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2008年8月

2008年8月31日 (日)

新松戸郷土資料館に行った

昭和47年に今住んでいる小金城趾に引っ越してきた。

国鉄の北小金が最寄り駅で、新松戸駅はまだ開業していなかった。

新松戸駅の周りは数キロ先の江戸川の堤防まで見えるんじゃないかと思えるほど何もない草原地帯で、駅が出来たばかりの頃、電車を降りるときに高校の級友たちにからかわれた記憶がある。

そんな何もなかった新松戸地区の歴史が一覧できるミニ博物館が新松戸郷土資料館だ。

何もないから、何の歴史もないわけではない。

縄文時代東京湾の入り江だった頃や、水害に悩まされ、開削と改修を繰り返し、村々の争いまで巻き起こした江戸時代など、新松戸地区には新松戸地区なりの歴史があったことを知り、大変興味深く見学した。

松戸にも身近にこんな場所がある。

そして、近隣の農家から寄贈された古い農機具や家具がとても美しいデザインで素敵だった。

母方の祖父がまだ現役だった昭和40年頃まで、茨城の家にもこんな農機具や家具があったことを思い出した。

幕末の頃建てられた家だったが、蔵にある農機具と一緒に、あっという間に壊され捨てられた。

そんなノスタルジーにもひたれる資料館。なかなかおすすめである。

二つの本屋があった町

いま、随筆を一本書いている。

かつて新松戸駅の近くにあった泉書房という本屋のことを書いている。

新松戸にはかつて二つの本屋があって、いまマツモトキヨシ薬局のあった場所にユーカリ書房(書林?)があり、もうすこし歩いた洋菓子のグランドールの前に泉書房があった。

ユーカリ書房は通路を走り回る店員には閉口したが、文庫本や新書の品揃えが完璧で便利だったし、泉書房はご主人の良書に対するこだわりがこちらまで伝わってきて、戦後の教養人の香りを感じた。

結婚と同時に松戸から浦和に転居し、さらに三郷に長いこと住んでいるうちにこの二つの本屋はなくなり、新松戸の駅前にはパチンコ屋と飲み屋が林立し、客引きが横行する常磐線沿線でも屈指の品のない町に成り下がった。

団塊の世代が移り住み、東葛から中央線沿線のような新しい文化(カウンターカルチャーとでも言うか)を発信する可能性を感じさせた新松戸は、ぼくが松戸を離れているうちに三つの路線が交差する平凡でにぎやかなターミナル駅になった。

これを為政者は街の活性化だとか、発展とかいうんでしょ。

こうしてぼくの心は新松戸から離れ、流山線に向かい、馬橋や小金城趾や流山を発見した。

カウンターカルチャーから、小林一茶・秋元双樹・大川立砂の江戸文化へ。

新松戸はだめになったが、いよいよ東葛飾は面白い。

2008年8月30日 (土)

スモール・タウン・トークの一回目

ブログの更新がペースダウンしているのは、勤め人の仕事の関係もあるんだけど、一番の原因は原稿執筆中だってこと。

この一月以内に4本も書かなきゃいけない。

エッセイならまだいいんだけど、紀行文が2つもある。

いろいろと取材もしたいし、文章の推敲だって大変。

というわけですが、なんとか本日一本目の原稿完成です。

こういうときは、難しい話なんかやめてぼーーーーーーーーーーーーーーーっと、したい。

そんなときにいいのが『ボビー・チャールズ』。

昔、ワーナーから発売されて、すぐに廃盤になり、幻の名盤と言われ、マニアの間で大騒ぎされたアルバムだ。

今はこんなのが簡単にCDで手に入る。ある意味いい時代だ。

で、数年前に買ったんだけど、そんな大それた名盤ってわけじゃない。でも、ボビーのゆるくて、抑揚のない歌がなんともとぼけた味わいがある。

気がつくと結構頻繁に聴くアルバムになっていた。

中でもシングルになった「スモール・タウン・トーク」がいい。

どうってことのない小さな町のうわさ話を歌った曲だ。

こんな脱力した空気感を漂わせる歌を聴きながら、夕焼けを眺めて、高い建物もなく殺風景で、ひとけのない三郷から吉川あたりの江戸川土手を、たった一人でママチャリで走ったらサイコーだと思う。

何故だかわかんないのに、涙がこぼれそうになるだろうな。

そうそう、同じシチュエーションならジャッキー・マクリーン(as)の古いアルバムもお薦めです。

ということなので、流山の小林一茶と近藤勇はまたの機会にして、本日はばかばかしい「スモール・タウン・トーク」でした。

2008年8月28日 (木)

ママチャリで行く流鉄沿線(上)

午後から少し時間がとれたので、ママチャリに乗って馬橋から流山まで流鉄沿いの小さな旅をした。

出発はまず「馬橋」から。

中根立体のたもとにある小さな橋である。コンクリートで出来たやや古風な橋で、山本鉱太郎『旧水戸街道繁盛記』によれば、もともとは木製だったらしい。

子どものころからなじんだ馬橋という地名だが、初めて「馬橋」と対面して、納得。心のスイッチが江戸時代に入る。

そして東京ベイ信金馬橋支店にある大川立砂旧宅跡へ。

現在は標柱以外何の痕跡もなく、目の前にあったという大川米店も消えていた。写真を撮っていると、信金から出てくる人々から不思議そうに眺められた。松戸市民ったって、小林一茶は知ってても、大川立砂なんて知らない人がほとんどだから、仕方ない。自分も初めて来たんだから大差ないけどね。

そこから、新松戸郷土資料館に行ったが、月から水まで休みだと聞いてがっかり。二年前の『東葛流山研究』には水曜日から日曜日開館と書いてあったのに…。

やむを得ず、そのまま鰭ヶ崎の東福寺にゆき、山門と階段を撮影。

左甚五郎作と言われる「目つぶし鴨」の彫刻が有名だけど、ぼくはこの山門と階段が好き。市川真間の弘法寺ほど立派じゃないけど、そのぶん素朴な野趣があって、三船敏郎のような素浪人と侍が決闘していそうな迫力を感じる。真ん中の手すりがなければもっといいんだけど、仕方ないか。

そして、南流山駅の近くにあるそば屋源介庵に。

昼ご飯がまだで、小腹が空いたので、冷や酒とそば味噌とかけそばを注文する。源介庵は極めて平均点が高い店で、気がつくと何度も行ってしまう。大人のオアシスのような店だ。

流山はソバ屋のレベルが高く、この近所でもそばや酒だけならもっと上手い店もあるし、もっと接客のいい店もある。でも立地や入りやすさ、クリーンネスなどいろいろ加味すると、ナンバーワンだな。

江戸ソバリエとかいうソバ屋本で絶賛されるだけのことはある。

長くなったので、平和台から先の後半はまた明日。

2008年8月24日 (日)

オリンピック雑感

オリンピックが終わった。

ぼくのことを純粋に文学系だと思っている人は、意外だと思われるかもしれないが、実はかなりのスポーツマニアである。

大学を卒業するとき、家が裕福だったら、アメリカに遊学してメジャーリーグを見て回って、スポーツマネジメントを勉強したかった。

当時のメジャー26球団のスターティングラインナップは完璧に暗記していたな。

貧乏な家で当然、そんな夢はかなわなかったが、10年前自分の息子たちのために住んでいる地域にバスケットボールスクールを作る程度のことは出来た。

技術面に優れたコーチがいたので、マネジメントをやってあげた。

何で自分にそんな情熱があったのか、今思うとスポーツに限らず、ぼくは子どもたちや若い人が本来持っている才能を発見し、自らそれを開花させてゆくプロセスをながめるのが、たまらなく好きだからだと思う。

「北島は天才じゃない」なんていう話がある。

体が硬くて、最初は誰も注目するような選手じゃなかったという。

それはそうだろう。アスリート能力だけで、超一流の選手が出来ると思ったら大間違いだ。それは、他の分野でも言えることだと思うけど。

じゃあ、伸びる人はどんな人かって?ぼくだってたいした選手や人材を育てたわけじゃないけど、これだけは言える。

多分本人にもなんだかよくわからないけど(つまり自分の内側から染み出てくる)、ある小さなこだわりがあって、それに頑固にこだわり続けるやつ。そんなやつが一番怖い。

(※鶴見俊輔の言う「卒業しない人」もそれに近い考え方かもしれぬ)

自分の心の中にゆとりの空間と、クールさを持ち合わせている。

その二つが成長の原動力なのだろう。一つの小さなこだわりはやがて、いくつものこだわりとなり、やがて大きな自分独自の世界に育ってゆく。

そんな奴は目を見ればすぐにわかる。

何をやっても中途半端以下で、たいした才能も持ち合わせなかった自分が人に誇れる唯一の才能が、それである。

残りの人生で、どれだけそんな目に出会うことが出来るんだろう。

そして、それよりも普段自分はどんな目をしてるんだろう。

鏡でしか自分の目を見ることが出来ないのがつらい。

オリンピックが終わった今、それが一番の気がかりである。

2008年8月23日 (土)

大分県の小さな町と旧水戸街道沿いの建物の話

最近、建築家のHさんから聞いた話が面白かった。

Hさんの奥さんの実家は大分県だが、最近臼杵という町が面白いという。

湯布院という町は全国的に有名だが、臼杵という町については「名前は聞いたことあるけど…」という程度で、「うすきね」と読むのではなく「うすき」と読むのもそのとき初めて知った。

「湯布院は有名になりすぎて、最近俗っぽくなった。臼杵の落ち着いて、懐かしい町並みの方が遙かに面白い」と言って、臼杵みてある記という散策マップを見せてくれた。

その地図を見ただけで、海があって、鉄道があって、いくつもの川が流れ、野上弥生子の記念館があって、歴史のある町並みが想像できる。

もう少し調べてみようと思い、国土交通省のデータベースを見てみた。

事例番号143 守り創る暮らしと交流(大分県臼杵市)

http://www.mlit.go.jp/crd/city/mint/htm_doc/pdf/143usuki.pdf

人口45000人程度の町では、財政規模だって大したことはないだろう。

そんな地方の小さな町が舗装を石畳に変え、アーケードを取り外し、さらにまちぐるみでソフト面でも様々な取り組みを行っている。

そんな話のあとに、旧水戸街道沿いのある古い建物が松戸市からろくな援助の手もさしのべられず、やむなく取り壊されようとしている話がでた。

Hさんと一緒にその建物の中に入ったことがある。

江戸時代の建物ではないらしいが、激動の明治・大正・昭和を乗り越えてきた歴史の生き証人である建物があっさり取り壊されようとしている。

こうして、日本中どこにでも見られるコンビニエンスストアのような町が作られる。

そんな無味乾燥な町にこれから、どんな暮らしがあるというのだろう。

そしてそこからは、どんな物語が生まれるのだろう。

2008年8月21日 (木)

大人になってよかったね。

崙書房出版の吉田さんに頼んで、大金平書店に本を届けてもらった。

「新京成沿線ガイド」という本である。

地味なタイトルの薄い本なので、あまり期待していなかったんだけど、読み始めると止まらない。

松戸の東部・鎌ヶ谷・習志野という今までノーマークだったエリアについて、わかりやすく書いた本で、知らないエピソードが満載だ。

例えば下総台地と旧陸軍の関係など、全然考えたこともなかった。

流山市立博物館友の会の会員で、身近に大先生たちがいるから、なんとなくわかったつもりでいたが、松戸で学校教育を受けていない自分は、地元のことでも知らないことばかりだと、改めて自分の無知を痛感した。

この本のお陰で、江戸時代の小金牧のことも少しわかったし、当時崙書房出版にいて担当した竹島盤さん(現在たけしま出版)にも感謝したいな。

そしてなによりも、知り合いの竹島さんや吉田さんが作った本を、大金平書店の店長さんといろんな会話をしながら買うという気分がたまらない。

ヤフーで数十万部のベストセラーを注文して、セブンに届けてもらっても、こういう喜びは味わえない。

文京区や神田あたりならいざ知らず、東葛飾の外れで、作り手の顔が見える小さな出版社で作った本を、家の近所の小さな本屋さんで買えるという等身大の贅沢。

そんな楽しみこそ成熟した大人の町の文化というのだろう。

みんなぁ、大人になってよかったね。

そして、こんな幸せ、なくさないようにしようね。

2008年8月20日 (水)

加藤嶺夫「東京消えた街角」をながめて

昨日泉麻人の「東京自転車日記」に目を通していたら、加藤嶺夫「東京消えた街角」河出書房新社が紹介されていた。

どっかで見たことがある本だと思い、本棚を眺めたらウチにありました。

東京本をまとめ買いしたときに買ったのを忘れていたらしい。

改めて眺めると、これはいい本である。

隅田川の「汐入の渡し」まで写っているではないか。

この写真集のいいところは、ほとんどの写真が自分の小学生時代と重なる昭和四十年代前半という時期に撮影されていること。

この時期の東京23区を空間軸にそって横から串刺しにしたことで、当時の23区それぞれの個性がくっきりしてくる。

それにしても興味深いのは足立区の農村風景だ。

小学四年生の時、社会科で東京都について習ったが、練馬、足立、世田谷は農業の盛んな地域だと習った記憶がある。

そして、木製の橋や、かやぶき屋根や、堀割の目立つ40年前の東京の風景は現在我々が目にしている風景よりも、幕末に外国人が撮影した東京の風景に近い。

昭和39年の東京オリンピックを境に消えたと思っていた、前面に木製のふたがついたコンクリート製のゴミ箱や、上野駅の蒸気機関車が写っている。

いまでも記憶に新しいベトナム反戦運動とビートルズとアポロ宇宙船の時代まで、東京の町にはまだこんな景色が残っていた。

それはちょっとしたショックだ。

だったらこの40年間の変化はなんだったのだろう。

そんな変化する東京の町を川本三郎は「ノスタルジー都市東京」と呼んだ。

変化することを宿命づけられている東京にだけ生まれてくる京都や奈良にはない「懐かしい」という感情。

だから東京はいつも切なくて、美しい。

2008年8月18日 (月)

ママチャリでゆく東葛飾紀行

泉麻人「東京自転車日記」新潮文庫を読んでいたら、最後の解説が面白かった。

自転車好きの建築学者陣内秀信が書いているのだが、スター的な町が固まっている東京の都心・下町にくらべて杉並・中野・練馬といった西郊は延々と似たような住宅地が続いており、風景の起伏に乏しく、範囲も広い。自転車で巡るのは正解だという。

それならば下町というより東京の東郊である葛飾区や江戸川区、千葉県の市川・松戸・流山も同じことが言えよう。

江戸川のサイクリングロードを使えば最短距離で周辺の町に行ける。

葛飾地域は東京の西郊同様に多様な文化や歴史を持った面白い地域なのに、もったいない。

どういうわけかこのエリアは特に南北の公共交通機関が弱い。

走っているのは、京成金町線と武蔵野線くらいで、市川松戸間のバスも渋滞がひどい。

別のブログ「ひまをこしらえて流山へゆこう」にも以前書いたが、乗客減少に悩み経営が悪化している流山線あたりで「サイクルトレイン」という自転車を電車に乗せて走るスタイルをやってくれないかと思う。

全国的には珍しくもないが、どういうわけか西武秩父線のイベント列車以外、首都圏ではほとんど実施されていないようだ。

そんな物珍しさもあるし、馬橋・北小金あたりの住人が流山を起点に江戸川周辺の町で遊ぶには面白い試みだと思う。

実現したら「ママチャリでゆく東葛飾紀行」なんて本が書けるのにな。

2008年8月16日 (土)

東葛地域の隠れた名所を見つけた

流山線の線路沿いを最初から最後まで歩いてみようと思い立ち、馬橋駅からスタートしたが、途中で大雨に降られて、平和台の手前で断念した。

万満寺や東福寺や大谷口歴史公園といったいわゆる観光名所ではなく、自分にとって一番の見所は馬橋駅と幸谷駅の間の新坂川沿いの桜並木だ。

洪水対策や雇用創出効果をねらって作ってはみたものの、あまり役に立たなかった新坂川を盛り上げようと、地元の人たちが植えたそうであるが、春になると電車から見える桜に目が釘付けになる。

ところが走っている電車なので、あっという間に終わってしまう。

一度間近で見てみたいと思っていたが、やっと念願がかなった。

沢山植えられた桜も、今ではほとんどなくなってしまい、いまではこの一角だけだそうだ。

約400メートルほど続く並木道は、車止めの石が置かれ、一部は未舗装の土の道だ。

そして、何故か未舗装の一角だけ川沿いの柵もないので、そこには21世紀と思えぬ古風な雰囲気が漂う。

ふとあたりを見回すと、散歩している人も多い。

桜の花はとっくに散っているが、木の葉がよく茂って、強烈な日差しを遮ってくれて、涼しい。

花見用だろうか、いくつかベンチが備え付けてあるので、腰掛けて冷たいお茶を飲んだ。

これで、お茶うけに和菓子でも用意してくれば、完璧だったのだが…

あまり人には教えたくないが、東葛地域の隠れた小さな小さな名所である。

2008年8月15日 (金)

どうせ拾った命だから

自宅の周りは緑が多いところなので、日中、暑いさなかに犬の散歩に出ると、木々には無数に蝉の抜け殻が、道路にはいたるところに蝉の死骸が転がっている。

成虫になった蝉の命の短さを痛感する

三年前に46歳で亡くなった杉浦日向子の名著(と言っていいと思う)に「もっとソバ屋で憩う」新潮文庫がある。

この本が、数多あるソバ屋の紹介本と一線を画しているのは、まえがきにあるとおり、ソバを批評するのではなく、ソバ屋という、身近なオアシスを楽しむ本ということなのだが、そこには杉浦日向子の人生哲学が反映している。

内容は実際にこの本にあたっていただくしかないが、彼女が長い間難病と戦っていたことを、ぼくたち一般読者も知った今だから、より深い感銘を得られることは間違いない。

軽妙な文章なので、軽く読んでしまっていたが、特にまえがきがいい。

「今日できることは、明日でもできる。どうせ死ぬまで生きる身だ。仕事をどんなに先おくりしたところで、自分の人生の時間が減るわけではありません。

ソンナニイソイデドコヘユク。」

長い間勤め人の生活を続けていると、何故か解らぬうちに急いでいることがよくある。ぼくはこの本を読んでずいぶん救われたし、知らないうちに人生観も変わってきたのだろう。

この一週間に叔母の葬式に出席し、ガンの手術をした従兄弟を見舞った。そして昨日父親がガンの手術のために入院した。

全ての生き物にとって死は確実に訪れる。

日向子さんのような強烈な体験ではないが、自分は海で流されて九死に一生を得てから、どうせ拾った命だから、限りある人生だから、後悔しないようにしようって、ポジティブに生きられるようになったかもしれぬ。

8月15日の終戦記念日を迎えて、よりよく生きるために、死を考えることの大切さを思った。

2008年8月13日 (水)

80年前の野田に行くのだ

東葛飾の最北端に野田市という町がある。

キッコーマン醤油が有名だが、この町には大正から昭和にかけてできた建物や構築物がずいぶん残っていて、散歩好きには見所がたくさんある。

希望すれば興風会館というキッコーマンの作った有名な建築も見せてくれるし、見学不可だが風情のあるキノエネ醤油の工場もある。

葛飾地域を代表する個性的な町として、ぼくはこの町を誇りに思っているが、この町の歴史にはいろいろと興味深い出来事がある。

これから、しばらくぼくは大正から昭和初期の野田へと、タイムトラベルして、歴史上の出来事を取材することにした。

どれだけのアウトプットを生み出せるか、心許ないが、ま、能力と時間の許す範囲で頑張ってみるしかない。

バカボンパパのように「ノダにゆくのだ」なんて、つまんないダジャレでもいいながら行かないと、ちょいとつらい裏事情もある。

タイムトラベルに疲れたら、平成の東京下町に戻るから、心優しき人は吾妻橋やぶそばあたりで、昼酒を一緒に飲んでください。よろしくお願いします。

はっぴいえんどな夏

最近、自転車に乗れるようになった娘と二人で、流山線の踏切を越えて、横須賀中央公園まで行った。

ひとしきり公園で遊んだら、のどが渇いたので、サイダーを買った。

ベンチに並んで腰掛け、一本のサイダーを二人で飲んだ。

ギンギンギラギラの太陽が、暴力的に照りつける、とても暑い午後三時のひとけのない公園だったけれど、木陰でサイダーを飲んでいると、とてもいい気持ちだ。

思わず「田舎の白いあぜぇみちで、ほこりっぽい風がたちどまる…」なあんて、伝説のロックバンドはっぴいえんどの「夏なんです」を口ずさむと、止まらなくなってしまい、フルコーラス歌ってしまった。

その場所はぼくが小金城趾に引っ越してきてからできた新しい公園だけど、それでも30年ほどの歴史がある。木々は大きく成長し、まるで鎮守の森のよう。

木の葉のざわめく音に、強烈な蝉時雨が重なる。

木々の間をすり抜けて、吹き込む風が肌に心地いい。

「鎮守の森はふかぁみどりぃ、舞い降りてぇきた、静けさが…」

はっぴいえんどの歌はいくつも名曲があるが、毎年夏が来ると、待ってましたとばかりに必ずこの曲を聴く。

友達に借りたレコードで初めて聴いた高校一年の夏から、もう何回目の夏なんだろう。

そして、これから先、ぼくは何回、夏にこの歌を聴けるんだろう。

明日入院する父と最後の昼食をとった日。

昼下がりの公園で、そんなことを思った。

五味太郎の夢の構想

昨日の朝日新聞の朝刊に絵本作家五味太郎の意見が載っていた。

その中で特に印象的だったのは、次の一文だ。

ぼくの願い。それは子どもたちが、自分で自分の生活を組み立てる能力をしっかり身につけることです。人生を、それなりにもがきながらも、穏やかに自分のペースで生きてゆくために。

後半の穏やかに自分のペースで生きてゆくという部分。

誰にでも出来そうで、実はかなり難しい。

ところで、東葛地域でリトルプレスを発行しているKさんから、メールをもらった。

一人でイラストも描いて、発行し続けている才人である。

勤め人の傍ら、ぼくもリトルプレスを出したくて、大枚をはたいて平野甲賀の描き文字フォントや秀英明朝を手に入れたり、神田の製本教室にいったり、いろいろと準備を整えた。

ところが、どう考えても長続きしそうもなく、半ばあきらめ気味で、今のようなブログ程度で満足している。

だから、ぼくにとってKさんは憧れの存在なのだ。

ま、Kさんは憧れなんてとんでもないって、謙そんするだろうけど、実際そうなのだ。

五味太郎は上記の文に続けて、以下のように書いている。

そのために、まずは自分を表現できるものを見つけさせてあげたい。絵でも踊りでも、歌でも文章でも。あるいは他の何かで。

文章を書くことが、自分にとって自己表現の手段だと思えるようになるには50年かかった。

ビデオのない時代に年間300本の映画を見て、演劇部に所属する小学生だった自分は中学生になり、映画に関わる企画すること、書くこと、撮ること、描くこと、音や道具を作ること、演ずること等々すべての仕事に関して才能がないと思いこみ、希望を失った状態で、代わりの自己表現手段も見つからず、40年近い貴重な時間を無為に過ごしてきた。

その間に一人は美術で、一人は音楽で盟友になるはずだった幼なじみの友を亡くしてる。一緒にまちづくりのアイデアを出し合った建築家も亡くなった。

今から、ぼくがKさんのような才人にはなれないけど、あとに続く子どもたちに夢を与えることなら、残りの人生でもできるだろう。

五味太郎が「夢の構想」とよぶ、学校とは別に子どもが自立することを応援するシステムを、葛飾地域で実現できたら。

さっき買ってきた速水健朗「自分探しが止まらない」ソフトバンク新書を読んで、そんなことを考えた。

2008年8月11日 (月)

京成線の小さな旅

体調が思わしくないので、午後からいつも通っている浅草橋の治療院に行った。

JRで家に帰るのも面白くないから、地下鉄に乗って金町まで出ることにした。隅田川の下をくぐって、地上に出ると京成曳舟駅である。

僕はこの駅に密かな憧れを抱いている。

小林信彦「イーストサイド・ワルツ」の舞台になった京島という町がここにある。

小林版「墨東綺譚」(※墨の字にはさんずいがつく)ともいえる作品で、いま思うと、今から7,8年前にこの作品を読んだから、自分でも予期せぬことに、小説など書くことになったのかもしれぬ。

それほど好きな作品だった。

「イーストサイド・ワルツ」を思い出しているうちに、電車は八広と改名した荒川駅を通過する。

山田洋次の映画「下町の太陽」で倍賞智恵子と勝呂誉がこの駅で出会ってたな。

そうだ。この駅のそばのコンビニで働いたこともあった。バブルの盛りの暑い夏だった。

店内のスピーカーがサザンの「さよならベイビー」を繰り返し、繰り返し、流していた。この曲を聴くと、あの暑い夏とコンビニを思い出す。

深夜になると、ストーンズの「ギミー・シェルター」が流れた。バイトが休んで一人で店を守っている夜、キースのギターの音が聞こえてくるたびに、何故だか切なくなった。

電車は荒川を越え、中川を越え、高砂へ。

金町行きの電車が来るまで、時間が空いてたので、売店で「京成パンダ」のストラップとコーラを買った。

コーラを飲み終えて、下に降りても、やっぱり電車は来ない。

山手線だと五分くらい空いてもイライラするのに、京成金町線や流山線に乗る時は、まったりと電車を待つ時間というのが不思議とうれしい。

待つことしばし、四両編成の旧式電車が滑り込んできた。

さあ、たった二駅、今度はローカル線に乗った気分で、金町を目指そう。

2008年8月10日 (日)

女と手仕事

妻が仕事で、五歳の娘と二人きりの日曜日。

寝坊して起きたので、頭がすっきりとせずボーっとしていると、

突然娘が「お父さん、ビーズで遊ぼう」という。

「老眼だし、ビーズなんか触ったことないし、絶対駄目!」

なんて言って断ったが、そんなことで解放してくれるような娘ではない。

しぶしぶ、ビニール紐に色とりどりのビーズを通し始めた。

そういえば最初の息子の時は、ビニールで出来た怪獣の人形とミニカーさえあればなんとかなったのに、女の子はなんてややこしいんだろなんて思う。

ところがしばらくすると、だんだん格好がついてきて、自分の作ったのも悪くないじゃん、なあんて考え始める。

女性というのはこんな小さな子供の頃から、こうして手先を動かして、何か美しいものを作り上げることに喜びを感じるのか。

男ばかりの家庭に育った自分には、長男と同じように育てているのに、男と違う感性を持つ娘の存在がとても不思議だ。

そういえば自分の知り合いにも、手作り品を得意にする女性たちがいる。

よく考えりゃ伝統工芸なんてのも、ひげを生やして、作務衣を着ている先生ではなく、そこらにいる農閑期の女性のたちの力に支えられてきたものも多い。

菊池比佐乃「女職人カタログ」パルコ出版は、勤め人の著者が日本中を旅して、女性の職人を訪ねる体験レポートである。ただし絶版。

飾り気のない文体と、その体当たりレポートぶりがさわやかで、95年にでた上記作品の二作目を期待したのだが、残念ながら、その後この著者の作品は出ていないようである。

趣向はちがうが、以前にも紹介した石山修武「現代の職人」晶文社

(林のり子の項)で女性と職人について書いてある。

こちらは入手可能なので、おすすめである。

2008年8月 9日 (土)

追憶のハイウェイ61

クソ寒い冬の夜が好きだ。

去年網走に行ったとき、オホーツク流氷館とかいう施設で、湿ったタオルを渡され、振り回してると30秒くらいで凍ってしまうという体験をしたが、その寒さが心地よくて、みんな震え上がって五分くらいで出てしまうのに、いつまでも一人でそこにいて、流氷に乗って遊んだりした。

冬の夜によく聞いたのが、ボブ・ディランの「追憶のハイウェイ61」である。とくに「やせっぽちのバラッド」という曲が北欧の冬の朝っていう雰囲気でしびれる。何度聞いてもいい。

そんな「追憶のハイウェイ61」だから、夏は用なしで、引き出しにしまいっぱなしだったが、仕事が上手くいかない時なんか、鼻歌で「ライカ・ローリン・ストーーーン」なんて歌うと、妙に気持ちいい。

たまにはいいかと思って、ウチにある小さい車のカーステレオにCDをセットし、思い切り大きい音で聞いてみた。

クソ暑くて狭い車内で、バックの妙にギスギスして薄っぺらい演奏と、若いディランの攻撃的な歌が、絶妙に絡み合って、チープなステレオセットから流れだす。

それは、一文無しのホームレスになったホリエモンのような大金持ちに投げつける歌。

40年近く昔、中学生の頃、初めてこの歌を聴いたが、その時より、こんな失業者の溢れる世の中だからか、50過ぎのオヤジにも時代を超えて歌がビンビンと心の琴線に触れてくる。

暗殺される恐怖と戦い、バックバンドが逃げ出す中で、この歌を歌い続けた当時のディランを思うと、やらせっぽいパンクロックなど、単なる移ろい続けるファッションの一つだったと思う。

ロックはここからどれだけ進歩したんだろう。

イーグルスが76年に「ホテルカリフォルニア」で歌ったように、ロックが時代をリードしていたのは69年までだったのかな。

ま、そんなことどうでもいいや。

ロック史上最高の名盤ではないかもしれないが、ロック史上最高にかっこいいこのアルバムを、生涯の友にすることが出来た。

今日はそれがわかっただけで、充実した一日だった。

2008年8月 8日 (金)

つながる

高校時代の弓道部の仲間と暑気払いをした。

紅顔の美少年だった友がみんな、いい年のオヤジになって口角泡を飛ばして、年齢を忘れて11時過ぎまで語り合った。

そこでふと思いついたのが「つながる」というキーワードだ。

自分の仕事は上手くいっていても、みんな何かしら家族の問題で苦労している。

それぞれ抱える悩みの種類は違っても、何か共通点があると思った。

それが「つながる」ってこと。

深いテーマだから、あまり難しく考えると墓穴をほるけど、ウォークマンに始まる現代のテクノロジーは、弱い人間同士がつながって、力を合わせないと機能しない古いテクノロジーを駆逐しつつ進化してきた。

例えば、風呂に入ること一つとっても、昔の田舎の家で僕の祖父が一番風呂にはいるまでには、薪の収集から始まり、火熾し、火の番と、井戸から水をくみ上げる仕事も必要だった。風呂に入ってからも、湯加減を聞いて、薪追加投入するかどうかのジャッジも必要だった。

それが、今では指先一本、ボタンを押すだけで、だれでも風呂の準備など出来る。とても便利になった。

それなら便利になった分の浮いた時間を僕たちは有効に使っているのかしら。はなはだ疑問である。

古いテクノロジーには不便な分、人と人(時には人とモノとの)のコミュニケーションが必要だった。

そんなコミュニケーションは21世紀の今すべて、不必要になった。

人やモノといった自分を取り巻く環境との活き活きとしたコミュニケーションを失った人間はとてもひ弱な存在である。

農村の地域コミュニティから逸脱し、都会に出てきた人間が会社に入るが、職場コミュニティや組合が機能しなくなり、派遣労働者が全盛の世の中になった。

女性なら家庭に入るも、地域コミュニティにも活路を見いだせない。

そんな多くの善男善女はどうやって救われるんだろう。

僕にとって、ひとつの答えは蒼井優が主演した「おせん」という日本テレビのドラマだった。

一升庵という古いテクノロジーしか備えていない、ちっぽけな料理屋の物語。「つないでゆく」ことだけを使命に奮闘する人々の物語。

それは漫画チックだったけど、そうしないと見えてこないものもあって、僕には大変印象的な場面が多かった。

もしDVDが発売されたら、是非「おせん」の世界に触れてほしい。

2008年8月 6日 (水)

21世紀の新しいムーシカ文庫を始めよう

先日書いた石山修武氏に関する書き込みに対して、このブログを読んだある男性から、僕の文章に誤解を与える表現があるので訂正すべしという旨のメールを頂戴したので、そのメールへの返答を兼ねて、思うところを述べたい。

一昨年の秋頃から、それまで書きためたエッセイや論文が出版化され、徐々に一般の人の目に触れ始めた。自分の書いた文章が出版化されるまでには、編集者をはじめとする様々な人の目に触れて、作品として仕上がり、書店に並ぶ。

その過程で、作者として小説なら二十回以上、エッセイや論文でも十回程度は推敲を行い、最後に音読して仕上げを行い、自分の名前とタイトルを付して、作品として世に送り出す。

そんな本作りの厳格さに対して、ブログで書く文章は、ふと思いついたアイデアやつぶやきを書き留めただけで、とてもじゃないが、こんなものは石井一彦の作品と呼べる代物じゃない。

作品としての文章を公に発表し始めると、ブログに書く即興演奏のような文章を世の中に送り出すことが、怖くなった。

これが一年半以上、ネット社会から遠ざかってしまった最大の理由である。

じゃあ、何で新たにブログを始めたのか。

それは、ブログの位置づけが自分の中で違ってきたから。

ネット社会のようなバーチャルな空間で、メールや掲示板だけでワアワア議論することなど、意味のないことだとわかったから。

ブログやネット社会のような道具は、本当に信頼しあえる仲間を集めるために利用すればいいのであって、そんな場所で実際に顔を合わせない人間同士が不完全な言葉をぶつけ合っても良質なコミュニケーションなど出来ないことを理解したからだ。

僕は「新葛飾土産」というブログで自分のアイデアやつぶやきに共感してくれた人と、実際に出会って、さらに深く意気投合して、何かを作り上げたいと思う。

それがダムダンにいた石山修武さんや小須田廣利さんに教わった「ビルディング・トゥギャザー」の神髄である。

ブログなどそこまでに至るための数ある手段の一つでしかない。

だから石井一彦の作品でない、単なるアイデアやつぶやきに対して、批評されても答えに窮する。

ほんの数秒前に考えたことだって、何でそう思ったかなんて忘れてしまう。50過ぎのオヤジの記憶力など、そんな程度である。

ただ一つ言えることは、「ブログでの即興で出たつぶやきだから、気に入ったことだけ覚えておいて下さい。気に入らないことは無視してください。共感する人は仲間になってください。共感できない人は立ち去って下さい。」

これが僕の考えるブログでの基本的立場だし、そのくらい割り切らないと勤め人の僕がたった一人で毎日更新など出来るはずもない。

二年前に僕は随筆雑誌「流星2号」でこんなことを書いた。

 コミュニティが機能しない時代だからこそ、昔ながらのコミュニケーション回路を復活させる。IT全盛の時代にはそっちの方が新鮮だ。為政者が「美しい国」なんて抽象的なスローガンをマスメディアを通じて流すのなら、ぼくたちは具体的な内容を、方言混じりの話し言葉で語り合う場所を住んでいる地域の中に作ろう。

杉浦日向子の、『もっとソバ屋で憩う』にあった山形のソバ屋萬盛庵のような場所がいい。

「この店では、ふだんつかわない二階の大広間で月例会を三十年以上にわたり続けている。休日の昼、毎回スピーカーをひとり招き、十五分ほどの食前卓話(それぞれの専門分野の貴重な裏話だが、学術的なことにかぎらず、家業の苦労、趣味の楽しさなど話題は無尽。新内、木遣りなどの邦楽。洋楽のソロなどのミニ・コンサートもある)の後に、今月のソバ献立という、主人の心尽くしの季節を味わうソバ料理と美酒に興ずる。(中略)こんなところで、江戸の庶民文化がしたたかに息づいている。」

 この文章は最終的に「小さな町の不思議な空間」の一部として発表したが、最初につけたタイトルが「ムーシカ文庫を始めよう」だった。

 いぬいとみこという希代の作家が精魂傾けた事業である練馬のムーシカ文庫という魅力的な空間について知りたい人には、DVDでも、本でも何でも貸してあげるから、取りにおいで。

本当に大切なことはブログなんかで説明しないから。

僕の気持ちはこれを書いたときから、全く変化していない。

そのための試みが流山市立博物館友の会の文章講座における活動だし、これから始まるであろう葛飾図書館友の会の活動もそうなればうれしい。

僕と話しをしたかったら、流山の文章講座にオブザーバーでもいいから足を運んでいただきたい。

逃げも隠れもせぬ。

そのために会社勤めという身分にもかかわらず、ネット社会に実名を公表することを決意したのだ。

だから、ブログやメールのような不完全な場所で小難しい論争などしたくない。明日死ぬかもしれぬのに、そんなことをやっている時間などない。

もちろんブログで書いた文章は、発表後も適宜修正を加えている。しかし、それは他人から指摘をうけたからではなく、自分自身納得がいかない部分が出てきた時である。

とにかく葛飾地域の中で共感の輪を作ろう。

共感の輪ができたら、みんなで相談して、一緒に21世紀の新しいムーシカ文庫を始めよう。本が嫌いなら、萬盛庵のようなソバ屋でも何でもいいじゃないか。とにかく集まりを始めよう。

僕の望みはそれだけである。

最後に石山修武「笑う住宅」筑摩書房(現在はちくま文庫)の中から一番好きな文章を紹介して終わろう。

どんな形式でも構わない、何しろ集まりを作ること、この楽しみ、この喜びに勝るものは他にない。その為に必要であれば建築もしよう、何もしようと考えているだけなのである。いずれ、いつの日か、これだけはできるかどうか解らないけれど、あなたのライフワークは何ですかと聞かれるようなことが万に一つもあったならば、ダムダンを始めとする幾つかの集まりですと、ヌケヌケと答えてみたいものだ。

2008年8月 4日 (月)

卒業しない人

昨日の夜NHKテレビの日曜美術館で、建築家石山修武の特集をやっていた。

冒頭で檀ふみとアナウンサーが石山さんがかかげた二つのコンセプトを、新たな発見でもあるかのように発表するのを聞いてびっくりした。

「セルフ・ビルド」と「ビルディング・トゥギャザー」だという。

これって、24年前に晶文社から出した『「秋葉原」感覚で住宅を考える』で言ってたことと変わらないじゃないか。

実は、石山さんとは浅からぬ縁がある。

『「秋葉原」感覚で住宅を考える』を読んで感動した僕は、那須高原に小さな土地を購入し、ほとんど持ち金などないのに、1990年に石山さんが代表を務めていたダムダンという設計事務所を訪ねて、山小屋を建てるのに協力を依頼した。

石山さんは早稲田の教授に就任して、もういなかったが、ダムダンの人たちは、むちゃくちゃな僕の提案を面白がってくれて、「セルフ・ビルド」での家造りが始まった。

それはまさに「ビルディング・トゥギャザー」そのもので、老若男女、プロや全くの素人いろんな人がのべ300人以上集まり、数年間続くお祭りとして進行して行った。

石山さんがやっていた「群居」という雑誌にエッセイをかかせてもらえたのもダムダンの小須田廣利さんの紹介だった。

その当時、ダムダンをあとにした石山さんは「セルフ・ビルド」も「ビルディング・トゥギャザー」もあまり言わなくなり、住宅の設計もやらないと言い切り、遠くから見ていた僕にとって石山さんという人は、ものすごく頭がいいが、半面飽きっぽい人という印象が残った。

そして、山小屋作りも一段落し、ダムダンの人たちとも疎遠になり、僕の中で石山さんは過去の人になっていた。

そこへ突然、テレビの画面に怖い顔がぬぅっと現れ「セルフ・ビルド」と「ビルディング・トゥギャザー」だという。

哲学者の鶴見俊輔は「○○はもう古い」言う人と、卒業しない人という二つの人間類型について、我孫子の講演で僕たちに教えてくれた。

卒業しない人の典型として「柳宗悦」をあげて。

今、ふと思い出した。石山さんの著書の中で最高傑作だと思う「現代の職人」の中に、こんな一節があったことを。

 ウィリアム・モリスという人物や、その商会活動、工房の日常を一度実見できたらどんなにはげみになっただろうか、デザインというものにファッション以上の何ものかを望みたいと願う者ならば必ずモリスが実践し、かつ夢見た世界、その大きな全体性にゆき会う。

 日本でモリスが考える程の問題を投げかけてくれる位の人物を探すことは難しい。岡倉天心や柳宗悦が生きていれば、それこそ砂を蹴立てても会いにゆくのだが……。

石山さんという人を僕は長い間誤解していたかもしれぬ。

石山さんは案外卒業しない人で、それに気づかなかった自分の不明をこそ恥じるべきであろう。

表面的に変節したように見えても、根っこの部分さえ残っていれば、何年たっても美しい花を咲かせることが出来る。

原爆と内戦という二つの悲惨な歴史を持つ、カンボジアと広島を結んだ「ひろしまハウス」という感動的な建築を見て、そんな思いを新たにした。

2008年8月 3日 (日)

日本に水土を取り戻そう

暑い日だった。

犬の散歩に出ると、あんまり暑いので、アスファルトの地面に手のひらを押しつけてみた。正確な温度はわからないが、数秒間手をつけているだけで、火傷しそうになり、あわてて手を離した。

いくら人間と違い裸足で歩く動物とはいえ、これではたまらない。

早々と犬を連れて帰り、一人で散歩に出た。

試みに近所の緑地に行って、土の地面に手のひらを押しつけると、ほんのり暖かく、気持ちいいので、いつまでもそうしていたかった。

ところで、昭和40年代の初め頃までは、日本中どこもかしこもアスファルト舗装した道ばかりではなかった。

東京23区内でも頻繁に車の通る大通り以外は土や砂利の道が多く、少し雨が降るとあちこちに水たまりが出来て、下駄や長靴の出番になった。

子供だった自分が知らないうちに、どんな小さな道でも舗装することが日本社会で金科玉条の至上命題になり、僕が小学生だった昭和40年代前半、町にはいつもロードローラーが動いていた。こうしていつの間にか日本中の道が舗装され、下駄や長靴の出番はなくなった。

生け垣やコスモスが美しい新坂川沿いの小径ですら、ごらんの通りである。歩行者などいるわけないとばかりに疾走してくるバイクや自転車により、この小径で僕は何度も轢かれそうになっている。

地球温暖化といったレベルの話とは、別の次元であろうが、これだけ国土が舗装され、地表から熱を発するようになれば、夏場の体感温度が上がるのは当たり前であろう。

例の道路特定財源を使って、舗装を剥がしてくれれば、エアコンで使うエネルギーも減って、一石二鳥じゃないかと思うのだが、素人の夢想だろうか。

室田武「水土の経済学」によれば江戸時代、風土よりも水土という概念にもとづいて、治山・治水施策を展開した。

ところが、明治の新政府はイギリスをお手本に石炭文明・石油文明の道を歩み、今日では薪炭を家庭用燃料とする人の数は激減、山村でも石油やプロパンガスを利用するようになり、雑木林を大切にする習慣がうすれたと言う。

江戸時代の知的遺産を否定することばかりやってきた、明治以降の政府は、この原油高をいい機会に、顔を洗って出直してこいと言いたい。

2008年8月 2日 (土)

西表島が面白い

江戸川沿いの松伏町に住んでいる仲良しの山崎電機さんの所におじゃまさせていただいた。

社長の山崎英機さんは、沖縄の西表島出身で、苦労して埼玉で会社を立ち上げた人だが、いつも故郷の西表島を忘れず、大企業による大規模開発によって、故郷の自然が損なわれようとしている状況をみて。憤然と立ち上がった人でもある。

故郷を大切にするというのは言葉で言うのはたやすいが、実際は非常に難しい。まして、故郷を離れて東京に出て何年もたつ人間が立ち上がるというのは、大きな困難を伴う。

僕は、去年少年時代を過ごした練馬区で、郷土史の発掘をしたいと考え、大勢の人に声をかけたが、なかなか賛同してくれる人は見つからず、断念した。人徳のなさはどうしようもない。

西表島の写真を見せてもらい、話を聞くと興味深いことが多々ある。

10年ほど前に沖縄病といって「沖縄に行きたい行きたい」病に陥ったことがある。僕のふるさと捜しは、そんなきっかけで始まり、葛飾という地域を発見した。

松伏の大切な友人である山崎さんの活動を心から応援したい。

裏町を行こう、横道を歩もう。

昨日、朝早くから数年ぶりに那須高原に行った。

遊びじゃないので、数時間の滞在だった。

那須高原は普段見慣れている自然とはレベルが違って、何か大自然のふところに抱かれているように感じ、大自然の中では人間は無力だということを実感させてくれる場所である。

そんな場所を1000CCの小さい車で、とことこ走っている時にカーステレオから流れてくる音楽はクラシックがいい。

「エスクァイア三月号」の付録に付いていたショパンのCDがあったので、かけてみるとこれが絶品だった。

ネズミ小僧次郎吉なら千両箱を抱えて逃げられそうなほど、隣の家と軒を接している松戸の家では大袈裟に聞こえ、面白くなかったイヴ・アンリという人のピアノの音がすぅっと素直に耳に入ってきて、心地よい。

クラシックが苦手な僕にとって意外な発見だった。

手つかずの大自然の生命力には、生半可なポピュラー音楽では対抗できないってことかもしれぬ。

手つかずの大自然も素晴らしいけれど、もっと好きなのは人間がひしめき合う都会のわずかな緑地で、けなげに咲く草花を見ることだ。

そんな町なかの小さい会場で、ジャズやフォークのようなアコースティックな音楽を聴きたい。

そして、帝釈天のような立派な寺院もいいが、通行人が気づかずに通り過ぎてしまうような、町中にある淫祠の方が好きだ。

 「裏町を行こう、横道を歩もう。」

               永井荷風「日和下駄」 第二 淫祠より

2008年8月 1日 (金)

祭りの後の寂しさ

近所の商店会が主催する夏祭りがあるという。

あまり気乗りがしないが、浴衣を着てやる気満々の娘を見ていると、一緒に行かないのも父親としてどうかと思うので、つい行ってしまった。

例によって、商店名を書いた提灯がぶら下がる下に、やぐらが組まれ、子供たちが太鼓をたたき、この日のために練習してきた女性たちが東京音頭という昭和初期に西条八十が作った民謡(笑い)に合わせて盆踊りを踊る。

日本中どこでもみられる光景である。

僕には盆踊りの意味がわからないし、食品衛生にたずさわる仕事をしていた人間としては、不衛生な露店もイヤだ。

そして一番許せないのが、招待席というやつ。

先祖代々の地主で、市会議員なんかやってるじいさんたちが、一般大衆を地べたに座らせて、自分たちだけ椅子に座りふんぞり返ってたばこを吸っている。

ここでは健康増進法なんていうしゃらくせぇ法律なんぞくそ食らえとばかりに、美しく均等に灰皿が並んでいる。

娘が何を血迷ったか、のこのこ出ていって招待席に座ったら、顔見知りのはずの近所の自転車屋のおばさんに「ここは招待席だから、出て行くように」と厳しく叱責された。

その自転車屋で、一週間前に娘は自転車のベルを直してもらったばかりだとゆうのに。

貧しい庶民であるわたくしは、せめてもの意地で、次回の娘の自転車の購入を他店に切り替えることにした。

そんないやーなムードの場所に乱入してきたのが、日本中が注目する中、去年、元キャバクラ嬢に補欠選挙で負けて、一躍有名になったハーバード出身の国会議員候補者である。

うちの母親は律儀に名刺をもらっていたが、わたくしは遠慮させていただいた。

これが平和な日本の、人口48万都市の、大変あっぱれな二十一世紀の夏祭りである。

めでたし。めでたし。

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