、やや読みづらいのだが、強く共感した。

オレが直感的な表現でしか書けない内容を、学者はきちんと理論化して説明する。

さすがである。

内田樹研究室「国旗国歌と公民教育」

自分自身、最近妙にこの問題にこだわっているなあと思う。しつこいほど。

それは、こんな大震災のさなかの世情が不安定な時だから、一見正当性のある権力者の強いメッセージが、圧倒的に弱者であるサラリーマン教師の人生を踏みつぶしてゆく暴挙を、みんなが見逃しがちなのが怖いから。

次の総選挙で○○維新の会という名称の地域政党が日本全国で誕生して、既存の政党に失望した無党派層の票がなだれを打ってそっちの方向に流れて、日本中で同じようなことが起きるのを恐れているから。

自民党ですら反対している問題ある法案が、数の力ですんなり可決されてしまう。

今年入社した新入社員たちと話していて、とても不可解だったのは、就職活動の時に一番重視しろとされている本人の属性は「協調性」だという。

ディベートをしたとき自己主張が強いと、人の話を聞けないような人間だと判断されて、試験にパスしないと思っていたという。

そんな風潮を作っている黒幕は誰なんだろう。

採用担当者に確認したら、もちろん、全然そんなことないですという答で、少し救われた気分になったけどね。

オレたちが就職活動している頃は、どうしたら人より目立つかだったのに、三十数年ですっかり世の中は変わってしまった。

ソニーがダメになるはずだよ。

権力者から強制させれることに反発しない、従順な公民を作る。

そんなとんでもない世の中は完成間近だ。

彼らが次に考えそうなこと。

若者をボランティアとして、イラクやアフガンの復興支援に行かせようなんて言いだすのかな。

迷彩服を着せて、銃を持たせて。

協調性に磨きがかかった若者たちは、ブラックジョークのようだが、「翼をください」なんて合唱しながら、特別機に乗り込むんだろうな。

橋下某の暴挙に内村鑑三の不敬事件を想起した。

きっと、坂口安吾も草葉の陰で腰を抜かしているにちがいない。

重荷をおろして自由になるんだ。

今度映画になった川本三郎「マイ・バック・ページ」のあとがきを再読していたら、こんな文章が目にとまった。

ただこうも思う。たとえば私はザ・バンドの歌う「ザ・ウェイト」という曲がとても好きだ。とくに「重荷をおろして自由になるんだ、君の重荷は私にまかせるんだ」というリフレインが。その言葉を繰り返し続けていたらいつか重荷がなくなるのではないかと思ったりする。そのときは「私」ではなく「僕」を主語にして軽やかな文章が書けるのではないか。「苦悩のひびきがいかに美しいものであろうと、ふたたびそれを聞こうと望んではならないのだ。苦悩を癒やそうとすることのほうがより人間にふさわしい」というシモーヌ・ヴェイユの言葉を借りれば、私も「苦悩を癒やし」たいのだ。

名著『荷風と東京』を始めとする川本さんの著作の愛読者なので、一人称の書き方にこだわる作家だということは知っていたけど、こんなところにその原点があったことは、以前読んだときは気づかなかった。

川本さんの本当の苦悩は、「マイ・バック・ページ」の本を読んでも、映画を観ても、僕のような極楽とんぼには理解できるはずもないけれど、僕も「ザ・ウェイト」が好き。

確か少年の頃みた映画「イージーライダー」でも挿入歌として使われていて、町を歩いていても、車を運転していても、暗い、重苦しい空気を払い退けたい時に、心の中であのイントロが鳴り始める。

リチャードが亡くなった直後に日本公演でザ・バンドを見たことがある。

長年憧れていたバンドを生でみたという感激はあったけど、ロビーとリチャードのいないザ・バンドは、すでに違うバンドだった。

1968年という時代の空気を包み込んだテンションの高いファーストアルバム「ミュージック・フロム・ビッグピンク」に収められたバージョンがいい。

1968年から69年。少年期だった僕の人生も転換期を迎えていた。

その時、背負ってしまった重荷が、今も自分を苦しめているなあって、思う時もある。

だから、今日はザ・バンド。

デニス・ホッパーやピーター・フォンダのように、僕も、わずかな数の仲間と、ひっそりと、小さな旅に出よう。

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