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2008年7月

2008年7月30日 (水)

人生は「浪花節」かもしれないが、「かげろうの花」はビル・エヴァンスだよ。

ちょいとほろ酔い気分である。まるで意味のわからぬタイトルになってしまった。

今日はブログの更新なんて野暮なこたぁやめちまって、とことん美酒に酔いしれたいのだが、日本酒プロデューサー関矢健二が作った酒を紹介したくって、いつものようにパソコンの電源ボタンを押してしまった。

一昨年の一月に亡くなった関矢健二さんという人は、最後まで一介の下町の酒屋のオヤジだった。

何故なら自らは企業家となることなく、数多くの企業家たちを陰で支えたから。

衰退する日本酒に対して、ひとかたならない愛情をもち、死の直前まで、全治全霊を傾けて、適正価格で買える美しい酒を追求した、そんな職人肌の酒屋のオヤジだった。

そんな姿勢を評価されて、NHKで特集番組が組まれても、東武百貨店に常設の酒工房という売り場が作られても、全くおごることなく、僕のような人間に接してくれた。

僕は講演で全国を駆け回っている関矢さんが、上野の店に戻っているのを見計らって通い詰め、ただでいろんな話を聞かせてもらった。

予期せぬ突然の死で、もうお会いするチャンスは永遠に来ないけれど、数多くの美酒が後に残った。

その中でも僕にとって最高傑作だと思えるのが芳醇な香りと、端麗なのどごしを両立させた「かげろうの花」。

おまけにラベルは村上春樹の本でも有名な、あの安西水丸のデザインである。二つの才能が一つの瓶の中で溶け合い、せめぎ合い、これ以上、何をかいわんやである。

うれしいことがあった時、悲しいことがあった時、僕は「かげろうの花」を冷蔵庫から取り出してきて、お気に入りのグラスに入れて呑む。

そうだ。去年書いた小説にもこんなシーンがある。

 テーブルの上を綺麗にして、洗い物も終わり、クリスマス・キャンペーンの準備を整えると、冷蔵庫から純米吟醸酒の四合瓶を取り出す。よく磨いたグラスに酒を注いで、口を近づけると華やかな香りが鼻をくすぐる。蕎麦味噌を肴に呑み始めれば、永いこと忘れていた、至福の時間がよみがえる。

 宮田先生のピアノで久しぶりに「不思議の国のアリス」を聴いたら、無性にもう一度聴きたくなり、ビル・エヴァンスの古いレコードをターンテーブルの上に載せた。陽が傾いて少し寒くなった店内に、春の野原を散歩するようなピアノの音が響き渡った。

「かげろうの花」にはビル・エヴァンスの弾くジャズピアノ「不思議の国のアリス」がよく似合う。

録音の直後に24歳の若さで事故死する、やんちゃなベーシストのスコット・ラファロと時に反発し、時に融合し。

思いも寄らぬ奇想天外なフレーズが飛び出したり、楽しくて、美しくて、トリッキーで、ちょっと切ない。

こんな風にミュージシャンの会話を楽しんでると、ジャズって、何時間でも聞けちゃうんだ。植草甚一じゃなくてもね。あっという間に、二時三時。だから危険なんだね。

おっと、いけねえ。急に酔いが回ってきたみたいだ。その間隙をぬって脳みそを植草甚一菌が浸食し始めている。あの文体を真似たエッセイならいくらでもかけそうな勢いだし。

葛飾区の誇り内藤大介も勝った。今日はぐっすりねむるぞ。

2008年7月29日 (火)

都電と父

仕事から帰る途中、激しい雨が降り、雷が落ちて山手線が止まってしまったので、大塚駅から都電に乗って帰ることにした。

つり革につかまって、車中の鏡に映った自分の顔を見て、最近父親に似てきたなと思った。

昭和30年代、僕の父は21番という都電に乗って、金杉二丁目という電停から水天宮前まで通っていた。

家から歩いて50メートルほどの地点に電停のある都電は、身近で、便利な乗り物で、帰りの時刻がわかるときには、しばしば父を電停まで迎えに行ったものだ。

僕はニコニコと満面の笑みをたたえて、都電から降りてくる父が大好きだった。

ところが昭和37年に地下鉄日比谷線が開通すると、父は少し離れた入谷駅から地下鉄で勤めに出るようになった。

入谷駅は家から遠かったので、父を迎えにゆく習慣もいつの間にか消えた。それからほどなく、我が家は台東区から練馬区に引っ越した。

近所の人が口々に「いしいさん。おしっこしかい。たいへんだねえ」と言うのが印象的だった。「おしっこし」が「お引っ越し」だと知ったのは小学校高学年になってからである。

今思うとその引っ越しは、僕にとって貧しいながらも楽しかった昭和三十年代の終焉を象徴する出来事だった。

同じ頃、台東区の僕の家の近所では、国鉄三河島駅の脱線事故、吉展ちゃん誘拐殺人事件、日暮里の大火事と、陰鬱な事件が立て続けに起こっていたし、アメリカではケネディ大統領が暗殺された。

昨日の夜、80歳になった父から、少しばかりやっかいな病気にかかっていることを告げられた。

落雷のせいで、たまたま乗った都電が、そんな父の若かりし頃の出来事を、思い出させてくれたことがうれしかった。

激しい雨に洗われて、都電の窓から見える夜の町は、なんだかいつもより綺麗に見えた。

2008年7月28日 (月)

蝙蝠傘

タイトルは、こうもりがさと読む。荷風さんの「日和下駄」の冒頭に出てくる。

 

人並みはずれて丈が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき、蝙蝠傘を持って歩く。いかに好く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。

荷風さんを見習ったわけではないが、僕も蝙蝠傘を持って歩く。

折りたたみ式では駄目だ。降っても晴れても、蝙蝠傘をステッキ代わりに町を歩く。

好く晴れた気持ちのいい朝だった。電車に乗ったら、松戸駅でたまたま前の席が空いたので、何となく座ってしまった。満員電車で座ってもあまりいいことがないので、極力、座席の前に行かないようにしているのだが、今日は何となくそんなことになってしまった。

座って雑誌を読み始めて数分後、頭をつんつんとつつくものがいる。

目の前に立っているオヤジの読んでいる新聞の角が、僕の方にたれてきて頭をつんつんしていることに気づいた。

後ろからぐりぐり押してくる失礼なオヤジに京浜東北線の車内で、ラリアットをかました10年前の僕なら、すぐに反応しただろうが、車内のトラブルは極力回避したい昨今である。

これ見よがしの上半身の動きで新聞攻撃を避けるポーズを作ったのだが、オヤジの方は気づいたのか、気がつかぬのか、無反応である。

しばらくは小康状態を保ったのだが、電車が綾瀬駅を過ぎたあたりで再度、激しい新聞攻撃が来た。とうとう僕は、オレに変身し、蝙蝠傘で新聞を下から、オヤジの顔まで突き上げてやった。

オヤジは無反応で、当然謝りもせず、ぶすっとしたまま無言で、そのバカ面を車内にさらしていた。

こんな気分の悪い日には、江戸しぐさがどうのなんて言う余裕もなくなり

「人々がひしめき合う狭い都会で暮らすための作法も知らず、会社という名のムラ社会から一歩も外に出られない田舎っぺジジイは、割り増しもらって、早期退職でもして、早く田舎にお帰り!」

などと、森茉莉風に毒づいてみたくなる。

どんなにお天気がよくても、東京にいると、オレはこんな輩と戦うために蝙蝠傘を手放せない。

2008年7月27日 (日)

雨の夕暮れの屍のような美意識

朝、テレビでサンデーモーニングを見ていた。

今朝は敬愛する田中優子が登場するので、いつもよりしっかりと見た。

田中優子は秋葉原の通り魔事件の話の中で「敵を間違えるな」と言った。

関口宏は適当に流したので、問題発言にならずにすむかもしれないが、視聴者に通り魔事件を一部肯定しているような誤解を与えかねず、ちょっとハラハラした。これが生放送の怖さだと思った。

発言全体を通して聞いてみて、そのとき田中優子が言いたかったのは、こういうことではなかろうか。

若者の考える力が衰え、自分の置かれている現状を分析する力がなくなり、なにが自分の不幸を作り出してる根本原因かわからないし、知ろうともしない人間が増えている。

そんな人間が社会に復讐するために「誰でも良かった」と殺傷事件を起こす風潮が現れてきている。

もしそういうことなら、全く同感である。

昨日僕は美意識の問題を言ったが、二年前「流星」という雑誌に書いた「小さな町の不思議な空間」という随筆で、美意識と同時に考える力の大切さを書いた。

 でも、そんな危険な時代ならなおのこと、ぼくたち大人は声高く不満を叫ぶ前に、子供たちの考える力を養い、美しいものに感動する心を育てることが、急務なんだと思う。平成十四年に亡くなったいぬいさんは、ムーシカ文庫の活動を通して、そのことを教えてくれた。それなら今、本など読まずとも、簡単に楽しめるものが溢れる時代に、教え子のぼくたちはどうしたらいいんだろうって考える。

僕はこの文章に続けて、ITでの情報交換だけに頼らない、近隣に住む人々集う昔ながらのコミュニケーション回路を復活させることの大切さを説いた。

そして、それがこの二年間でさらに急務になってきたことを感じる。

ところが、自分一人で出来る範囲などでは、大したことが出来ないこともよくわかっている。そこで最近、現在も会員として活動している「流山市立博物館友の会」に加えて、「葛飾図書館友の会」という団体に入会した。

こちらは葛飾図書館がリニューアルオープンすることにともない、新しい図書館活動をしてゆこうと6月に発足したばかりの団体である。

現役の勤め人である自分が、どこまでこの団体に貢献できるかわからないが、志を共有する仲間が一人でも見つかればうれしいと思っている。

ところで、タイトルのフレーズだが、田中優子「江戸を歩く」集英社新書に出てきた中でも一番大好きなフレーズである。

吉原の遊女たちの慰霊塔の横に永井荷風の詩を刻んだ石碑がある三ノ輪の浄閑寺について述べたくだりを紹介した後で、田中優子はこう述べる。

 

荷風は相磯凌霜との対談で、自分の遺骸は粗末な駕籠に乗せて、雨の日の夕暮れに浄閑寺に送り込んでくれ、と語った。荷風は自分の身を、引き取り手のいない遊女に見立てたのである。かつて日本には前向きでなく後ろ向きの、楽しさではなく哀しさの、雨の夕暮れの屍のような美意識が、あったのだった。

こんな文章を読んだ後に、古今亭志ん生の「お直し」をCDで聞くといい。

暗く、切ない、どこまでも落ちてゆく、とことん駄目な男と、そんな亭主を捨てられない女房の話。

志ん生は昭和三十一年、そんな「お直し」で芸術祭賞を受賞した。

2008年7月26日 (土)

江戸川流域シンポジウム

松戸駅近くで「第15回江戸川流域シンポジウム 川の環境をどう守るか」というイベントがあり、行ってきた。

環境や河川の専門家による中身の濃い話で、非常に興味深い話も多数あり、とても勉強になった。

素敵な人が大勢おみえになっていた。

ただ、僕の存在はちょっと場違いだと思った。

僕はエコロジストじゃないから、川が汚れているかどうかよりも、川面に映る夕日が綺麗かどうかが気になる。

川にかかる橋の上にたたずんでいる女性が美しいか、どうかはもっと気になる。

そこで川の環境をどう守るかというテーマについて、自分なりに考えてみた。

いろんな社会問題に共通するが、結局行き着くのは、目に見えない美意識の問題だ。

日本橋の上に高速道路が走っていることが、昭和三十年代の日本人にはカッコよく見えた。

何故なら、みんなが大好きな鉄腕アトムの世界が現実になったみたいだと思ったから。

東京駅に新幹線が登場した頃、上野駅では蒸気機関車が黒煙を上げていた。子供だった僕はうるさくて煙い蒸気機関車が大嫌いで、自分の乗る列車を電気機関車が引いてくれるとうれしかった。

当時の日本人の美意識などそんなもんである。

「三丁目の夕日」の風景など、当時の日本人はちっとも有り難たがっていなかった。

そんな日本人でも小林清親や井上安治の錦絵が好きだったら、日本橋の上に高速道路を造ろうなんて、考えもしないと思う。

だから今、取り戻さないといけないのは、言語化することが難しい、目に見えない美意識だし、さらにそれをどう後の世代につないでゆくかがとても大切である。

電車の中で化粧することをみっともないと思わずにいる若い女を見て、あの幸田文だったらどう思うんだろう。

そして永井荷風は水のある東京の風景を壊した首都高速を見て、どう思うのだろう。

僕がこれから生涯追求してゆくテーマは、日本人固有の素晴らしい美意識と、それをどうやってつないでゆくかである。

今日はそのことを再確認できた。そして、その為にこれからも僕は小説を書き続ける。

「崖の上のポニョ」を見てきた

流山おおたかの森SCにあるTOHOシネマズで「崖の上のポニョ」を見てきた。

最近の宮崎駿の作品は重くて、こっちは腹一杯なのにごちそうだから食べて行けと言われているような作品が多くて、見た後どっと疲れが押し寄せるような作品が多かった。

ところがポニョは違う。一見しただけだと、これで終わり?っていうくらい物足りなさが漂う。安易なハッピーエンドじゃねえかとも思える。

そこがこの作品のいいところで、優れた小説と一緒で、見る人の想像力次第では、ものすごく面白い作品になる。見る側も参加できる余地がある。

これから見る人も多いと思うので、内容にはふれないが、僕には女性や老人や子供の元気さと、成人男性の頭の固さとダメダメぶりが妙に印象に残った。

オヤジが威張っていた時代は確実に終わりに近づきつつあることを実感した。

プログラムは600円の割に、内容充実でお買い得でした。

2008年7月23日 (水)

ナローボートの資料が届いた

TV番組の世界ふしぎ発見を見て、興味をもったので、総合商社の仕事で数年前からイギリスにいる友人に頼んで、ナローボートの資料を送ってもらった。

ナローボートというのはイギリスの狭くて、浅い運河を航行するために、幅が狭くて平底のボートである。もともとは産業革命後、石炭や建設資材を運ぶために盛んに使われたそうだが、陸上輸送にとってかわられ、運河利用も衰退という日本と同じような状況があり、一時期忘れられた存在だったそうだ。

ところが、ここから日本とイギリスは全く異なった道を歩み始める。

イギリスでは1980年代に入り、ナローボートがレジャー用に見直され、運河も修復整備されて、全土で6000キロの運河が航行できるようになり、快適な運河の旅ができるようになったというのだ。

速度は人間が早足で歩く程度で、寝室、キッチン、トイレ、シャワーが完備された「動く別荘」といった風情で、2人から10人乗り。運転免許はいらない。水上からゆったり、のんびり美しい田園風景を眺めながら、旅をすることができる。

オートキャンプなんて言って、大排気量のRV車で大渋滞の中、いらいらしながら、CO2をまき散らして、整地されたキャンプ場へゆく日本の週末風景に比べて、なんて優雅で、おしゃれなんだろう。

土木技術的なことには全く素人なので、憶測の域をでないが、葛飾地域には利根運河はもちろんのこと、少し改修すればナローボートなら走れそうな水路も多いように思う。何故なら、イギリスの運河だって大人が立てる程度の深さしかないのだから。

母方の祖父は霞ヶ浦の漁師だった。死ぬまで車の免許は持たず、家の前に停泊した和舟に乗って、土浦市内でも、どこへでも行った。

子供時代の多くの時間を祖父と過ごした自分にとって、水路を舟で移動することなど、特別でも何でもなく、ごく日常的なことだった。

僕は車で渋滞した道路と、使われない利根運河を見るたびに心が痛む。

日本にナローボートを走らせるなど、事情を知らない素人の夢物語かもしれないが、「暫定税率復活で、更なる道路造りを!」なんて言っている劣悪なビジョンしか持たない政治を早く終わらせないと、日本に未来はないだろう。

2008年7月22日 (火)

ちょっとだけ金町を歩いた

午後から勤めを休んで、病院に行ったのだが、少し時間が空いたので、金町をぶらぶら歩くことにした。

7月7日に亀有の曳舟川から金町まで旧水戸街道を歩いているので、今日はまず、JR金町駅から新宿の葛飾図書館に行って、葛飾図書館の人と少し話をしてから、金町広小路の古書店「書肆久遠」に行った。

エロ本も漫画も扱わない、文学書中心の硬派な品揃え。その心意気が清々しい。特にずらりと芥川賞受賞作の単行本が揃っているのは圧巻だった。

ただ文芸評論とか、いわゆる東京本とか、芸能関係とか、要するに正岡容・小沢昭一・川本三郎っぽい世界があると、さらにうれしいのだけれど、直球一本槍でしたね。

大佛次郎「パリ燃ゆ」朝日文庫を六冊そろいで購入。ちょっと満足。

駅前に戻って「そばっ子」という立ち食いそば屋に入り、かき揚げ付きもりそばの食券を買おうとすると、300円という低価格にびっくり。

出てきたソバを食べるとその高品質にさらにびっくり。

よく下町価格というけれど、これぞ下町価格だと納得。

最近よく立ち食いソバを食べ歩いているけれど、この価格と品質は都内でもトップレベルである。

得した気分で東口の古書店に入り、東京オリンピック直前の東京を写した写真集を発見した。週末に給料が出たら買いに来ることにしよう。

2008年7月21日 (月)

小金城趾駅前の酒屋さん

流山線の小金城趾駅前に平野屋という酒屋さんがある。一見どこといって特徴のない店構えで、松戸宿の日暮商店さんのような日本酒やワインへのこだわりも感じられず、年配のご主人が淡々と仕事をしておられる。

周囲がシャッター街化する中で、生き残っている店なので、時々寄っていたが、最近「越生梅林純米酒」という酒を見つけて、ちょっと気に入ってしまい、数回続けて買った。四合瓶で税込み1,050円という値段のわりには芳醇な香りと、飲み応えのある味で、お値打ち感が強い。

この酒は埼玉県越生町の佐藤酒造店という酒蔵で作っている。

http://www.satoshuzou.co.jp/index.html

越生の近所の毛呂山という町には名酒「琵琶のさゝ浪」の麻原酒造がある。

http://www.musashino-asahara.jp/index.html

どちらも東京近郊ではあるが、交通の便が悪く東京への通勤圏とは言い難い。そんな辺鄙な場所で頑張る小さな蔵元の作る酒の品質が大手の酒造メーカーの作る酒を凌駕する。これだから日本酒の世界は面白いのだ。

そんな酒を気取らず、昔のよろづやのように、野菜の種や麦わら帽子と一緒に売っているのが平野屋さんのいいところである。

昨日の朝、あんまり暑いので、娘との散歩の帰りにアイスクリームを買って、店前の縁台に座って食べた。日差しがきついので、自分のかぶっていたキャップを娘にかぶせてあげたら、見ていたご主人が出てきて「梅雨が明けたんですよ」と話しながら、ビーチパラソルをセットしてくれた。

たった120円のアイスクリームで、すごく豊かな気分になれた。

贅沢な時間の使い方

フォトアルバムにまこも池の写真をアップした。松戸市内のなんてことのない小さな池で、おじさんたちがつりをする、ちっとも美しくない平凡な写真だが、家の近所に水辺があって、そこで自由に遊べる生活というのは都心では難しい。何でも暗渠にしたり、埋め立てたりしてしまうからね。

作家の森まゆみさんが編集している「谷中・根津・千駄木」を読むと、バブル期にはあの不忍池ですら、埋め立てて駐車場にする計画があったらしい。

それは都心に不忍池があることの価値をわからない。水辺に興味のない人間の発想だろう。だから少しでも多くの人に水辺に行ってほしい。

渡し舟に乗ったことのない人に、舟の中のなごやかな雰囲気を伝えることも一興かと思う。「東葛流山研究26号」の拙文の一部を紹介する。

 帰り舟の中で 

 「舟乗るの、楽しいなー」と小学生の男の子がまるで芝居の台詞のような歓声を上げる。

 川甚での結婚式帰りと思しき中年男性の集団は「往復だと二百円払うんだよね」などと、

 ペチャクチャしゃべって、舟の中はとても賑やかだ。

 その時、船頭さんが「鮫がいるよ。こないだからいるんだよ」と教えてくれる。

 全員がぎょっとして、船頭さんの指さす方を見ると、本当に、水面に突き出た三角の背びれがこちらに向かってくる。

 その時すかさず船頭さんが「お客さんがびっくりするから、あんまりそばに来るなって言ってあんだよ」と一言。

 ドッと歓声が上がり、次の瞬間、不思議なことに背びれはどこかに消えた。実に楽しいひとときであった。

渡し場には駐車場も隣接している。あっという間に車で新葛飾橋を渡らず、たまには渡し場に車をとめて、舟で柴又に行ってみてほしい。

ゆっくり川を渡るという贅沢な時間の使い方にうっとりするはずだから。

2008年7月20日 (日)

新松戸まつりに行って

昨日、新松戸まつりに行った。

中央大通りを歩行者天国にして、数え切れないほどの露店が並んだ。

マンションの自治会で出店している露店も多く、おじさんたちが酒盛りの合間にフランクフルトや焼きそばを売るといった光景も目につく。

以前住んでいた三郷市のマンションのお祭りを思い出した。

まだ三十代の頃、長男が所属するスポーツ少年団のお父さんたちと、試合に勝っては祝勝会、負けては反省会と称して、ビールばかり飲んでいた時期があった。今の三十代は子供のスポーツ少年団どころか、生活苦で結婚もままならぬ人も多いという。

ほんの十数年前なのに、ずいぶん昔のような気がする。

バブルが崩壊したとはいえ、あの頃はまだまだ明るい時代だった。

二十一世紀に小林多喜二の「蟹工船」がベストセラーになることなど、誰が予想しただろう。

もっと昔、僕が経済学部の学生だったころ「将来日本は恐慌になり、町にルンペンプロレタリアートがあふれ出す」と、教条的な説明を繰り返すマルクス経済学の老教授を、僕たち学生は鼻でせせら笑った。

「アダム・スミスの自由放任主義も古いが、マルクス経済学も同じように古い」と。

それから三十年の時間が経過し、学生だった僕は五十代の初老のおじさんになった。そして今、その老教授を笑えぬ自分がいることに戦慄をおぼえる。

こんな状況は自然にそうなったのではない。本来避けられたかもしれない窮状を、とっくにお蔵入りしたはずの自由放任主義の信奉者が作り出したのは間違いない。そんな政治家に拍手喝采した人々の清き一票の力も加わって。

偉大な学者だが陰気なマルクスの経済学(批判)体系も、やっぱり好きにはなれぬ。

そんな時代には、荒れ狂うグローバリズムに対抗して、地域に密着した小さな産業を地道に育ててゆく、そんな英知が求められているのだろう。

各藩ごとに特色あふれる産業を奨励した江戸時代見直しの昨今の気運もそのことと無関係とは思えぬ。

いささか宣伝めくが、崙書房出版から出ている「東葛流山研究」の25号、26号に掲載した二つの拙文「流山をワクワクさせる元気な商人たち」「聞き書き矢切の渡しの杉浦正雄さん」はそのための、僕のささやかな試みである。

2008年7月19日 (土)

「となりのトトロ」を見て感じたこと

昨夜、テレビで「となりのトトロ」の放送があった。

娘が熱心に見ているので、なんとなく最後まで一緒に見てしまったが、この映画には「さんぽ」というオープニングテーマソングがあって、その歌を作詞しているのが作家の中川李枝子である。(例の「歩こう、歩こう」という歌である)

僕は自分が幼稚園児だった時から、中川李枝子の「いやいやえん」が大好きで、いまでも時々読み返す。有名な「ぐりとぐら」ではなく、「いやいやえん」じゃなきゃだめなのだ。何でこんなに「いやいやえん」が好きなのか、自分の思いが不思議で中川李枝子のプロフィールを少しだけ調べたことがある。

中川李枝子は世田谷区で保母をした体験をもとに「いやいやえん」を書いたそうだ。彼女が保母の仕事をしていた昭和三十年代の世田谷と練馬は同じように東京の近郊農村地帯で、梅ヶ丘に住んでいた親戚の家に遊びに行ったとき、当時の練馬と比べてもずいぶん田舎だなあと感じたものだ。(目くそ鼻くそのたぐいで、今は笑ってしまうが。)

トトロの舞台は世田谷や練馬より田舎のようだけど、都市近郊の農村という基本設定は同じである。つまり「いやいやえん」の主人公茂や、ちこちゃんや、森のこぐやといった登場人物や、オオカミのいる原っぱは僕の個人的な原風景でもある。

昭和四十年代に小学生だった僕は母の実家のある霞ヶ浦湖畔にしばしば通ったが、葛飾区で生まれたものの育ったのは練馬区だったので、常磐線の日暮里駅から土浦駅までの通過地点として葛飾区や松戸・柏の風景を見ていただけで、その当時の葛飾については詳しく知らない。

ただ、当時の写真集を見ると、練馬や世田谷と同じような近郊農村だったことはわかる。

練馬で見た僕の心に残る原風景は、きっと当時の葛飾と共通しているし、世田谷や練馬ではとっくに失われた風景が、現在の葛飾にはなんとか生き残っていると感じている。

そして、現実世界にいるはずが、ふと気づくと自然と調和してしまう子供の世界は「いやいやえん」も「となりのトトロ」も共通している。

そして、そんな世界が大人には見えないということも一緒だ。

僕が五十歳を過ぎて「いやいやえん」を読み続け、「となりのトトロ」に心惹かれるのも、そんな感性の鈍い大人になってしまうことへの、せめてもの抵抗運動なのかもしれない。

水のある軽井沢

随筆雑誌の編集をやっておられるTさんからJOBANアートラインというコンセプトがあることを教えてもらった。台東区のホームページによると以下のような考え方らしい。

アート(芸術)を主とした情報の共有により、JR常磐線沿線のイメージアップ及び沿線自治体の活性化を 図るため、平成18年7月25日JOBANアートライン協議会が設立されました。

 この協議会は、上野駅〜取手駅間の沿線自治体(台東区・荒川区・足立区・葛飾区・松戸市・柏市・ 我孫子市・取手市)とJR東日本東京支社、東京藝術大学により構成されています。

 今後、常磐線沿線で開催されるアート(芸術)関連情報を共同で発信、PRに努めるなど、参加団体が 連携して、沿線内外への情報発信力の強化と沿線の魅力の向上を目指します。

とてもいいことだと思う。この線で雑誌の次の号も特集を組むらしい。

懇意にしていただいているTさんの企画だし、協力しようと考えている。

でも、ちょっとだけ、ほんの少しだけ違和感(というより物足りなさ)を感じる。

それはアートが駄目とかいうことではなく、常磐線沿線で連帯するという考え方にひっかかるのだ。

都心と郊外を結ぶ電車の沿線を宅地開発し、地域を活性化してゆこうという発想は、渋沢栄一の田園調布から、最近のつくばエクスプレスまで近代日本の一貫した流れだ。

ところが、僕のふるさと葛飾地域は、江戸時代の昔からある時は水と戦い、ある時は水と仲良く暮らしてきた水郷地帯としての生活様式がある。

そんな時代の様子を堀・荻原「写真集・葛飾区の昭和史」千秋社で知った。

そこには常磐線という電車の発展とは関係なく培ってきた、魅力的な地域文化と水のある風景が写っていた。

海外なら例えばゴンドラのあるベネチア、あるいはこの前「世界ふしぎ発見」で見たナローボートという運河用の船上生活を楽しむ文化のあるイギリスのコッツウォルズなど、内陸舟運の発達した地域は数多い。

これは独りよがりの考えではないと思う。何故なら日本で最初に「文学散歩」を始めた近代文学研究家野田宇太郎氏が柴又帝釈天の御前さま望月良晃氏との対談で、北原白秋、幸田露伴、永井荷風の名をあげて、葛飾のことを「水のある軽井沢」と評している。(望月良晃「柴又巷談」平凡社より)

「そうです。だから、そういう心が洗われたり培われたりする川を失ってしまったから、いろんな事件が次つぎ起こるでしょ。あれはね、やっぱり政治家が文化行政ということがどういうものかについて、無自覚だったからですよ、はっきり言って。それにいまは、宗教についても無視してしまっているような状況でしょ。だから金もうけだけ考えるような世の中になってしまった。これはもう唯物主義がどうのこうのなんていうもんじゃないんですよ。金権主義が大手を振って、それでもう悲劇は毎日毎日起こってますしね。だから、この江戸川の帝釈天あたりだけは、せめてきれいにね……」

これは二十年以上前の対談本である。今日の日本社会の状況を野田宇太郎が見たら、何というのであろうか。

犬のように歩く

最近、歩く速度が遅くなった。それも極端に。

朝の通勤の際、急ぎ足で行くと10分かからなかったJR新松戸駅まで20分以上かかる。

去年の夏、体重が増えたわけでもないのに原因不明の足底の痛みに苦しんでから、歩くのが遅くなり始めた。

どうせ早く歩けないなら犬のように道草を食いながら歩いてみようと思いたって、あっちへふらふら、こっちへふらふらと周囲の風景を観察しながら歩くことにした。

すると、草花や風のにおい、鳥や虫の声、雲や太陽や月が気になりだして、楽しくなってくる。

今までなんの魅力も感じなかった、松戸と柏に挟まれ発展し損なった小金地区の時代遅れの風景に愛おしさすら感じるようになる。

小さなけがの功名である。

2008年7月18日 (金)

今日も写真を追加した

今日は葛飾ではなく、東京の本当の下町。

(というのは葛飾は厳密には下町ではない。江戸時代このエリアは江戸ではない。東京の東の新開地であるから)

ちょいと複雑な思いにかられる南千住と吉原界隈である。

この中でも首切地蔵は必見だと思う。

疑問のある人は田中優子「江戸を歩く」集英社新書を読んでほしい。

併せて山本鉱太郎「旧水戸街道繁盛記」崙書房出版も参考になる。

両者の見解の違いも興味深い。

2008年7月17日 (木)

夏だって日本酒は美味しいよ

昨日はうたた寝をして、気がつくと朝になっていた。

いつもボブ・ディラン・グレイテストヒッツ第2集というお気に入りアルバムを聴きながら入力している時間、僕は夢の中だった。

原因は「三十六人衆」という山形の地酒である。

たいへん綺麗なお酒で、こういうお酒を飲むと作り手のまっすぐな心意気まで感じられて、こちらも背筋が伸びる。

何か杜氏と対話しているような神聖な心持ちになる。

柴又の丸仁で買った佃煮を肴に飲み始めると、至福の時間が始まる。

日本人に生まれてよかった。

この酒を勧めてくれたのが松戸宿の旧水戸街道沿いにある日暮商店さん。

最近の酒屋さんとしては、なかなか気骨のある品揃えである。

「盃の会」という交流会も主催するというバイタリティだってある。

今度はもう少し重い、飲み応えのある酒をリクエストしてみよう。

マスターがどんな酒を勧めてくれるか、今からワクワクしてしまう。

2008年7月15日 (火)

フォトアルバムの写真

松戸市にある自宅の近所を中心に、そぞろ歩きしながら撮り貯めた写真の中で気に入ったものを少しずつ掲載している。

時間のある方は見ていってください。

葛飾の不思議

小学4年生の頃、社会科で東京都の学習をした。江戸川区の隣に東葛飾郡浦安町という町があることを知った。

東京23区の東の外れには東葛飾郡という郡があるんだと納得した。

何故なら葛飾というのは東京の地名だと信じていたからだ。

松戸に引っ越すと、近所にある高校の名前が東葛飾高校だというので、訳がわからなくなった。おまけに西船橋にある京成線の駅は葛飾という名前だと知り、さらに謎が深まった。自分が通っていた高校は新宿区にあったので、そんなことは話題に上ることはなかった。

結婚して埼玉県三郷市に引っ越すと、すぐ隣に北葛飾郡吉川町という町があった。栗橋町に住む友達に住所を聞いたら北葛飾郡だと言われた。

自分の暮らしている地域は、千葉でも、埼玉でも葛飾郡という名前がつくのが不思議だった。

ここで葛飾区役所のホームページから葛飾区を紹介している文章を紹介させていただく。

「かつしか」という地名

葛飾区は古代のかつしかと呼ばれた地域のごく一部にしか過ぎません。古代の「かつしか」という領域は広大なものでした。古代の「かつしか」は、旧南葛飾郡(葛飾・江戸川・墨田・江東区)と、千葉県市川・柏・流山・松戸・船橋市や埼玉県栗橋および茨城県古河・総和市までおよぶ広い地域がその範囲でした。

 「かつしか」の地名は、当時の葛飾郡全体の地形的特徴を捉えることで説明ができます。つまり、「かつしか」の「かつ」は丘陵や崖などを指し、「しか」は砂州などの低地の意味をもっています。「かつしか」とは、利根川流域の右岸に低地、左岸に下総台地が広がる旧の地理的な景観から名付けられたと考えられます。 

「かつしかの地名と歴史」(平成15、葛飾区郷土と天文の博物館)19頁による

葛飾という地域の正体は上記の通りである。僕を長年戸惑わせたのは、広い葛飾郡のほんの一部にすぎないのに、葛飾区というピント外れな名前をもった東京の行政区があることが原因だとわかった。

葛飾区亀有生まれの人間として、誤解を恐れずに断言させていただくと、江戸川沿いの江戸川区、荒川沿いの荒川区があるのだから、区の中央を中川が貫通する葛飾区は中川区という区名が妥当である。

百歩譲っても葛西区、南葛飾区といったところが妥当であろう。

理屈っぽい話はこれで終わり。

僕の大好きなふるさと葛飾はこんな広大な「水のある風景」の美しい水郷地帯である。

2008年7月14日 (月)

プロフィール欄の写真について

プロフィールの欄の写真は僕の家の近所を流れる坂川にかかる橋の上から南流山の町を撮影したものだ。

去年の冬「川の流れを見つめて」という小説を書いているとき、舞台となる場所を取材しておこうと夕暮れ時に川を見に行ったら、橙色の夕焼け雲を背景に輝く送電鉄塔が息をのむほど美しかった。

まるで影絵の町のようで、時間を忘れて眺め続けた。

そして、執筆中の小説のタイトルは「鉄塔が輝くとき」がいいと思った。

短編小説「鉄塔が輝くとき」は完成し、それから何度も、同じ場所を通っているが、その後この写真のように美しく輝く鉄塔を僕は見ていない。

2008年7月13日 (日)

水元公園に行った

もうじき五歳になる娘と妻の三人で水元公園に行った。もしかしたら長男が小学校一年生の時以来かもしれない。だとしたら十五年ぶりか。

強い日差しを避けて、中央広場を見渡すことが出来る木陰に腰を下ろす。

そよ風を体全体で感じると、木陰の涼しさの方に感謝する気持ちが、夏の暑さを恨む気持ちを恨む気持ちを包み込んでしまう。

送電鉄塔以外の人工物が何も見えない。ここは本当に東京二十三区だろうか。

目の前に広がる平和な風景。人と人の程よい距離感が心地いい。

こんな場所で日がな一日過ごしたら、ディズニーランドで行列に並ぶのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。

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