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2017年4月23日 (日)

かつて「資本主義の手先」やら「国家権力の犬」やら叫んで、成田辺りで暴れていた人が、いまは体制側に回って、政権を批判した者に対して「反日」とレッテルを貼る。 こんな窮屈な日本社会に、元気な若者がニョキニョキ育つわけもなく。フェンスの向こうのアメリカはヒップな生活革命だ、ポートランドのクリエイティブシティだ、メイカームーブメントだと、時代を逆走する日本をあざ笑うかのように、どんどん走り去ってゆく。その距離は開くばかりだ。

沖縄県にはベトナム戦争の頃、戦略爆撃機B52が北爆に出撃したアメリカ空軍の嘉手納基地がある。
Wikipediaによればスペックはこんな感じ。

総面積は約19.95km2。3,700mの滑走路2本を有し、200機近くの軍用機が常駐する極東最大の空軍基地である。また、在日空軍最大の基地である。
滑走路においては成田国際空港(4,000mと2,500mの2本)や関西国際空港(3,500mと4,000mの2本)と遜色なく、日本最大級の飛行場の一つということになる。面積においても、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である。かつてはスペースシャトルの緊急着陸地に指定されていた。

日本最大の空港より2倍も大きな空軍基地が、細長い沖縄本島の中央部にどっかりと存在していて、周囲をクルマで走ると、フェンスは果てしなくどこまでも続いている。
23年前、沖縄に旅行した時、この嘉手納基地の大きさに驚き、そして、フェンス中の世界と外の世界の風景の違いにショックを受けた。
ぼくが何か書かなくても、嘉手納基地を検索して、Googleの航空写真で見れば誰でも分かる。
ビバリーヒルズのような基地の中の世界。基地の外にはウサギ小屋のような小さな民家が軒を接している。
この重い事実を、本土のひとはどれだけ、わかっているのかな。

練馬に住んでいた少年時代にも、似たような風景を見たことがある。
いまは光が丘のニュータウンと呼ばれる田柄町の辺りは、グラントハイツという米軍住宅地だった。セキノ君という級友の小さな家のすぐ脇に広がる芝生が目にまばゆかった。
東京近郊では立川やら、厚木やら、本土の米軍施設が次々と返還され、今は大半が沖縄に集中しているという。
沖縄の人が毎日見ている風景は、ぼくの世代が、かろうじて既視感を覚える風景で、ぼくよりも若い人たちには、想像する気持ちすら呼び覚まさない、何の興味も、関心も持てないのかもしれない。

最近よく、日本人が右傾化していると言われる。笑わせるな。
いま日本で起きているのは、右傾化なんていう高次元な話ではなく、圧倒的多くの庶民が考えることをやめてしまっただけでしょ。
大きな声で叫ばれる、単純なコトバで、何か分かったような気がしてるだけ。
昔もあったよね。「資本主義の手先」とか、とか「国家権力の犬」とか。
警察官の家の子どもだったから、大人達からそんなコトバでレッテルをはられ、いじめられた。

かつて「資本主義の手先」やら「国家権力の犬」やら叫んで、成田辺りで暴れていた人が、いまは体制側に回って、政権を批判した者に対して「反日」とレッテルを貼る。
こんな窮屈な日本社会に、元気な若者がニョキニョキ育つわけもなく。
フェンスの向こうのアメリカはヒップな生活革命だ、ポートランドのクリエイティブシティだ、メイカームーブメントだと、時代を逆走する日本をあざ笑うかのように、どんどん走り去ってゆく。その距離は開くばかりだ。

歌手の古謝美佐子のお父さんは嘉手納基地で働いていて、彼女が3歳の時に米軍車両に轢かれて亡くなったという。彼女の歌には、そんな自分史や沖縄社会の重みが感じられる。
だから力強いし、風雪に耐えて、いつまでも残っていくのだとおもう。
戦争に負けたこと、アメリカと日本の関係、極東情勢、現在の複雑な状況や歴史のコンテクストを考慮しながら、沖縄と本土が仲良く共存できるような日本人の叡智が必要な時代になっていると思う。
○じゃなきゃ、×。白じゃなきゃ黒。そんな単純な思考で乗り切れるほど簡単な設問じゃないよ、たぶんこれは。
間違いなく、ひとつだけ言えるのは、バナキュラーな周辺文化を軽蔑し、東京の価値観一色に染め上げるような態度からは、何も生まれてこないということ。これだけは言っておく。
周辺文化への眼差しを、いまだからこそ、柳宗悦に学びたいと思う。

2017年4月22日 (土)

昨晩までは那須に行くつもりだったけど、それは諦めたから、せめて駒場の日本民藝館に行こうと意気込んでいたのだが、それすら諦めて、午前中はまったりと菊地成孔&南博のアルバム「水と花」を聴きながら、読書。

前回のエントリを書いた翌日から体調を崩して、電車で倒れたり、食中毒になったり。
もういい加減、休憩しろって、たぶん神様が教えてくれているんだろうって、忠告をありがたく受け取って、本日の予定は病院のみにした。

昨晩までは那須に行くつもりだったけど、それは諦めたから、せめて駒場の日本民藝館に行lこうと意気込んでいたのだが、それすら諦めて、午前中はまったりと菊地成孔&南博のアルバム「水と花」を聴きながら、読書。
それもめったにない、肩から力の抜けたお楽しみのための、まるでお趣味のような読書。

本の内容はイマイチだったから、特に紹介しないけど、アルバムはよかったなあ。
いままで、どうも個人的にあと一つ突き抜けられない感のあった菊地成孔が、自分の中でブレイクした瞬間。
気持ちのいい演奏に時間を忘れて、いつまでも聴いていたくて、三回も繰り返して聴いてしまった。


思えば、父親が亡くなってから、ずっと休みなしで、昨日まで走ってきたような気がする。
「懐かしき未來」を完成しても、ホッとする間もなく、バタバタと駆けずり回って。

だから今日(4月21日)は数ヶ月ぶりの完全オフ。
病院にいったら、病人扱いされて、CTだの心電図だの脳波だの、人生初の点滴まで打たれてしまったからもう、なすすべもなく。
何も出来ないから、ベッドの上でひたすらじっとしているのも、初めての経験だったけど、たまには悪くない。

落ちのないエントリだけど、ま、それだってたまにはいいでしょう。

何しろ今日は完全オフなんだから。

2017年4月 9日 (日)

実際に木が生えている状態を見に行って、その場でどのように材木として使うか考えて、伐採し製材する。 そんな努力が1000年壊れない木造建築を生むことを知り、建築観が変わるほど衝撃を受けた。

永六輔の『職人』を読んだら、その本の中にも出てきた宮大工西岡常一さんのドキュメンタリー映画『鬼に訊け』を見たくなり、DVDを見始めたらドンドン引き込まれてしまった。
あっという間の1時間半、気持ちのいい時空間に、招かれたような気分に浸った。


こんなDVDを教えてくれたのは、先日のエントリで紹介した中島睦巳さんという宮大工さん。
直接、西岡さんから技術を教えてもらった経歴の持ち主で、10数年前に那須町に移住し、現在は建築工房槐として活動している。

ぼくは古建築の保存運動を展開したウィリアム・モリスやジョン・ラスキンが好きで、ヨーロッパ中世の職人の仕事を熱く語るモリスの講演を本で読んで、感動していた。

けれども、今回DVDを見て、ヨーロッパ中世よりもっと昔、飛鳥時代の日本の職人について語る西岡さんの言葉のひとつひとつに、より深い感動を覚えた。

デザイナー、思想家として、モリスは素晴らしい。だけど、自分で手を動かして建物をこしらえる西岡さんの言葉の重みに軍配が上がる。

歴史の重みとか、自然への畏敬とか、軽く書けるけど、実際に木が生えている状態を見に行って、その場でどのように材木として使うか考えて、伐採し製材する。
そんな努力が1000年壊れない木造建築を生むことを知り、建築観が変わるほど衝撃を受けた。

そして、そういう技術が宮大工の中で、代々受け継がれてきた。
宮大工と、宮大工を取り巻く豊かな社会を作ってきた父祖たちの叡智に、いまはちょっと感動している。

坂本龍一「hibari」

2017年4月 5日 (水)

職人というのは、職業というよりは、「生き方」なのではないかと思えてきます。

先週末に那須に行って、何人かの人に会い、刺激を受けて帰ってきた。

今週は一回だけ読んで、ほったらかしにしておいた永六輔『職人』を、じっくり、ゆっくりと、読んで、本日読了した。

ものすごく、いい本だと、やっと今知った。
サラリーマン社会にどっぷり首まで使って、職人気質を忘れたのではなく、最初から知らない日本人全員の必読書にしてもいいくらい。
かつては、こんな日本人が、日本中どこにでもいた。ぼくの生まれた村でも、育った町でも。

職人というのは、職業というよりは、「生き方」なのではないかと思えてきます。
職業は途中でやめることができますが、生き方は途中でやめるというもんじゃありません。体力が落ちて、現場がつとまらなくたって、睨みをきかせることはできます。

珠玉の言葉のひとつひとつが、天から舞い降りて、サラリーマン社会でぱさぱさになった僕の心に、希望の灯をともす。
そして、この本の白眉がこの部分。

いま使い捨ての道具がおおはやりですね。
たしかに便利です。
でも、そういう便利さとのひきかえに、ほんとに手づくりでなければできなかった仕事をしていく人がいなくなっちゃお終いなんだから、いなくなるまえに、その人たちを守らなければいけない。
守るためには、その人たちの品物を買わなくちゃいけないんです。
別に高く買う必要はないけれども、その人たちがやってきた仕事に対しての正しい報酬を払う。
そして、それを身につけ、生活に使う。
僕はそれがほんとうの豊かさだと思うんです。

永さんは、その言葉を実現するために「1100人の会」といって、百人の若い職人を選んで、千人で買おうという組織に加わった。
いまは会員の高齢化もすすみ、10年前のブログを見ると、会員150人と書いてあるから、いまは自然消滅しているのかな。

永六輔さん亡き今、永さんのやり残した仕事をつないでゆくことも、ぼくたち世代の仕事かなあと、考え始めている。

プリシラ・アーン「風をあつめて」

2017年3月25日 (土)

3.19那須町にミラクルな風が吹いた一日(後編)

で、3.19ですが、まずはこの画像を貼ります。

Photo

栃木県の地方新聞下野新聞の記者渡辺さんが、記事にしてくれました。

発行元「青空公房」の名前が載っていないのが、チョイと残念ですが、栃木県の読者には版元など、どこでもいいわけで、こうして那須町で「懐かしき未來」が町の人に愛され、育まれてゆくことが大切なコトで、版元冥利に尽きるんです。

取材の内容は、上記の記事にある通り。

取材が終わると、ブックデザインもやってくれたアーティスト大平夏澄さん、菊地さんご夫妻と、持ち寄り形式で、ささやかな出版記念パーティになりました。

ぼくが持って行った獺祭の一升瓶は、やがて空になり、八海山が登場したところまでは、明確に覚えているのですが、床についた時の記憶はハッキリせず、それでも悪酔いもしなかったのは、よほど楽しい宴だったということかなあと、みなさんに感謝しています。
もしかすると、3.19は長い間の夢がかなった、人生最高の記念日のひとつになってゆくかもしれませんね。

まあ、3.19はこんな気分ということで、名作「雨にスーダラ節」を。

3.19那須町にミラクルな風が吹いた一日(前編)

先週も那須町に行った。
いろいろな人に会うのが目的だったけど、それぞれみんな素敵な人たちで、夢見心地の気分で過ごした、生涯忘れられない一日になった。

那須には数え切れないほど沢山の温泉があって、どこも大好きだけど、一番和むのは那須塩原市の板室温泉グリーングリーン。公営なので、いつでも500円で入れるのが嬉しい。
小原庄助のように朝風呂に入って、そのまま火照った体で、板室街道を南下し、一路黒磯の街の中に入ると、有名なSHOZO CAFEがある。
そのSHOZOの手前角の、一見普通の民家風建物がおいしい薬膳の白牡丹。

20170319_2

20170319_3

料理もデザートも絶品。店主の金井ひかりさんが、健康的で、笑顔が輝いていて、薬膳の効果を自分自身で体現している。
もちろん、「懐かしき未來」の販売店さんである。

20170219

そこから那珂川を越えて、那須町に入り、4号国道をどんどん走って、約20分で建築工房槐(えんじゅ)の中島睦巳さんの工房にお邪魔する。

京都の出身で、いまは那須に拠点を構える宮大工。
芦野のお祭りで、出会って、少し話した時に、なにか惹かれるモノを感じたので、じっくり話をしたいと思って、訪ねた。
1時間余り、いろいろ話をしたのだが、YouTubeに中島さんの人となりがよくわかるインタビュー番組があったので、リンクをはっておきます。

ぼくにとっては、初めて聞く話と、初めて見る道具類で、大変いい刺激を受けた。
建築の世界の奥深さを教えてもらった気がする。

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2017年3月18日 (土)

いまの茶の湯の世界には「貧の茶」「平常の茶」があるのかしら、最近気になってしかたがない。

「懐かしき未來 その2」を作っているウチに、30代の頃、熱中した柳宗悦への関心が復活してしまい、その熱中度合いがとうとう永井荷風愛を上回ってしまったので、ブログの看板も「新葛飾土産」から「青空公房のブログ」に変えることになってしまった。

そこで、久しぶりに『民藝四十年』を読み返した。
この名著の中でも一番、今回感慨深く読んだのが「利休と私」という罪作りなエッセイ。
そこにはこんなコトが書いてある。

利休というと「茶」では神様のようにいう人が多い。近頃学術的な研究も盛んになったが、初めから鵜呑みに無批判に有り難がっている人々が多い。

だが、どういう道を通って、利休はその位置を得たか、利休の生涯を見ると、彼は転々として、当時の権門に仕えた。始めは信長に仕え、次には秀吉に侍り、その他の諸大名、諸武将、さては豪商と歩き廻った。

純粋に茶の道が立てられたというより、権門を利用して「茶」を栄えさしめ、また「茶」を利して権門をあやつったともいえる。かくて「茶」は政治的にまた経済的に活用された。

かかる「茶」は「民衆の茶」ではなかった。常に権力とか金力とかの背景を求めた。大名とか武将とか豪商とか、それらの人々を忘れずにかついだ。またそうすることで「茶」を拡めた。「わび茶」とはいうか、一種の贅沢な派手な「茶」で、主として富や力にものをいわせた。

もしも、権勢に媚びず、もっと民間に「貧の茶」、「平常の茶」を建てたら。茶道はずっと違ったものになったと思われてならぬ。「わび茶」は貧を離れては、よもや徹したものとはなるまい。力や金を利用したことで「茶」が普及したともいえるが、そこに早くも「茶」の堕落が兆したともいえる。今も「茶」は貴族的な「茶」に落ちがちであるが、一度は金力を茶から追放すべきである。金力があってもかまわぬとしても、金力に敗れるような「茶」は、「茶」たる資格を持たぬ。

これを読んで、利休を神のように慕うヒトたちの中に入っても、自分の居場所はないと思った。その後、利休について少し勉強し、赤瀬川源平の『千利休無言の前衛』はとても面白い本だったので、愛読書になったが、それでもぼくの利休嫌いは、訂正されることはなく、今に至る。

そして、柳は、民間に「貧の茶」、「平常の茶」を建てることなく、モデルを示すこともなく、世を去った。いまだに「茶」に入門することも出来ず、悶々としていたところ、「和楽」という雑誌で「茶の湯レボリューション」という特集を組んでいる。柳宗悦にも言及しているというので、期待して買ったけど、利休を神格化してチェ・ゲバラと並ぶ革命家だという???の内容だった。

逆風の中、ひとり巨大な力と戦いながら、道なき道を歩んでゆくのが、革命家たる所以でしょう。ちょっと無理があるね。
「懐かしき未來 その2」では、贅沢品としてのきものではなく、普段着としてもきものにスポットライトを当ててみた。
柳が亡くなって50年以上経つが、いま、茶道が廃れていると聞いた。
昔は茶道か華道が花嫁修業の必須科目だったイメージがあるが、いまの茶の湯の世界には「貧の茶」「平常の茶」があるのかしら、最近気になってしかたがない。

今日の一曲は、ボブ・ディラン「ライク・ア・ローリング・ストーン」。
ディランのライブの中でも一番有名な、伝説的な場面なので、下記のようにWikipediaに説明があった。
それまで誰も聞いたことのない新しいロックを創造する中で、ブーイングに耐えられず、ツアーのバンドメンバーが次々と離脱する中で、残った5人のメンバーと奏でるロックは、どんな大音量のロックよりも激しく心を揺さぶられる。
ドラマーのレボン・ヘルムが耐え切れず、一時的に離脱したので、ドラムだけがのちのザ・バンドじゃないのだが、このパワーだけドラマーがこのときのライブには、あまりにもマッチしていて、嵐のようなサウンド作りに貢献している。一期一会の奇跡的ライブだと思う。

聴衆の一人が "Judas!" 「ユダ!」(「裏切り者」の意)と叫ぶと、それに続いていくつかの拍手が起こる。さらにもう一人が "I'm never listening to you again, ever!" 「お前なんか、今後二度と聴かないぞ!」と叫ぶと、ディランは、 "I don't believe you." 「お前のことは信じない。」しばらく沈黙した後 "You're a liar." 「お前は嘘つきだ。」 と言い、バックのバンドに向かって "Play it fuckin' loud." 「やかましく演奏しよう」と呼びかけ「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏が始まる。

2017年3月12日 (日)

ブログのタイトルをDIY出版「青空公房」のブログに変更しました。

ブログのタイトルを「DIY出版青空公房のブログ」に変更しました。
ブログを始めた2008年の頃と違って、いまはSNSも発達して、個人的なつぶやきはSNSで
吐露出来るから、ブログはある程度、コントロールして書き込むようにしていたんだけど、なかなか「新葛飾土産」という21世紀版葛飾の永井荷風という場所の居心地がよくて、抜けられませんでした。

でも、ひとまず青空公房として、2冊本を出版して、DIY出版社として継続してやってゆく自信も芽生えているし、自分が暮らしている葛飾と言われる江戸川両岸の情報を伝えるというよりも、シリーズ「懐かしき未來」の出版とDIY普及活動を通して、那須町を中心にいろいろな地域を繋いでゆくという自分自身の方向性が明確になってきたので、「DIY出版青空公房のブログ」としました。

青空公房のウェブサイトも、いずれ作るつもりです。

ぼくの関心も江戸や荷風さんから、もう少し幅広く、1920年代の生活文化や、ウィリアム・モリス、柳宗悦へと戻っている感じもあって、那須高原でセルフビルドをやっていた1990年代に熱中したモノやヒトへの関心も再び芽生えていて、人生も終わりに近づいているから、このあたりでいったん集大成しないと、先に進めないという気分なのかもしれません。

1990年代に熱中していたのが沖縄の文化で、中でも芸能の島といわれる沖縄音楽が大好きで、それこそ朝から晩まで、沖縄音楽を聴いていました。

だから、全てのアルバムを持っていた初代ネーネーズの4人のうち3人が、数年前にうないぐみとして戻ってきたのは、大きな喜びでしたね。
それも、ネーネーズそのものじゃなく、2010年代の新しい音楽だから、至極満足しました。

ぼく自身も元気いっぱいだった1990年代に戻ることは不可能だけど、当時は出来なくて、いまだから出来ることも、たくさんあるわけだから、それを探して出来ることをやっていきたいと、還暦を前に決意したところです。

2017年2月26日 (日)

名称は「生活文化ライブラリー@青空公房」として、日本流のきものや住まいなど、生活文化に関連した本を、緑茶でも飲みながら楽しんでもらえるような場所にして、「懐かしき未來」に共感してくれる人たちが集える空間になればと考えています。

先週、「懐かしき未來 その2」の発行を終えて、三日間販売店さんを駆けずり回って、一週間たったところで、これまでの疲れがどっと出たのか、体調を崩してダウン。

ちなみに取扱店は下記の通り。

【那須エリア】
金子書店(黒田原)
大原レストラン(黒田原)
那須きものスタイル(黒田原)
遊行茶屋(芦野)
隠居の間(芦野)
駄菓子屋ちゃ色(伊王野)
白牡丹(那須塩原)

【千葉県市川市】
ブックカフェ ローゼンホルツ
雑貨カフェ Tree-B

まだ販売店は増える可能性もあるので、その都度紹介しますが、いずれも個性豊かな店主さんたちが運営するお店で、ぜひ訪れてもらいたい場所ばかりです。

行き方が分からない人は、最初に黒田原駅前にある金子書店さんを訪ねてもらうと、教えてくれると思います。まちの駅にも指定されている本屋さんで、コーヒーやお酒も楽しめる、面白空間です。

那須のへそ 黒田原まちの駅のまちの駅

そういや、金子書店さんはミニFM局をやっているらしい。
80年代に自由ラジオっていうミニFM局がちょっと流行した時期があって、
粉川哲夫「これが『自由ラジオ』だ」っていう本を読み耽ったことがありました。

古い本で画像もないけど、紹介だけしますから、バカ高いAmazonじゃなく、フツーの古本屋さんか、図書館で見て下さい。
インターネットのない時代に、名もない一個人が安価に情報発信するための、ノウハウが書いてあって、ぼくはこの世界に一気に引き込まれてしまいました。
といっても、何も出来ずに歳月が流れ、金子書店さんを知ったことは、とても嬉しいです。

 

ひと仕事終えたばかりで、まだまだ気が早いのかもしれないけど、何年も前から、構想だけは作ってきた読書空間もことしの夏頃までにはオープンにこぎ着けたいと思います。

名称は「生活文化ライブラリー@青空公房」として、日本流のきものや住まいなど、生活文化に関連した本を、緑茶でも飲みながら楽しんでもらえるような場所にして、「懐かしき未來」に共感してくれる人たちが集える空間になればと考えています。

今日はたまに演奏を聴きにゆくユニット「あわいびと」のメンバー中村力哉さんのピアノで「朧月夜」をまったりと楽しみます。

あわいびと

数年前、あわいびとの那須ライブを見逃したのが、とても残念だけど、こうして家でピアノを聴いているだけで、癒やされます。

2017年2月18日 (土)

都内を転々とした、ふるさと喪失者のボクにとって、那須町はいくつかあるふるさとの一つになり始めている。「ありがとう黒田原」

ずっとお知らせしている「懐かしき未來 その2那須町できものの風が吹き始めた」が完成して、20日に発行されます。

最初にDTPでこういう本を出そうと考えたのが、WIN95が出てすぐだったから、1996年頃だったかな。
いまは恥ずかしいと思うけど、当時はいいと思ったタイトル「はっぴい愚連隊」という冊子造りが最初のチャレンジ、これは未遂に終わって、「はっぴい愚連隊」の残党で、一号だけ作ったのが「わがまま生活」。
「農薬をなめたらあかんぜよ」とか、ばかばかしいタイトルの記事を、考えてはボツにし、誰が読者になってくれるのか、わからないお馬鹿なリトルマガジンは、自然消滅した。

その後も、メンバーを集めては失敗し、また再起しては失敗し、途中で諦めて、郷土史研究や、産業考古学や小説書きに手を染めたりして、もの書きに専念しようかと考えた時期もあったけど、やっぱり、エディターというか本作り職人になる希望は捨てられないと思い直し、おととし暮れに企画から、原稿執筆、編集、印刷、製本、販売まですべて自分一人の作業で通した「懐かしき未來 その1」を出して、きっかけをつかめたように思う。

「はっぴい愚連隊」から、ここまで、どれだけ長い道のりだったんだろうって思うし、今回のこの本でも実際最後の最後まで、いろんな苦難が続き、漫画スラムダンクの桜木花道じゃないけど「神様、そんなに私のことがお嫌いですか」とつぶやきたくなるような事態も、散々くぐり抜けてきた。

けれども、山登りで頂上まで上り終えた気分とでもいうか、終わってしまうとスッキリ、この20年間で楽しかったことしか思い出せない。

いまは、ひとまず、ありがとう黒田原!と言いたい。
黒田原と芦野の間にある富岡の新文化人村に仲間と合宿して、那須高原まで通って、山小屋を作った。
黒田原の室井金物店さんに寄り、砂利や砂の配達を依頼したり、駅前のセキスーパーでラム肉を買って、北海道生まれの友人とジンギスカン鍋をやったり、いま思うと、そのころから黒田原、芦野という那須町の中心地との縁が始まっていたように思う。

そして今、黒田原の「那須きものスタイル」の菊地厚子さんという望みうる最高の伴走者との出会いがあって、一緒に本を作ることが出来た。

黒田原といえば、こんなエントリに反応してくれたUさんからの連絡も嬉しかった。

ちょっとショックだったのは黒田原駅近くの商店街を車で通ると、古い木造のいい感じの郵便局など、震災の爪痕が生々しく残っていて、首都圏では考えられないくらいひどくやられて、放置されたままになっていること。

それもこれも、みんな黒田原という町との関わりから始まっている。
深い、えにしを感じる。
少年時代、都内を転々とした、ふるさと喪失者のボクにとって、那須町はいくつかあるふるさとの一つになり始めている。「ありがとう黒田原」。
山小屋に帰ってきて、一人で酒を飲み始めたら、そんな言葉が自然と頭に浮かんだ。

気がつくと、長いエントリになっていた。
ここらで音楽に行こう。

文章を書き終えた瞬間に頭に浮かんだのが、この曲。
那須町によく似た環境のアメリカのウッドストックという町を代表する名曲。
リック・ダンコの『スモール・タウン・トーク」

«1ケース分のワインを飲んでも、私は一人で立っていると言い放つ絵描きの女性が、かっこよくて、まるで映画の1シーンを見ているような爽快感があります。

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