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2011年1月

2011年1月23日 (日)

敵を間違えちゃいけないよ。

三十年以上前に小野二郎がハーバート・リードの「芸術を通しての教育」を題材に、いくつかのエッセイを書いた。

それらは死後、著作集第3巻にまとめられて、平野甲賀の装丁も美しい『ユートピアの構想』という本になった。

僕は若いときに夢中になって読んだけど、読むたびに小野二郎特有の難解な文章に苦労して、理解できたような、できないような、中途半端な気分になった。

ところが最近、岡本太郎、中沢新一、宗左近らが縄文時代について書いた本や、印西市に住むナチュラリスト、ケビン・ショートさんが古代ケルトについて書いた本のような柔らかな本を読むうちに、おぼろげながら小野二郎が言いたかったことが少しだけ理解できたように思える。

例えばドイツのバウハウスについて書いた文章である「『芸術教育』から『芸術による教育運動』へ」の一節。

「近代社会の到来以前は、すべての民衆の中に、普遍的で統一ある民衆文化が存在し、誰もが歌い、踊り、物を作り、文を綴り絵を描くといった生活があったと信じ、あらゆる人の魂の底に、かつての民衆芸術をとり返し、汲めどもつきぬ創造力の源泉としようというのがこの運動の思想であるという。」

そしてもうひとつ。

「リードがここで芸術は学校の教育のしごとのなかでの一つの孤立した「教科」といったものにとどまっているべきではなく、あらゆる教科が芸術の一種だとみなされなくてはならぬという主張をしている」

そして「物質に孕まれた夢」の一節。

「それは当然、人間と物質の関係と、人間と人間の関係との結節点たる労働の問題に深くかかわってくる。労働を、生産と消費のサイクルから、また、欲望と満足のサイクルから解き放つ運動をこそ、芸術=教育運動の主要な課題にしなければならぬ、と私は信ずる。」

この文章の隣にケビンさんのこんな文章を並べて見るといい。

「ケルトをはじめ、古代ヨーロッパの神話には、大きな力をもつふたりの神が登場する。大地の母であり、この世界の創造主たる女神と、その連れあいで、頭に角を生やし、森と動物たちの精霊である男神だ。それを取り巻く、愛や闘い、死、芸術、音楽、詩などを司る神々。薬草、馬、鹿、井戸と水、火、海、夢など、古代ヨーロッパ人はあらゆるものに神格を見出し、さらには、森や木など、森羅万象に精霊や超自然の力が宿ると信じていた」そしてクリスマスもイースターもハロウィンもキリスト教と関係の無い古代信仰に根ざしている祭だという。

小野二郎の言う「近代社会の到来以前」を「キリスト教以前」と読み替えると、人類社会に普遍的な、芸術も生産活動も文学も一つに解け合い古代信仰に彩られた社会にたどり着く。

21世紀の僕たちを不幸にしている強敵は、進歩的文化人でも日教組でもファシストでもなく、アメリカでも中国でもロシアでもなく、資本主義でも共産主義でもイスラム教でもなく、スピードと生産性と効率と豊かさと便利さを追い求めてきた結果もたらされた文明が曲がり角にきているのだという認識が必要だということ。

経済学や政治学の常識が通用しなくなってきている、これからの社会を動かしてゆくのは職業芸術家だと言っているのではない。

そんな単純な話ではない。

僕たち一人ひとりの心の奥底に眠っている詩心や芸術的感性を取り戻すことこそが、まわりくどいやり方かもしれぬが、一番の近道であるような気がしてならないのだ。

そう思えば、去年から続けている素人目線で見る金曜日の美術館通いも、決して無駄ではないのかもしれない。

魔法の杖なんかないんだよ。

子供の頃からずううっと、人が生きてゆくには何か黄金律があると思って、長い間それを探し求めてきた。

そのたびに本にだまされ、人にだまされ、挫折感と疲労感にさいなまれてきた。

いや、今思えばだまされたと思ったこっちが馬鹿なだけだったのかもしれぬ。

勝手な幻想をいだいたのはこっちのせいなんだから。

人が宗教やマルクス主義やナチズムのような思想を信仰する姿は美しく、気高いが、滑稽でもある。

だって他人が作った宗教や思想なんて、嘘ばっかりだからだよ。

ある人にとっては、自分の目で確かめた事実かもしれないが、それを見ていない別の人にとっては、ある人の口を通して語られた言葉は、事実ではない。

簡単な伝言ゲームを見れば一目瞭然である。それなのに、頭のいい人は無理矢理それを事実と偽って、善良だが愚かな人々に信じ込ませる。

人間の言説はすべからく、ポジショントークだ。

立場が変われば、さっきまで言っていたことなど忘れて、違うことを言い出す。

それが人間という生き物のどうしようもないサガ。

だから僕はキリスト教とか、マルクス主義だとか、頭のいい人が考えた大文字の理論は一切信じないようにしている。

自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の皮膚で感じた事実だけを信じる。

そして、そんな大文字の理論に頼らず、自前の手作りの思想をこしらえる。

この一五年間ほどやってきたのはそんな努力だった。

独裁者が魔法の杖で万事を解決する。

そんな幻想をもち、魔法の杖に頼れば、だまされるに決まってる。

学校でいい成績をとったよい子ちゃんほど、だまされる。

オウム真理教の事件がその典型例だよね。

それから、共産主義が壊れて、資本主義万歳の世の中になって、すべてがうまくゆくと信じた善良だけど愚かな人々は、金融機関に財産を奪われた。

千円札一枚か、二枚使って、ちょっとだけ経済史の教科書を読めば、財産を失わずにすんだのにね。

魔法の杖なんかないんだよ。

宗教も思想も哲学も、ぜーーーんぶリセットして、自分が直接取材したものだけを信じる。

例えば明治の初年に新政府がどんな宗教弾圧を行ったか、かつて北小金にあった旧一月寺の遺構や、国府台の総寧寺の現状を見れば一目瞭然である。

教科書読んで、事項を暗記したって意味ないよ。

目で見た、耳で聞いた情報を、心に焼き付けて初めて自分の血となり、肉となる。

歴史の勉強って、そういうことだと思う。

今はウェッブを通じて世界大の図書室を自分のiPhoneの中に作れる時代だ。

だったらなおのこと、iPhoneを片手に、万巻の書にふれながら、町を歩いて、人に会って、何でも見て、自分のオリジナルの思想や世界観や歴史観をこしらえることが可能な時代になった。

この社会変革を大いに利用しようぜ。

未来を担う若者たちよ。

以上は昨日、ある会合で感じた所感である。

2011年1月15日 (土)

やっぱりジェイムス・テイラーが好きだ。

水曜日にNHKの番組でイーグルスを特集していたので、ぼーっと見ていたら、最後に「デスペラード」をやった。

イーグルスも「デスペラード」もリアルタイムで聴いたけど、当時の僕にはフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」みたいで、おじさん臭いダサイ曲、こんなのロックじゃないという印象だった。

それよりもずっとセンスが良くて、当時好きだったのがジェイムス・テイラー。

細野晴臣が歌を歌えなくて悩んでいた若い頃、マネしたことでも知られている。

そう思うと、我慢できず、ユーチューブ見に行く。

最近やったキャロル・キングとのジョイントコンサートがアップされている。

画像も綺麗だし、頭がはげ上がって、すっかりお爺さんになったJTだけど、声は変わらず、歌が好きで、アコースティックギターが独特で、とってもいいんだこれが。

「きみの友達」「スウィート・ベイビー・ジェイムス」とかね。

それにキャロル・キングも負けず劣らずいいな。

いい感じで歳を重ねている。

僕が本格的に音楽を聴き始めたころ、「イッツ・トゥー・レイト」とアルバム「つずれおり」が大流行して、へそ曲がりのロックファンとしては、なんとなく敬遠してしまったが、詩も曲も声も全部いい。

ナチュラルで健康的な魅力にあふれている。

で、話を戻すと、JTが「ろっかばい・スウィート・ベイビー・ジェイムス」なんて歌うもんだから、つい細野晴臣の「ろっかばいまいべいびー」が聴きたくなって、さらに深みにはまる。

細野晴臣、吉田美奈子、大貫妙子、矢野顕子と見ていたら、時計は深夜2時を回っていた。

ディランはどうも最近変な声のおじいさんになってしまったし、J・レノンもG・パーソンズもザ・バンドのリチャード・マニュエル、リック・ダンコもとっくに亡くなっているし、余計にJTの健在ぶりがうれしい。

ジャズも、R&Bも、ブルーズも、日本の歌謡曲も全部好きで、たくさんレコードを集めたけど、やっぱりこの頃のアメリカン・ロック&フォークが一番素敵だな。

スマートフォンもインターネットはもちろん、BS放送も、ビデオもなかったあの時代。

友達と下町の灰色の空の下で、音楽雑誌の写真を見ながら、ロサンゼルスやニューヨーク郊外のウッドストックに憧れていた70年代初頭のあの時代。

とても幸せだったと思う。

2011年1月10日 (月)

なんだか面白くなってきた

去年、紙の本よ、さようならと言ってから、ガンガン紙の本を買い続けている。

それも実はクラウドコンピューティング関係の本が多い。

iPhone4を買って、息子から新しいPCを譲ってもらって、10年ぶりに情報のデジタル化に弾みがついてしまった。

どのみち世を憂いても、デジタル化とネット化の波は避けられない。

だったら、とことんやってみて、その可能性と限界を知るべきではないかと思う。

一方で、「夜泣き石」伝説を取材したあたりから、南総里見八犬伝や、心霊スポットといわれる里見公園への興味がふつふつとわいてくる。

鬼才山田風太郎が書いた『八犬伝』はものすごく面白くて、岡本綺堂や、池波正太郎を数少ない例外として、江戸時代好きなのに時代小説全般が苦手な僕としては、久々のヒット。

北斎と馬琴の人物描写が、ものすごくうまい。

山田風太郎の場合は、大学生の頃読んだ忍者物なんか、時代小説というよりSFに近いから、『八犬伝』や馬琴と見事にマッチしている。

そして、日蓮宗と徳川幕府のビミョーな関係を考えると、市川という町自体が反体制的な、マジカルパワーに満ちあふれた町で、荷風が晩年を過ごしたのも、偶然とは思えず、なにか因縁めいたものを感じる。

以前から、あのお金持ちの荷風がどうして、東京に戻らず、十数年も市川に住んだのか、納得がいかなかったが、すこし理解できたような気がする。

素人の大胆な予想としては、市川に比べて松戸は水戸徳川家の影響が強く、幕府に近すぎて、アンダーワールド的要素が少ないので、あまり面白いと思わなかったのかもしれない。

論文が忙しくて、千葉文学賞どころではなくなってしまったけど、忙しいなりに充実した2011年が始まる。

今年は面白いことを、いっぱいやるぞ。

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