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2011年5月

2011年5月28日 (土)

橋下某の暴挙に内村鑑三の不敬事件を想起した。

「天皇制だの、武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかるもろもろのニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。さもなければ、我々は、再び昔日の欺瞞の国へ逆戻りするばかりではないか。」

終戦からまもない昭和21年に書いた坂口安吾の「続堕落論」からの引用である。

この文章を、君が代斉唱時の教職員の起立を条例化しようとしている嘘つき野郎の橋下某とおバカな大阪維新の会に捧げよう。

オレの好きな町大阪がどんどん「欺瞞の国」へと変貌してゆくのを見るのは悲しい。

本日のasahi.comによれば維新の大橋一功議員は「ルールに故意に従わない教師が子どもたちの模範になるとは思えない。職務を履行させるために条例化が必要だ」と提案理由を説明した。
というが、笑止千万である。

いつから学校の教師なんぞが、生徒の模範ということになったんだろう。

維新の会に集うお勉強くんたちには、わからないだろうが、劣等生だったオレとって、学生時代、反面教師は大勢いたけど、師事したいと思う教師など、ほとんどいなかった。

要するに橋下某の本心は日教組が大嫌いなので、「君が代」を江戸期の「踏み絵」がわりに使って、左翼の教師をあぶり出して、追い出すために使いたいだけじゃん。

嘘そつきめ。

それって天皇陛下に対して失礼じゃん。

だから、オレは維新の会のように自ら志士なんて名乗っている連中の勤王主義なんて信じないし、インチキ錦の御旗を掲げたいわゆる「明治維新」なんてのも大嫌いなんだ。

改めて言っておくが、オレだって日教組や左翼系の教師など大嫌いだ。

貧乏な下っ端の警察官の息子として、全共闘運動華やかなりし時代を生き抜いてきたのだ。

ブルジョア家庭の級友からは「税金どろぼう」と蔑まれ、担任でもない、となりのクラスの教師に理由もわからずなぐられ、「戦艦ポチョムキン」の話ばかりしている高校の歴史の教師から解放され、やっと大学の経済学部にたどりついたと思ったら、経済原論の担当教授が毛沢東の「矛盾論」「実践論」を読めだの、北朝鮮はこの世の楽園だのって言ってるのに、心底うんざりした。

でもね。

赤旗振ってる左翼系の教師を力づくで抑えつけることで、教育って進歩するのだろうか。

オレは、教師が国歌斉唱の時に起立しないのは、公務員である前に、人間としてカッコ悪いと思う。

TPOをわきまえない行為は、ちっともおしゃれじゃないし、ガキっぽい。

そんなカッコ悪い教師たちを、排除しないで、生徒の前にさらしておくのも教育じゃないか。

カッコ悪いはずの教師たちが、その愚かな行為によって退職させられた途端、自分の信念に忠実であるがゆえに、退職させられた悲劇のヒーローに成り上がってしまっていいのか。

第一高等中学校の教師だったのに教育勅語に最敬礼しなかったと、日本中からバッシングされ、仕事どころか愛妻まで失ってしまった内村鑑三は、どん底から立ち直って「求安録」「基督信徒のなぐさめ」「余はいかにして基督信徒になりしか」「代表的日本人」といった名著を連発し、歴史に名を刻んだ。

内村鑑三「代表的日本人」

勉強が出来るだけで、嘘つきの元茶髪弁護士と、そんな嘘を信じているおバカな、お仲間のみなさん。

カッコ悪い、人間として恥ずかしいことをやってる教師たちを、現代の内村鑑三に育てるのだけはやめて下さいね。

嘘つきクラブの君たちには、ボブ・ディランが1966年のイギリスで、コンサートを妨害する観客に対して、「嘘つきめ」、ドラムスに対して「もっとデカイ音でやれ」って叫んで、歌い始めたこの曲がふさわしい。

できるだけデカイ音で聴いてね!!!

次は小沢昭一と小沢信男のダブル小沢トークセッションを見たいな。

1週間前のことだけど、先週の土曜日は神田の東京堂書店で小沢信男さんと黒川創さんのトークセッション。

「地震と東京と西村伊作、ほか」って、ふざけたタイトルで、小沢さんは好きにしゃべっていた。

小沢さんに初めて会ったけど、ぼけてるんだか、照れてるんだか、人を食ってるんだか、とにかく煮ても焼いても食えない怪人ぶりを発揮し、生真面目な黒川さんと対照的だった。小沢さんが山下清のことを書いた『裸の大将一代記』は僕の愛読書なので、持って行ってサインをしてもらった。

サインをしながら「よく読んでくれてありがとう。」と微笑まれたのが印象的だった。

『裸の大将一代記』は、変幻自在な文体が魅力的な人物評伝で、一般的にはあまり知られていない清のエピソードが満載された楽しい本だ。

途中から小沢清か山下信男かなんだかわかんなくなってしまうくらい、小沢さんと山下清が一体化してしまう。

この本を読んでから、しばらくは清のアングルで世の中を見る癖がついてしまい、世間の常識が非常識に見えてしまう、不思議な感覚を味わった。

不勉強なので、もしかすると山田洋次さんはどこかで話しているのかもしれないが、渥美清が演じた車寅次郎が、どこか山下清のイメージと重なって見えた。

「フーテンの寅さん」のキャラクター作りに影響したかもしれないと思う。

考えて見れば山下清をプロデュースした人物として知られる美術評論家式場隆三郎が作った式場病院と葛飾柴又は江戸川を挟んで、向かい合ってる。

全国区の有名人「裸の大将」と「フーテンの寅さん」は、案外近くにいたのである。

しまった。西村伊作のこと何も書いてなかった。まあいいや。

次は小沢昭一と小沢信男のダブル小沢トークセッションを見たいな。

小沢一郎を加えたトリプル小沢はノーサンキューだけどね。

2011年5月22日 (日)

「池袋モンパルナス」がいけないのだ。

もうどこにも書くまいと思っていた練馬時代の身の上話に火がついてしまったので、恥じかきついでに、あるエピソードについて書く。

数年前、友の会の重鎮で出版業界の生き字引のような編集者大出俊幸さんに、おそらく冗談でおっしゃったのだと思うが「あなたの書くものには石井桃子に通じるものがある。もしかしたらご親戚なの?」と言われたことがある。

「め、め、めっそうも御座いません。赤の他人もいいとこです」と答えたのだけれど、僕にとって人生最初の師匠童話作家のいぬいとみこさんは石井桃子と一緒に岩波少年文庫を編集していた人だったことをふと、思い出した。

もし大出さんが何かを感じたとしたら、練馬時代の僕にとっていぬいさんの童話や石井桃子さんの「ノンちゃん雲に乗る」や、同じ仲間だった中川李枝子さんの「いやいやえん」の世界が自分のいる世界と重なっていたからなのかもしれない。

そして、祖母や母から聞かされた日本昔ばなしとは違う、戦後の自由闊達な創作童話の世界に憧れた。

そのまま、いぬいとみこさんに師事して、中学高校でもしっかりと文学の勉強をしていれば、もう少しましな文章家になれたのかもしれない。

けれども、思春期の少年は勇ましいものに憧れるもんで、中学に上がる頃には、「ムーシカ文庫」の存在など、ちっともありがたいとも思わなくなってしまった。

運動部に入部して、ドラマ「柔道一直線」の桜木健一のような強い男になりたいなどと、身分不相応なことを考えていた。

地元の練馬中学ではなく、新宿区の男子校に進んで、初恋の女の子と離れ離れになる生き方を選んだ自分を、ストイックなヒーローだと考えていたふしがある。

ホントにバカだったよな。

自分の持ち味をころして、世間の常識にあわせようと、もがけばもがくほど歯車がかみ合わなくなって、勉強もスポーツも含めて、何をやってもダメダメな中学生だった。

そして、中学生の終わりに練馬を去る。

そのころはもう町への愛着どころではなかった。

頭の中が混乱して、何が自分をダメにしているのかもわからず、ひたすらもがいていた少年に、ほんの僅かな光でも、照らしてくれたのが、アメリカ西海岸のロックだった。

当時はイギリスのロックが人気だったが、息が詰まる様な緊張感のあるイギリスのロックよりも、おおらかでハーモニーのきれいな西海岸のスタイルに癒された。

例えば、有名なこんな曲はどうだろう。

イーグルスでは存在感の薄いティモシーだけど、僕のフェイバリット・ミュージシャンの一人だった。

煤煙で汚れた70年代東京の灰色の空の下、レコードを抱えて電車に乗る。

カリフォルニアの青い空が似合う、中性的な甘いティモシーの歌声は、とても魅惑的だった。

高校1年生の時に聴いて、その美しさに衝撃をうけた次の曲を紹介して、今夜は眠ろう。

ここまで読んでくれたみなさん。つまらぬ身の上話でゴメンなさい。

2011年5月21日 (土)

映画「マイ・バック・ページ」の公開を前に思い出したこと

一つ年下の杉浦日向子が亡くなって、そろそろ6年になる。

杉浦日向子は江古田の日大芸術学部出身で、早すぎた晩年は関町に住んでいた。

松岡正剛の「千夜千冊」で宇佐美承の『池袋モンパルナス』を見ていたら、ふと、練馬区にゆかりのふかい杉浦日向子を思い出したのだ。

昭和38年から昭和47年まで、西武線の練馬と豊島園と中村橋駅に囲まれた向山町という町に住んでいた。

松岡正剛は「いまの東京人にはまったく見当すらつかないだろうけれど、明治末期から大正年間にかけては巣鴨・田端をはさんで上野と池袋は、まさに"つながって"いた。」と、書いているが、昭和の池袋と練馬も西武線を介して文化面で繋がっている町だった。

普段は説明するのが面倒なので、東京下町生まれのような顔をしているが、僕の本当の故郷は少年時代の大半を過ごした練馬区だと思っている。

練馬時代の思い出は「ずいひつ流星」に何度も書いて、書きつくしたと思っていたので、消し去ってしまった過去だったはずなのに、『池袋モンパルナス』がいけない。

芋づる式に、いろんな思い出が浮かんでくる。

東京の町に詳しくない方は、ちょっとわかりずらいかもしれないし、今は地域性が薄れてしまったので、余計にわかりずらいけど、僕が子供の頃はまだ、東京にも地域性が色濃く残っていて、ものごころついて最初に住んだ台東区と、引越し先の練馬区では、話す言葉も、住民の暮らしぶりも全く違っていた。

最初は違和感を感じたが、適応力のある子供時代だったので、すぐに練馬のカルチャーに馴染んだ。

「しこうき」は「飛行機」、「おしっこし」は「お引越し」と標準語もしゃべれるようになった。

「君」だの「僕」だのなんていう、しゃらくさい言葉も使いこなせるようになった。

それはさておき。

当時の練馬の空気感は、ちょっと異常だった。

『池袋モンパルナス』の流れをくむ芸術家くずれの漫画家が住む町だったけど、その上に

1960年代のカウンターカルチャーが乗っかって、アヴァンギャルドな雰囲気すら漂っていた。

例えば、今のスタジオジブリ並に子どもたちに大人気だった手塚治虫の虫プロはちょっと足を伸ばして遊びにゆく場所だった。

近所には漫画家の住む家や、芸術家のアトリエが多かったし、近所に住んでよく遊んだ仲良しのSくんは白土三平の息子で、長じてフラメンコギタリストになった。

一番の親友だったTくんのお母さんは高名な子供服デザイナーで、童話「秘密の花園」に出てくるような花園のある家に住んでいた。

武蔵野美術大学に行って、絵の先生をやっていたKくんの家は、お金持ちで大正期のアールデコっぽい洋館だった。

みんな不思議な連中だった。小学生のくせにロックやジャズや映画やアートにめっぽう詳しかった。そして今はみんな消えてしまった。

みんな消えて、平凡な僕だけが何故だかひとり生き残って、雑文を書いている。

そうだ。今、思い返すと杉浦日向子も白土三平と同じガロから出た漫画家だった。

警察官だった父と、息子を高級官僚にすることぐらいしか夢のなかった母は、そんなカウンターカルチャーの嵐の中で、横道にそれがちな息子を心配していたに違いない。

童話でも読ませておけば、清く正しい子どもになると思っていたのだろう。

何も知らずに、中村橋で始めたばかりのいぬいとみこ先生の「ムーシカ文庫」に僕を入れたのだ。

ちょっと長すぎるエントリになったので、ここで一区切りつけよう。

川本三郎原作で近日中に映画が公開される「マイ・バック・ページ」のもとになった、ボブ・ディランのアルバム「アナザーサイド」に入っていた名曲「マイ・バック・ペイジズ」を聴いて、あの時代を思い出すことにする。

僕にとって1960年代の練馬が「マイ・バック・ペイジズ」そのものだからね。

2011年5月15日 (日)

ノスタルジックで、優しい音楽

昨日は夜勤があって、23時まで仕事だった。

今日は朝早くから、子供と市川のフィールドアスレチック。もちろん、自分はやらないけど、カンカン照りの太陽の下、子供と一緒に山道を歩くだけで、いい運動。

しばらく体調を崩してたので、10日ぶりにビールを飲んだら、ネムネムだよ。

昨日橋下某に怒ってブログのエントリ作ったけど、今夜は脱力系の音楽を聴いて、日曜の晩をのんびりと過ごしたい。

ちょっとノスタルジックで、優しい音楽がBGMに欲しい。

この前は、大滝詠一の「外はいい天気」を紹介したから、今度は大好きだった細野晴臣のソロアルバム「ホソノハウス」から「ろっかばいまいべいびい」がいいな。

高校生時代からの愛読雑誌「ミュージックマガジン」を久々に買ったら、細野さんのインタビューが掲載されていた。それよると、下にリンクした「ハイド・パーク・ミュージック・フェスティバル」は、大雨によるぬかるみと霧の中で、大勢のお客さんが待っている光景が感動的だったので、その日からずっと歌を歌っていると、語っている。

YMOのころからあんまり歌わない人になってしまったので、勿体無いと思っていた。

だから、このコンサートは細野さんにとっても特別なコンサートだというが、その雰囲気伝わってきます。

亡くなった高田渡の息子高田漣のスチールギターが、ちょっと硬さのとれない細野さんのボーカルを、優しくフォローする。

歌う細野さんの向こうに、渡さんの姿がダブって、なんだか泣けてくる。

2011年5月14日 (土)

学校では教えてくれない本当の歴史の勉強

知識を得るには学校という制度が絶対的で、そこに権威を感じている真面目な人たちには、教科書って、とっても大事なんだろうなあ。

オイラは中学高校時代、歴史の勉強が退屈なので、その時間は教科書に載っている毛沢東の顔にヒゲを書いたり、外国人のヘアスタイルをちょんまげにしたりする作業で忙しかった。
いじめられっ子の友達の教科書に印刷された江戸期の作家「上田秋成」という名前を本人にわからないように、丁寧に「正田秋成」に変えてしまったり、ろくなことやっていなかった。

最近、新しい歴史教科書をつくる会とかいう団体とそれに反対する団体があって、自虐史観だの、自由主義史観だの、ウヨクだのサヨクだのって、お互いをののしり合っているわけだが、オイラのような劣等生からすると、どっちも教科書に載っていることを事実だと思っている人たちという意味では、同じ穴のムジナじゃねえかと思う。
そんな教科書的歴史観から、オレを救い出してくれたのが山口昌男『敗者の精神史』という本だった。
あまり使いたくない言葉であるが、いわゆる「明治維新」と呼ばれる幕府の瓦解によって、戊辰戦争に勝利した西軍(新政府軍)側の視点で、明治以降、現在に到るまで、すべての歴史教科書が書かれているのだという事実を、いやというほどわからせてくれた。

評論家の小谷野敦とかいうバカがアマゾンでつまらぬ書評を書いているけど、そんなものに惑わされてはいけない。

知の巨人松岡正剛の「千夜千冊」で、この本の内容をじっくり吟味していただけるとうれしい。
敗者の精神史

そういえば退屈な学校の日本史の時間の中で、江戸の戯作者たちが紹介される時間だけは、楽しかった。こんなところにオレの仲間を見つけた。そんな気がした。
100年前、200年前に、自分の住む街に生きていた先達の脱力した生き方に、一瞬だけ体が軽くなるような、淀んだ空気の部屋に新鮮なそよ風が吹きこんでくるような気持ちだった。
そして自分が幼年時代を過ごした台東区根岸という町が、江戸期から数えきれないほど沢山の戯作者文人墨客が訪れた町で、「敗者の町」だということも、『敗者の精神史』で知った。
こんな非常時になると、日本人はいわゆる「明治維新」の元勲たちに学べなんて、とんちんかんなスローガンが出てきそうで、ホントに嫌になる。
明治以降、中央集権国家を目指した結末が、現在の状況なのだということを認識してほしい。

本当なら、ヒデヨシがめちゃくちゃにした近隣諸国との関係を修復し、諸藩に技芸を奨励して、地方分権社会を実現した江戸期に学べと言いたいが、400年まえはあまりにも遠いというのも事実。
ならば、せめて1920年代の震災後の自由でモダンな国づくりをやり直してみたらどうだろう。
オレたちがこれから、あの時代のようにファシズムや共産主義のような全体主義に飲み込まれないように、地に足を着けて、学校では教えてくれない本当の歴史の勉強をやってみようと、いま考えている。

鷹揚な日本の国で暮らしたい。

最近ヘップバーンの映画「パリの恋人」についてブログに書いた。

都市の空気は自由にする

昨夜、朝日新聞の夕刊を眺めていたら、おおたうにさんというイラストレータも「パリの恋人」について書いていた。

「パリの恋人」って、自分が生まれた頃の映画なんで、僕はいま見ても古臭くない映画だなあって思っていたのだが、僕よりも20歳近く若いおおたさんは、今の文化の土台になっている古き良き文化という風にとらえていたのが面白かった。

ということは、僕の世代が古きよき文化を背負っている最後の世代かもしれないなんて、軽く気負ってみたりしたくなる。

確かに、東京オリンピックの前の東京の街を覚えている最後の年代かもしれないなあ。

そんなことを考えていると、昨日の朝読んだ川本三郎『荷風と東京』にも「パリの恋人」のことが出ていたことを思い出した。

荷風が人生最後に見た映画が「パリの恋人」だったというのだ。

『断腸亭日乗』を開くと、たしかに1957年11月29日に浅草で見ている。

1957年の日乗をよく見返すと、「昼下がりの情事」をはじめとしてフランスやイタリアを舞台にした映画をずいぶん見ていることがわかる。

今朝の朝刊には、メディアが持ち上げたがる大阪府知事橋下某が率いる「大阪維新の会」という、気持ち悪い名称の政治団体が、君が代斉唱時の起立を義務付ける条例案を提出するという。

オレは別に抵抗ないから起立ぐらいお付き合いでしちゃうけど、起立したくない人の自由くらいは守れる鷹揚な日本の国で暮らしたいぜ。

今、関東大震災後の社会の変容について、いろいろ資料を集めている。

都市の空気が不自由なものになることが、社会全体をどういう方向に導くのか、日本人の叡智を問われている気がする。

ピーター・ドラッカーが心の底から嫌悪したカリスマ指導者にお任せするのか。どうするのか。

『断腸亭日乗』もそう考えて読むと、よりいっそう面白いと思う。

2011年5月11日 (水)

「不思議の町根津」よりずっと不思議な野田が、だんだん面白くなってきた。

先週は森まゆみさんが「不思議の町根津」と書いた文京区根津にいった。

今週は日曜の午後に野田市内を歩いた。

東武線の野田市駅から郷土博物館の周辺なので、何度も歩いている場所だけど、野田という町に行くたびに不思議な感じがする。

その不思議さは決して、悪い意味ではなく、21世紀の首都圏によくぞこんな町が残っているなあという感動も含んでいる。

野田市域でも少し郊外にゆけば、ショッピングセンターあり、ファミレスや量販店ありという、日本の典型的ロードサイドの見飽きた風景が展開されるのだが、市の中心部はしっかりと古い町の風格を漂わせている。

薄汚く軒を並べるミニ開発のマンションがない。

コンビニに代表されるチェーン展開の店もない。

最近は慣れたが、街中は醤油の香りに包まれている。

明治から大正期に建てられた建物が、ごく自然に現役として使われている。

昨夏に行った佐原と同じように、独特の空気感がある。

これが江戸期の建物中心の街並みならば、「小江戸」なんて言われて観光客が押し寄せているだろうが、1920年代前後の建物なので、つい最近までは誰もその価値に注目していなかった。

けれど最近は、当時の建造物や工作物が近代化産業遺産として注目を浴びるようになってきた。

工場を観光して歩くのも当たり前になってきた。

マイクロマガジン社という出版社からでているムックなど「醤油しかない」などと野田を軽蔑したような書き方で、笑いをとろうとしているが、そんな通俗的な物の見方から離れて、創造力の翼を広げて、改めて身近な町を見直すと、再発見がいろいろある。

だから面白くて、まち歩きが止められないのだ。

2011年5月 8日 (日)

やっぱり歌謡曲大好き!

疲れてボーっとしたりしたい時、園まりの名曲「逢いたくて逢いたくて」を聴きたくなるので、ユーチューブで見ていたら、大学生の時分、集中的に歌謡曲を研究していた時期があって、シングル盤を年間百枚以上買っていた頃を思い出した。

当時はいまのJ-POPのことをニューミュージックと呼んでいて、世間一般の「若者なら当然ニューミュージックでしょ。」

という風潮が気に入らず、スタジアムジャンパーを着て、ラケットを持ち、ハマトラの彼女を連れて町を闊歩するようなクラスメートたちの笑いものになっても気にせず、あえて時代遅れの歌謡曲を楽しんでいた。

高校3年まで、いまならカサンドラ・ウィルソンが歌うようなディープなアメリカ大陸のルーツミュージックを聴いていたのに、突然歌謡曲を応援しだした自分の心境の変化がいまでも不可解だなあ。失恋してホンネで生きることにしたということだったのだろうか。

ホントは今、西洋人が浮世絵を見るのと一緒で、アメリカン・ルーツ・ミュージックを聴くのと同じ西洋人の耳で、日本の歌謡曲を聴くと面白いって感じたからなんだけど、まあそんなの今更どうでもいいや。

ところで、その時分大好きだった歌は、和製ポップスから演歌まで、いろいろあるけど、中でも一番好きだったのが、いしだあゆみの「大阪の女」。

いしだあゆみはその頃すでに歌手ではなく、俳優としての仕事が多かったので、TVで見たこともなく、どこでこの歌を知ったのか全く思い出せないが、今聴いてもゾクゾクするほどいい。

ザ・ピーナッツのオリジナルも大好きだし、園まりやテレサ・テンのバージョンも名唱だけど、

いしだあゆみのハスキーな歌声はそれ以上に魅力的だし、シングル盤のジャケット写真も超がつくほどの美人だから、このレコードは隅から隅まで、全部大好きだった。

ウィキペディアあたりで作った曲の一覧をみるとわかるけど、橋本淳ていう作詞家は阿久悠以上に日本歌謡史に残る人物だと思う。

土曜日の深夜、ウィスキーの水割りでも飲みながら聴くには最高の歌ですよ。

2011年5月 7日 (土)

「コドモノクニ」の世界へ行きたい

連休の終盤、根津神社のつつじ祭りの帰り、久しぶりに東京一有名な町の小さな書店千駄木往来堂書店に寄った。

しばらく行かないとダメになっている店が多いし、妻と娘が一緒だったので、果たして二人が楽しめる場所かどうか、ちょっと不安だった。

けれども、大正解。

妻が『コドモノクニ名作選』を見つけて、嬉々として買っている。

帯にはこんなフレーズが踊る。

「東山魁夷、藤田嗣治、竹久夢二、亀倉雄策、脇田和が絵を描き、野口雨情、北原白秋、サトウハチロー、金子みすゞ、まど・みちおが詩を寄せ、室生犀星、濱田廣介、小川未明、内田百けん、坪田譲治が童話を創り、「兎のダンス」「アメフリ」「雨降りお月さん」などの童謡が生まれた - 。幻の絵雑誌がここに甦る!」

これだけでもすごい、確かに豪華メンバーだけど、僕と妻の意見が一致したのは、絵画主任だった岡本帰一の作品で、存在感が頭ひとつ抜けている。

岡本帰一の作品を見ると、子供時代(もしかしたら生まれる前)の一番遠い記憶が甦るような、懐かしく優しい気持ちにさせてくれる。

戦前の昭和初期の日本に、こんなに優しくて、モダンな世界があったんだ。

もしかすると日本という国の長い歴史の中で、僕が一番好きな時代が1920年代のこの時期かもしれない。

松岡正剛の名著『日本流』の世界とも共通するけど、『コドモノクニ名作選』はビジュアルに理解できるから、より一層心に響く。

岡本帰一が描いた「遊ぶ子どもたちの影絵」がすごくいい。

僕の子供時代もこうして遊んだ。

それなのに、戦争がこの子供たちから遊びを奪った。

大人たちよ。ここに立ち返ろうよ。

坂本龍一が寄せている「贈る言葉」の一部を紹介する。

『コドモノクニ』は子どもに夢を託すものだったのだろう。

ここにはその当時の人たちの理想がある。

そんな『コドモノクニ』を日本人は長い間忘れていた。

でも忘れているだけで、つながっているんだと思いかえさせてくれる。

そして子ども目線の大切さを。

写楽斎、写楽展に行く

5月5日のこどもの日、体調が最悪だったが、上野の国立博物館特別展「写楽」に行ってきた。

最近、金曜夜の美術館まわりをおやすみしていたので、大規模は美術展は久しぶりだし、会場は巨大で、一周するのに3時間近くかかって、ちょっと疲れた。

同じ場所で数年前に北斎展も見たことがあるけど、89歳まで死ぬ直前まで活躍した美の巨人北斎に比べると、10ヶ月で消えた写楽は旗色が悪い。

題材も役者絵がほとんどなので、歌舞伎に疎い私には、やや単調な感は否めない。

それを救ったのが喜多川歌麿や蔦屋重三郎の展示だった。

特に歌麿。たまたま千葉市美術館で買った図録でしかみたことがなかったので、魅力がもうひとつ理解できなかった。

北斎や広重なら、図録で見ても大胆な構図が魅力的なのがわかる。

美人画なら鈴木春信の「笠森お仙」のような小粋な町娘がベストだと思っていた。

歌麿の描く女性の魅力はイマイチどころか、全然興味がわかなかった。

ところが、低い照度の中で浮かび上がる「高島おひさ」「灘波屋おきた」や「ポペンを吹く娘」の白い肌や着物の美しさに驚いた。

「もって帰りたい」本気で思った。

外国人が浮世絵に熱中したのも当然だ。

写楽展に行って、歌麿の魅力に目覚めたのは、皮肉な結果だけど、もっと勉強するうちに写楽の作品の魅力に目覚めるかもしれない。

まだまだ、浮世絵は奥が深い。

2011年5月 4日 (水)

ドラッカー思想の真髄

最近はめったに社会科学系の本も読まず、文学や美術や音楽のことばかり書いているから世間様からは文学部出身だと思われている。

それに、あんまり色気のある話題じゃないから、書かないでおこうかと思ったが、憲法記念日を迎え、これ以上政治家や巨大企業の経営者など権力の上層にいる方々に調子づかれるのもシャクなので、一言記しておきたい。

「もしドラ」の人気から、このところドラッカーブームで、会社の近所の本屋に行ってもドラッカーの独立したコーナーまで設けている。

学生時代、少々ドラッカーをかじった経営学徒としては、きいたふうなことを言うのも嫌味だし、それこそ洒落臭いので、しばらく様子を見ていたが、どこまでしっかりとドラッカーの思想が理解されているのか不安になってきた。

ドラッカーはもともと政治学、社会学、哲学といった分野で健筆をふるうジャーナリストで、ファシズムが猛威をふるうヨーロッパを逃れて、GMの分析を行うことによって現代社会を理解する上で大規模な組織体に着目した経歴を持つ。

結果的に企業経営分析の専門家として、名声を得るのだが、初期ドラッカーを知らずに、「マネジメント」だけ語る人がいるのは、ちょっと納得がいかない。

ドラッカーという思想家は、保守派の企業経営者が思うほど、体制側にとって座りのいい存在ではなく、経営者に対して、生涯を通して常に「高潔な品性」と「責任」を求め続けた。

「マネジメント」のサブタイトルが「課題、責任、実践」という点に、彼の思想の真髄が現れている。

復刊ドットコムを見に行ったら、学生時代に教わった三戸公教授の名著「ドラッカー」が復刊されるらしい。これを機に、大いにドラッカー思想が深いところで議論されることを希望したい。

2011年5月 2日 (月)

春の野原を散歩するような名曲

宮田さんの絵を見たら、なんだか、暖かい気分になったので、久しぶりにビル・エヴァンスの「不思議の国のアリス」を聴きたくなった。

昔、書いた小説の一節にこんなことを記した。

「ビル・エヴァンスの古いレコードをターンテーブルの上に載せた。陽が傾いて少し寒くなった店内に、春の野原を散歩するようなピアノの音が響き渡った。」

この曲もいろんなバーションがあるけど、やっぱりエヴァンスがスコット・ラファロと競い合うこの演奏が最高傑作だと思う。

今日買った絵に「闊達自在」って書いてあったけど、まさにこの演奏は闊達自在そのもの。

あの変てこりんなアリスのお話ともマッチングして、何度聴いても飽きない。

すでに数百回は聴いている。

ラファロは、録音直後に事故死し、エヴァンスも30年以上前に亡くなったけど、この演奏は永遠に残る名演だね。

宮田聡さんの絵を見てあったかい気分になった。

花水木通信の金子さんに教えてもらって、宮田聡さんの作品展を見に行ってきた。

場所は新松戸のダイエーの近所にあるギャラリーウインズ。

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家の近所にこんな場所があるなんて、全然知らなかった。

宮田聡さんのことは初対面で、何も知らずにおじゃましたのだが、詳しくは花水木通信で見て下さい。

金子さんが書いているように、温厚なお人柄の宮田さんのハートを感じる絵が並んでいた。

ポストカードに描かれた多くの作品は、きっと宮田さんの心象風景をそのまま描き出したものなんだろう。

優しく、懐かしく、切ないけれど、同時に命の輝きも確実にとらえている。

絵に添えられたコメントも素敵で、僕は「闊達自在」と書かれたポストカードを買ってしまった。

荘司邦幸くんという武蔵野美術大学を出て葉山で絵を教えていた、幼稚園時代からの友達を数年前に失った。

彼とはいつか一緒に何かやりたいと思っていたのに、かなわぬ夢となってしまった。

地元でこんな風に頑張っている画家さんがいるのは心強い。

本を読んでも虚ろな気分になるだけの余震がつづく毎日に、光明がさしたような、あったかい気分になった。

2011年5月 1日 (日)

いまこそ読まれるべき『都市廻廊』

本日アップした「無人島へ持ってゆく1冊」は3年前に書いたもので、ジャストシステムからココログへの移行時になぜだか、消えてしまった。

そこにも書いたように『都市廻廊』は僕の長年の愛読書なのだが、長い間品切れ状態が続いている。

書店では吉村昭の「関東大震災」や「三陸海岸大津波」が売れているようだが、僕は震災後の町をどうやって作ってゆくかを考えるのに、これ以上の名著はないと思っている。

こんな時出てくるのが、明治に学べだの、終戦直後に学べだのといった、中央集権国家への指向性で、ちょっとウンザリです。

「日本はひとつです」なんて、メディアがキャンペーンを流すたびに、日本はひとつじゃないから、東北はこうして奪われるばかりの状態が140年間続いたんじゃねえのって、毒づきたくなってくる。

『都市廻廊』は、エベネザー・ハワードの生き延びるための本来の「田園都市」を論じ、江戸期からつづく「水の東京」の復権へ先鞭をつけた本で、いまなお読み返すたびに新たな発見のある名著なのに、どうしてこんな状態なんだろう。

オンデマンドでも、電子出版でもいいから、販売してほしい。

無人島に持ってゆく一冊

よくある有名人アンケートで、無人島に持ってゆく一冊というのがある。有名人でもなんでもない自分が紹介するなんざ、野暮なことだと承知で、書いちゃうと、僕の一冊は長谷川堯「都市廻廊-あるいは建築の中世主義」中公文庫だね。

毎日出版文化賞受賞作のこの本は残念ながら絶版で、新品は手に入らない。僕は、たまたま本屋で売れ残りを見つけて定価で買った時、興奮して、むさぼるように読んだ記憶がある。

そんな状況だから興味のある人は図書館で借りてくださいとしか言えないのがつらいが、内容のさわりを紹介すると、石川啄木と大杉栄の紹介から始まり、白樺派、クロポトキン、高村光太郎と夏目漱石を経由して、慶應義塾の図書館に関する建築の話に入ってゆくというスタイルで、33年前の作品なのに、まるで興味の赴くままインターネットのリンクをたどって、どんどん読み進むような知的興奮に満ちた評論集である。

僕はこの本で、ラスキンとW・モリスを知り、日本橋を例にとって川から都市を眺める視点を獲得し、北原白秋や木下杢太郎のパンの会を知り、永井荷風の「日和下駄」と江戸と水の東京や路地の東京を知り、今和次郎の考現学を知り、クロポトキンの「相互扶助論」や、香川豊彦や当時の労働争議を知り、E・ハワードの田園都市を知り、大正時代の郊外住宅地への関心へとつながっていった。つまり、僕が面白いと思うもの満載の一冊なのである。

この本を読んで、これらの対象に関心が芽生えたのか、関心があったからこの本を読んだのか、今となってはもう思い出せないが、何度でも読み返す座右の書であることは間違いない。

この本に出会わなかったら、海野弘「モダン都市東京」も、陣内秀信「東京の空間人類学」も、磯田光一「思想としての東京」も、川本三郎「大正幻影」「荷風と東京」も、一生読むことはなかったろう。

いい方にか、悪い方にか、そんなこたぁ誰にもわからないけど、僕の人生を狂わした、ちょいと罪作りな一冊であることは間違いない。

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